USスチール買収の件について書こうと思ってたけれど,鉄鋼業の歴史について読むべきものが積み上がってしまってる.そこで,そっちは明日に回さなくちゃいけない.さしあたって,マクロ経済の話を手早くやるとしようか.
大いに待望されていた「ソフトランディング」(軟着陸)が,ふつうなら一筋縄でいかないはずなのに,どうやらアメリカでは達成できそうだという点で,大半の評論家たちの見解は現時点で一致してる――雇用や賃金に痛手を与えずにインフレ率を下げるという難業が成し遂げられそうだ.というか,ぼく個人が「ソフトランディング」と呼んでいただろう結末よりもずっといい結果になっている――「無痛のインフレ鎮静化」と呼んでいいものに近い (“immaculate disinflation”).
「インフレと失業率には,あっちを減らしたらこっちが減るトレードオフが短期的に成り立っているはずだ」と,総じて経済学者たちは考えている.ようするに,インフレ率を下げれば大勢の人たちを失業させることになって,その人たちはモノをあまり買わなくなって,そのせいで需要が減って,物価が下がる.これが「オールド・ケインジアン」の考え方だ.どんなモデルを立ててどんなパラメーターを使うかによって,ニュー・ケインジアンのモデルの多くの仕組みができあがる.
ただ,これはたんに理論だけの話じゃない――過去に実際にそういうことが起きてる.下の図を見てほしい.これは,ポール・ヴォルカーが1970年代にインフレーションを終わらせたときの状況を示してる.ヴォルカーが金利を引き上げたのが見えるね(緑の線).これによって,インフレ率が下がった(青い線).でも,同時に失業率が大幅に上がっているのも見える(赤い線):
これが「ハードランディング」(硬着陸)だ.今回もこれと似たことが起こると,大半の経済学者たちは考えていた.2022年中盤に実施された調査では,質問を受けた47名の経済学者のうち4分の3が,こう答えている.「2024年の年初よりも前に景気後退が起こる」:
「じゃあ,どうしてその経済学者たちは間違ってしまったの? そして,どうやってこんな偉業が達成されたの?」 これに答える基本的な理論は3つある.
理論 1: 「長い一過性インフレ」説
ポール・クルーグマンなど,基本的にケインジアンの経済学者たちがこの説を提唱している.これによると,2021年~22年の高インフレを引き起こしたのは主に一時的な供給ショックで,時が経つにつれてこれが収まっていったんだと考える.
総供給と総需要の初歩的なマクロ経済理論を思い出そう:
さらに,経済成長率が高まると失業率が下がることも思い出そう.
ともあれ,パンデミックでサプライチェーンがしっちゃかめっちゃかになっちゃって,さらに,プーチンのウクライナ侵略で2022年序盤に原油価格が急騰した.その後,サプライチェーンにかかっていた圧力は2022年に和らいで,2023年のはじめには正常に戻った:
それに,原油価格も2022年後半に下がってる:
というわけで,基本的に,単純な総需要・総供給理論(AD-AS理論)では,この一連の出来事はこんな具合になる:
ようするに,供給が減って増えてもとに戻ってる.インフレ率は一時的に高まり,経済成長率は一時的に下がる.それから,すべては元の状態に戻る.
この理論の問題点は……経済成長率が大して減速しなかったってところだ,2022年の前半に2四半期ほどよろめいたものの,景気後退と呼べるほどの落ち込みにはならなかった:
でも,2021年にはサプライチェーンがすごくストレスを受けていたし,原油価格はすでに上がりはじめていたわけだよね,どうして,2021年に経済成長が堅調だったんだろう? かりに,総需要が非弾力的だと仮定しても(つまり図の青い線がまっすぐに上がり下がりするのだと仮定しても),とにかく負の供給ショックがあったんだってだけでは,2021年があれほど好況の年になった理由は説明しにくい.
「長い一過性インフレ」説には他にも問題点がある.それは,FRB が実体経済やインフレ率に影響をおよぼす力がすごく限定されていることになってしまう点だ.もし金利を 0% から 5% に引き上げたり連邦政府が財政赤字を猛烈に増やしたりしたのに総需要になにも起こらなかったのだとしたら,ケインジアンの安定化政策がもつ力がまるごと疑わしくなる.「長い一過性インフレ」説は,ようするに FRB に意義なしという理論だ.
