Lars Chistensen, “Overestimating risk makes us do stupid things,” (The Market Monetarist, March 30, 2016)
ベルギーでの熾烈なテロ攻撃はヨーロッパにおけるテロリズムへの恐れを大きく増大させた。ヨーロッパ大陸全域で政策立案者に過激主義者との戦いの新基準が求められ、大衆主義の政治家たちは早々にヨーロッパの国境封鎖を掲げている。しかし本当のリスクは、これらの新基準による経済的損失が実際のテロのリスクを優に上回ってしまいかねないことだ。
実際には今日ヨーロッパでテロリズムによって殺される人の数は1970年代や1980年代、冷戦時代よりもはるかに少ない。更にもっと重要なことには、テロ攻撃によって殺されるリスクは極めて小さい。
事実、アメリカ国家テロ対策センターの報告では、テロリストに殺されるのとほぼ同じくらい、アメリカ人は年間に「テレビや家具に潰されて死ぬ」。では、テロ攻撃によって殺されるリスクと交通事故によって死ぬリスクを比べるとどうなるだろうか。
2000年以降で最も多くの人がテロによって殺された年を例に取ってみよう。2004年にはヨーロッパ全体で200人近くの人がテロ攻撃によって殺された。2004年はマドリッド列車爆破テロが起こった年だ。これと交通事故による死者の数を比べてみよう。最新の統計によるなら、ベルギーで746人、フランスで3268人、スペインで1730人だ(いずれも2013年)。交通事故で死ぬ確率はとても小さい。しかしテロ攻撃によって殺されるよりもはるかに起こりうる。別の言い方をしてみよう。2001年に911テロで殺された人よりも毎年フランスで交通事故で死んでいる人は多い。
その事実に反して、交通事故に言及する政治家がほとんど見られない一方で、基本的にすべてのヨーロッパの政治家がテロリズムの脅威に「何らかの対処をすべき」と叫んでいる。
私はヨーロッパ政治の「何らかの対処をすべき」とする傾向には二つの根本的な原因があると考えている。(これはテロリズムの事例に限らず、環境に対する議論にも当て嵌めうる)
第一に、心理学者が示しているところでは、人間は一般的に滅多に起こらない事象のリスクを見積もるのが苦手であり(テロ攻撃によって殺されることはこれに当たる)、それらのリスクを著しく過大評価する傾向がある。
第二の原因は、アメリカの経済学者、ブライアン・カプランが「合理的なる非合理投票者」と呼んだものだ。ここでカプランが意味するところでは、ある個人の票が選挙の結果に与える影響はごく限定的である、といった合理的な判断は投票の過程で我々投票者が下す必要は無い、となる。それゆえ、合理的な非合理、無責任、無知と呼ぶ。〈訳注1〉
その結果、車を買うとか投資をするといった決断をする時と違い、政治的判断をする時には恐怖や幻想に振り回される。政治家たちはこのことをとてもよく知っており、これらの恐怖を利用することに躊躇しない。結局のところ、有権者に統計を示したとしてもそれが当選につながることは滅多に無いのだ。
しかし私たちは――個人としての生活にしても政治判断にしても――恐怖の迷宮に迷い込んではならない。最善の方法はイギリス人が言っている――「心を鎮めよ、そして歩み続けよ」〈訳注2〉。それはヨーロッパ市民にとってテロリズムが危険要因であることに目をつぶっていい、ということではない。しかしもし私達が恐怖に振り回されて政策を決定するとすれば、それは確実にテロリストの勝利なのだ。
*この記事はアイスランドの新聞、“Frettabaladid”の論説を転載したものである。
訳注
1.「合理的な非合理」に関しては、ブライアン・カプラン著「選挙の経済学(原題:The Myth of the Rational Voter)」を参照にできる。なお、翻訳者個人の意見としては、ここでカプランを引き合いに出すのは間違った解釈と思われる。
2.この部分は原文では”calm down and carry on”となっているが、”keep calm and carry on”を引用したものと思われる。
翻訳お疲れ様です。
「第二の原因は、アメリカの経済学者、ブライアン・カプランが「合理的なる非合理投票者」と呼んだものだ。ここでカプランが意味するところでは、ある個人の票が選挙の結果に与える影響はごく限定的である、といった合理的な判断は投票の過程で我々投票者が下す必要は無い、となる。それゆえ、合理的な非合理、無責任、無知と呼ぶ。」
⇒第二の原因は、アメリカの経済学者、ブライアン・カプランが「合理的に非合理的な」投票者と呼んだものだ。カプランが語る「合理的な非合理性」とは何か? 一人ひとりの一票が選挙の結果を左右する可能性はごく限られたものであり、そのためもあって有権者たちは投票を行う際に合理的な判断を下すとは限らない。有権者たちは非合理的で無責任で無知な判断を「合理的に」下す可能性がある、というわけだ。
・・・といった感じになるのではないかと思われます。
