マーク・ソーマ 「市場恐怖症」(2006年1月14日)

●Mark Thoma, ““The Fetters of Ignorance, Self-Deception and Intemperance””(Economist’s View, January 14, 2006)


「消費者が・・・(略)・・・市場で冷静沈着に選択できるように、どうにか誘導する必要性」は果たしてあるだろうか?

The aggro of the agora, Consumers fail to measure up to economists’ expectations” by The Economist

「消費者こそが最終的な判定者だということを受け入れなければならない」(“We must accept the consumer as the final judge”)。アメリカ経済学会(AEA)の会長を務めたこともある経済学者のフランク・タウシッグ(Frank Taussig)が1912年に語った言葉だ。・・・(略)・・・つい先日開かれたばかりのアメリカ経済学会の会合で、はっきりと浮かび上がってきた論点がある。「消費者主権」を尊重するのが経済学者の間で長年の慣わしになっているが、そのことに疑問を投げかける声があちこちから上がったのである。・・・(略)・・・アメリカ金融学会(AFA)の会長であるジョン・キャンベル(John Campbell)は、一般家計による資産運用の不手際を逐一列挙した。株式への投資が少なすぎるし、もっと多様な資産に分散投資すべきだし、住宅ローンを借り換えるタイミングが遅いし・・・等々。アメリカ経済学会の会長を務めるダニエル・マクファデン(Daniel McFadden)も訴える。1980年代から今日(こんにち)までの間に、市場の自由化に向けて「規制」という名の軛(くびき)が次々と解き放たれてきているが、消費者が「無知、自己欺瞞、放縦」という軛(くびき)から解き放たれない限りは、市場の自由化が期待通りの効果を上げることはないだろうというのだ。

マクファデンの主張の根拠になっているのは、ニューロエコノミクス(神経経済学)の研究成果だ。ニューロエコノミクスのこれまでの研究成果によると、はるか昔にアダム・スミスが指摘した通りに、人間の本性には「交換性向」(“propensity to truck, barter and exchange”)が備わっているらしいことが確かめられているという。脳スキャン技術を利用した観察結果によると、「交換性向」は大脳辺縁系のあたりに潜伏しているようだというのだ。大脳辺縁系というのは、闘争本能、防衛本能、食欲といった動物的な本能を司る脳の原始的な部位にあたる。マクファデンは、冗談交じりに語る。「ショッピング(買い物)とセックスは、同じ穴の狢(むじな)と言えるかもしれませんね。同じ神経伝達物質を共有しているわけですからね。同じ受容体を共有しているわけですからね」。

しかしながら、市場での取引(売り買い)に(大脳辺縁系が刺激されて)誰もが快感を覚えるとは限らない。嫌気を覚える人もいるだろう。市場というのは、「見通しが悪くて、波乱に満ちた荒野のような場所」という顔も持っているからだ。そんな厳しい環境の中で何を買うかを選択しないといけないとなると、自分の判断に自信が持てずに、陳列棚に並べられている商品もそれを売り付けてくるお店も疑わしく思えてくる消費者もいるかもしれない。しくじりを犯してしまう――思いのほか買い過ぎてしまったり、いらないモノを買ってしまったりする(買ってから後悔する)――可能性は、いつだってあるのだ。しかしながら、それと同時に、「人格を磨く」機会が開かれているのも確かだ。しくじって痛い目に合うことで少しずつ学んでいけば、市場で生き抜いていけるだけの「合理的な主体」に近づけるかもしれない。しかしながら、マクファデンは懸念する。しくじりを繰り返すうちに、消費者は、(「合理的な主体」に近づいていくのではなく)「市場への嫌悪感」を募(つの)らせてしまうかもしれないというのだ。「『選択の機会』が『しくじりを犯す機会』であるかのように、『ばつの悪い思いをする機会』であるかのように、『後悔の念に駆られる機会』であるかのように、受け取られてしまうかもしれません」。マクファデンは、ギリシャ語に由来する「アゴラフォビア」という語を引っ張り出してきている。「広場恐怖症」を指す語として通用しているが、直訳すると「市場(広場)に対する怖れ」という意味になる。・・・(略)・・・「消費者は、市場での取引にイライラを募らせて、・・・(略)・・・得られる利益が小さいようなら取引に応じようとしない傾向にあるのです」。

・・・(中略)・・・

マクファデンは、・・・(略)・・・さらにもう一歩踏み込む。「消費者が市場で冷静沈着に選択できるように、どうにか誘導する必要があるかもしれません」。タウシッグをはじめとする先達からすると、マクファデンのこの発言は異端の説に聞こえるだろう。というのも、経済学者には、選択(その人が何を選んだか)というデータ(所与の事実)を観察することを通じてその人の好みを推測するくらいしかできないというのが、タウシッグのような先達の言い分だからである。A氏が何を選んだかを抜きにして、A氏の好みに一番適(かな)うのは何なのかを知っているかのように語るのは、選択から好みを推測するというロジックに反するだけでなく、思い上がりも甚だしいというわけだ。経済理論で消費者の行動(選択)をうまく説明できないようなら、問題は理論の側にあるのであって、消費者の側にはない。しかしながら、マクファデンは、それとは正反対の結論になびいているように思える。経済理論で消費者の行動(選択)をうまく説明できないようなら、消費者を「鋳直(いなお)して」理論に近づけたらいいというのだ [1]訳注;この記事で紹介されているマクファデンの研究を詳しく知りたいようなら、次の論文を参照されたい。 ●Daniel McFadden, “Free Markets and Fettered … Continue reading

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1 訳注;この記事で紹介されているマクファデンの研究を詳しく知りたいようなら、次の論文を参照されたい。 ●Daniel McFadden, “Free Markets and Fettered Consumers”(American Economic Review, Vol.96, No.1, March 2006, pp. 5-29)
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