理論 2: リアルビジネスサイクル説
リアルビジネスサイクル理論(RBC理論)は,ここでぼくが書こうとしてるのよりもずっとややこしい.ただ,さしあたりごくごく単純なバージョンで事足りると思う.
基本的に,この単純なモデルの文脈では,RBC 説をこういうものと考えていい.「総供給は自分で勝手に動く――総需要になにが起ころうと,経済はとにかく産出できるかぎりのものを産出する.」 そうだとすると,総需要にできることは物価に影響を及ぼすことだけだ.RBC 理論の生みの親であるエド・プレスコットの言葉を借りれば,金融政策・財政政策が「経済の繁栄をもたらす威力は,雨乞いダンスが雨を降らせる程度でしかない」――お金を刷ったりお金を貸し付けたり政府からお金を手渡したりしても,それはたんにインフレ率を押し上げるだけだ.
さて,RBC の見立てでは,2021年~2023年のストーリーはこんな具合になる:2020年~21年に,FRB は金利をゼロに引き下げて,大量に量的緩和を実施し,お金をいっぱい貸し出した.政府も巨額の財政赤字をやった.でも,2022年にはそれをおおむね止めた.これにともなって,一時的にインフレ率が高まり,それもやがておさまった.ただ,そのことは現実の経済になにもしなかった.なぜなら,RBCの想定する世界では,財政・金融政策は現実の経済にまったく影響しないからだ.
ぼくらのささやかな総需要-総供給グラフの文脈に当てはめると,いまの話はこんな具合になる:
この説明でいくと,FRB は大失敗をしてしまったことになる――ただジッと座視して自由市場がなるようになるに任せていればよかったのに,インフレ率をぐいぐいと押し上げてしまった.
この理論の弱みは次の点にある.なるほど2021年~2023年の基本的な事実に合致しているけれど,その一方で過去の経験には合致しないんだ.〔1979年に FRB議長に就任して高インフレ沈静化に取り組んだ〕ヴォルカーによる利上げは,現に失業率をかなりの高水準にまで上昇させたように見える.それに,財政・金融政策が現実の経済に実際に影響を及ぼすのを示す定量的な研究はたくさんある.
というわけで,RBC の説で 2021年~2023年が説明できるとしても,他の時期については説明がつかないのに今回はうまく説明がつく理由は,ミステリーだ.
理論 3: 混合説
ここまでに紹介した2つの説では,2021年~2023年のアメリカ経済に重大な出来事がひとつだけ起きたという考えが基礎になっている.でも,もしも重大な出来事が2つあったんだとしたら,どうだろう? もしも,一過性の需要ショックと一過性の供給ショックとが起きていたのだとしたら?
この「どっちもあり」説でいくと,筋書きはこうなる:
2020年~2021年に,政府は大量のお金を刷って大量のお金を貸し出し,大量のお金を借り入れた.それにともなって総需要は押し上げられた.でも,2022年の前半にこれは終わった.
2021年~2022年に,サプライチェーンにストレスがかかって,原油価格が上がった.でも,2022年の後半にこれも終わった.
2023年までに,供給ショックも需要ショックも,正常に戻った.
ぼくらのささやかな総需要-総供給モデルの文脈に当てはめると,いまの話はこうなる:
ようするに,インフレ率がいったん上昇して下がっていった(ただし物価はそれ以前よりは永続的に高いところにとどまった)のに対して,経済成長はべつに影響を受けなかった.
これはなんだか……実際に起こったとおりっぽいね! というか,需要ショックと供給ショックのタイミングがちがっていたことを考慮に入れると,2021年の経済成長は堅調だったのに2022年前半にはちょっと躓いた理由も説明できる――プラスの需要ショックに比べてマイナスの供給ショックはちょっと遅れてやってきた.そのため,政府はもはやブーストをかけていないのに原油価格〔の上昇に伴う物価上昇〕に経済は見舞われたわけだ.
というわけで,この説だと過去3年間におきたことがとてもうまく説明される.難点は,説明に登場する要因があまり切り詰められていない点だ.偉大な科学者のジョン・フォン・ノイマンはこう発言したと言われている.「自由なパラメータが4つあれば,象を描ける.5つもあれば,その象の鼻をブルンと回せる.」 みんなが簡素な理論を称賛するのはなぜかっていうと,複雑な理論なら物事をあまりにたやすく説明できてしまうからだ.
