Paul Krugman, “The Moneyed Are Rarely Modest,” Krugman & Co., October 3, 2014.
[“Having It and Flaunting It,” The Conscience of a Liberal, September 24, 2014]
お金持ちに質素な人はめったにいないけど:見せびらかしの経済
by ポール・クルーグマン
デイヴィッド・ブルックスが先日『ニューヨーク・タイムズ』に書いたコラムで,お金持ちは「つつしみの規範に従う」べきであって,彼らのお金で手に入る贅沢な生活スタイルを送るべきでないと提案している.彼はこの件でけっこうからかわれているみたい.ぼくとしては,そのからかいの声に加わりたくはない.そのかわりに,富を見せびらかすことの経済学についてちょっぴりおはなししてみよう.
まず言っておくべきことはこれだ――お金持ちが富を見せびらかさないよう期待するのは,もちろん,非現実的だ.お金持ちも1950年代や60年代にはもっと節度があったように感じてるなら,それは,彼らが絶対的にみても相対的に見てもそれほどお金持ちじゃなかったせいだ.ぼくらの社会に今日ほどの格差があった時代は,前にもあった.そのときにもやっぱり大邸宅やらヨットやらは,あらゆる点でいまみたいにこれ見よがしな代物だった――マーク・トウェインがその時代を「金箔時代」と呼んだのにも理由があったわけだ.
それ以上に,お金持ちの多くにとって,見せびらかしこそがすべてだ.10,000平方メートルの豪邸に暮らすのは,2,000平方メートルの豪邸に暮らすのと比べてそんなに素敵なわけじゃない.きっと,350ドルするワインの味がちゃんとわかる人もいるんだろうけど,その手の高級品を買う人たちの大半は,20ドルのワインにすり替えたって味の違いなんか気づかないだろうし,もしかするとトレイダー・ジョーの2ドルワインでもまだわかんないかもしれない.すんごいモノのいい衣服だって,着る人にとっての効用の出所は,「他の人たちにはとても買えない」って事実にある.というわけで,この手のことの眼目は,ほぼ見せびらかしにある――もちろん,社会学者にして経済学者のソースティン・ヴェブレンの著作でこの手の話を知ってた人もいるだろうね.
じゃあ,なんで所得に課税するかわりに,お金持ちの見せびらかしを目の敵にするの? たしかに,課税するとお金持ちになるインセンティブを削いでしまうって議論はできる.でも,それを言うなら,ぜいたく禁止令だって同じだ.ぜいたくを禁じれば,お金持ちになる眼目をつぶしてしまうし,それどころか,「つつしみの規範」も同様だ.つつしみを強いれば,やっぱり富をみせびらかす楽しみは減ってしまう(人々は大量のお金をまさにそんな見せびらかしのために欲しがっているってのに).
それだけじゃない.「富を見せびらかしてる連中がいるのは社会にとってわるいことだ」と思ってる人は,事実上,「巨大な富は,当人以外の国民にマイナスの外部性をおしつける」という見解を受け入れてることになる――この見解は,歳入の最大化以上のことを追及する累進課税を提唱するのと同じだ.
あと,もうひとつ:そういう主張が経済成長についてどんなことを言うことになるか,考えてみてほしい.ぼくらが暮らしてる経済は,1980年とくらべて大幅に豊かになってる.でも,その増加分の大半は,すごい高所得の人たちのふところに入ってる――そうした人たちにとって,支出を1ドル余計に増やしたときの限界効用はたんに低いってだけじゃなく,その効用は地位競争に大半が由来してる.そして,地位競争ってのはゼロサム・ゲームだ.そのため,ぼくらの経済成長の多くは,たんに無駄に費やされてる.ひたすらに,高所得者層の競争ペースを加速するだけになってる.
さて,そろそろ徒歩と通勤電車でつつしみ深くオフィスに通う時間ですな.そんで,自分の道徳的な優越性にほくそ笑んで,あんまり学術賞をとってない連中をあざ笑うとしましょうかね.って,おい.
© The New York Times News Service