指摘された部分は、原文に忠実に訳そうとしたまでですが。それでは読み手には理解しにくいということもわかってはおります。カプランの「選挙の経済学」は日本語版を随分以前に読みました。そこでは、「個人個人の票は間違ったものが多く含まれているとしても全体の結果としてはそれほど間違った人が選ばれはしない。なぜなら、間違いはランダムに起こるのだけれども、正しい票はランダムではないから。かつて流行ったTVショー「クイズ・ミリオネア」においては、観客に答えを求めると、非常に高い確率で正解となる。それは観客が高い知識を持っているからではなく、誤答はランダムに(ほぼ4分の1ずつ)起こるのに正解はランダムではないから。ならば、たとえ非合理な判断が多く含まれていても、多数決の結果は合理的なものとなる。」この考え方は随所に出てきます。ところが、私の解釈では、クリステンセンの文章を読むと、「合理的な非合理」がどうつながってくるのか、よくわかりません。よくわからないまま訳した私は非難されるべきか。そうかもしれません。実は現在、「The Myth of the Rational Voter(原著)」に挑戦し始めましたが、全部読み上げてからでは、翻訳終了まで時間がかかりすぎるもので。
蒲生暁与
“What Caplan means by this is that in the voting process we as voters don’t really have to make rational assessments as the likelihood that our individual vote will mean anything for the outcome of the election is very limited.”という文章の述部の部分(in the voting process we as voters don’t really have to make rational assessments as the likelihood that our individual vote will mean anything for the outcome of the election is very limited.)のas the likelihood以降の文章は「有権者が投票を行う際に合理的な判断を下すとは限らない」(in the voting process we as voters don’t really have to make rational assessments)理由を説明したものだと考えられます(asはここでは「~なので、~だから」という意味だと思われます)。
つまりは、as the likelihood以降の文章は「一人ひとりの一票が選挙の結果に幾ばくかの意味を持ち得る可能性はごく限られているので」(“as the likelihood [that our individual vote will mean anything for the outcome of the election] is very limited”)という意味になるかと思います。
ということで、全文をそのまま訳すと、「カプランが『合理的な非合理性』ということで何を意味しているかというと、一人ひとりの一票が選挙の結果に幾ばくかの意味を持ち得る(選挙の結果を左右する)可能性はごく限られているために、有権者が投票を行う際に合理的な判断を下すとは限らない、ということである」というようになるかと思います。
なお、蒲生さんが『選挙の経済学』の中に随所に出てくる考えとして指摘されている意見はカプランが反対している考えですね(スロウィッキーらの意見)。「多くの人々の意見を集計してもバイアスはなくならない」(集計の奇跡は起こらない)というのがカプランの考えであり、それを説明する理論的な道具立てとして持ち出されているのが「合理的な非合理性」のアイデアということになります。「合理的な非合理性」というのは簡単に言うと、有権者は投票の際に「非合理的な信念」(=科学的な妥当性という点に関しては疑問符がつくものの、自分の世界観にうまくマッチする信念・思い込み)に従って意思決定する傾向にあるという話になりますが、どうしてそうなるかという理由がまさしく「一人ひとりの一票が選挙の結果に幾ばくかの意味を持ち得る可能性はごく限られている」からということになります。「一人ひとりの一票が選挙の結果に幾ばくかの意味を持ち得る可能性はごく限られている」(言い換えると、自分の選択(選挙で誰に投票するか)と最終的な結果(選挙で誰が当選するか)とのつながりが薄い。仮に私がA候補に投票したとしてもA候補が当選するとは限らない)という投票制度に備わる特徴が持つ意味についてはアンソニー・ダウンズの「合理的な無知」(https://en.wikipedia.org/wiki/Rational_ignorance)のアイデアをはじめとして政治経済学(あるいは公共選択論)の分野で数多くの研究の蓄積があり、カプランの「合理的な非合理性」もその系譜に連なるものだといえます。
hicksianさん。
ご指摘、ありがとうございます。今一度、調べているところです。
ブライアン・カプランの説明の部分を読み返してみました。「我々が必ずしも投票時に合理的な判断をしなくても良い理由は、個人の票が選挙の結果に及ぼす影響力は非常に限られているからだ。」とする方が、確かにしっくりきます。私の英語力の不足を思い知らされた次第です。
クリステンセンの文章は入り組んでいてわかりにくいことがたまにありますね(今回の文章もその一例と言えるかもしれません)。私はたまたまカプランの「合理的な非合理性」の話を知っていたので(「この文章で言いたいのはあの話だろうな」と)何とか誤魔化されずに済んだ(笑)というだけの話なのかもしれません。わかりにくい文章を書くクリステンセンが悪い、ととりあえずまとめておくことにしましょう(笑)(あまり大きな声では言えませんが、『The Myth of the Rational Voter』は原書で読んだ方がいいかもしれませんね。理由は・・・あまり大きな声では言えないような理由なので黙っておくことにします)。