ただ,そのうえで言うと,ときに現実世界はまるで簡素じゃないことがある.マクロ経済はすごく複雑で,可動部品がいっぱいある.それに,あらゆることが同時に起こりがちだ.だから,簡素な筋書きですむにこしたことはないものの,もしかすると2021年~2023年はちっとも簡素な筋書きにならないのかもしれない.
留意点を1つ.この説明では,FRB は2020年~2021年に失敗をしていたかもしれない.この折衷説では,FRB はインフレ率をさらに上げるのと引き換えに経済成長を促進したと考えている.これがいいトレードオフだったかどうか.それはインフレ率と経済成長率のどちらを重視するかによってちがってくる.ただ,この説によると,2022年に FRB はまさしく正しいことをやった――総供給が正常になっていくちょうどそのときに,FRB は総需要を減らした.これが,経済成長が減速せずにインフレ率が下がる結果につながった.
理論 4: 予想管理の魔法
もうひとつ,言及しておかないといけない理論がある――予想理論だ.
現代経済学の各種モデルは,通例,これまでに載せたささやかな総需要-総供給グラフほど単純じゃない.そういうモデルのどのへんが複雑になっているかというと,ひとつには,予想に大きな役割を認めている点がある.そういうモデルでは,「将来のインフレ率についてFRB の政策はとてもハト派的な姿勢をとるぞ」とみんなが信じているなら,それによって物価が今日上がり,インフレ率が上昇する.でも,「将来 FRB がタカ派的な姿勢をとるぞ」とみんなが信じているなら,インフレ率の低下を予想することになり,物価は今日上昇することにならず,インフレ率が下がる.
この理論によると――ちなみにマクロ経済学者のリカード・リースはこの理論を2022年9月に使ってインフレ率低下を首尾よく予測している――人々の予想を管理できれば,FRB は無痛のインフレ鎮静化に近いことを実現できる.さらに,余録として,予想の影響は迅速に生じる――金利引き上げから失業率の上昇がおきて,それがさらに消費者支出の減少につながり,そこからまた物価の低下にいたるという,1年ごしの長い長い因果関係の連鎖を伝わっていく必要がない.
つまり,予想管理理論によれば,FRB が2022年に利上げしたことで,「あの中央銀行には,かのポール・ヴォルカーの精神がいまも息づいているんだ.こりゃ高インフレはいつまでも許容されはしないな」と国中が信じるようになって,人々を仕事から追いやるほど利上げをする必要なくインフレを打ち負かせたのかもしれない.というわけで,この筋書きでいくと,さっきの折衷説と同じく,FRB は2022年に素晴らしい仕事をしたことになる.
この筋書きにはどれくらい現実味があるだろう? 5年物国債のブレイクイーブンインフレ率〔物価連動債とそうでない国債の金利差〕を見れば,金融市場のインフレ予想を直接に観察できる.これを見ると,インフレ予想は2021年に力強く上昇し,さらに2022年前半にはいっそうの高みにまでグンと跳ね上がり,それからパンデミック前の平均水準よりちょっと高いところにまで下がってきた:
リースの主張によれば,人々の予想がもたらす真の影響は,このグラフから推測されるのよりもずっと大きいかもしれない.その理由は,顕著な歪度が見られる点にある――すごく高いインフレ率に対するヘッジのためにお金をいっぱい払ってる人が大勢いる.(このパターンには他にも理由があるかもしれないけれど,定かではない.)
ただ,なるほどこのパターンは予想説の筋書きとおおまかに整合しているように思えるかもしれないけれど,それに代わる説明も可能だ――たとえば,もしかして予想は実際のインフレ率に追従していたのであって,大してモノを言わないのかもしれない.マクロ経済学では毎度のことだけれど,なにがなにを引き起こしているのかを証明するのはとても難しい.
ともあれ,ここまでに見てきた4つの単純な理論が,アメリカのソフトランディング達成を説明する候補たちだ.いちばん現実味がありそうな仮定をあれこれと選んで,どの説がいちばんよさそうかを自分で選ぶことができる.ぼくはどうかって言うと,とにかく全部がうまくいってくれたのを喜んでる.
[Noah Smith, “How did the U.S. achieve a soft landing?,” Noahpinion, December 20, 2023]
訳者の追記 (2024-01-07): インフレが収まった要因について,クルーグマンとスミスが少しやりとりをしている.こことここを参照.