ニック・ロウ 「『実存主義』と『貨幣言語の非中立性』」(2011年11月5日)

●Nick Rowe, “Existentialism and the non-neutrality of money language”(Worthwhile Canadian Initiative, November 05, 2011)


あらかじめ断わっておくと、今回のエントリーはちょっと変化球気味だ。自分なりにやれるだけのことはやってみたつもりだが、説得力に欠けて不明瞭なところもだいぶあるかと思う。でも、頭の中のモヤモヤを口に出してみるのも時には必要で、口に出してみたらモヤモヤがいくらか晴れるかもしれないのだ。というわけで、(わざわざ警告するまでもないだろうけれど)自己責任でお読みいただきたい。

カナダ銀行(カナダの中央銀行)の総裁が実存主義者(existentialist)だと想定するとしよう――大丈夫。あくまで想定するだけだ――。そして、誰もがそのことを熟知しているとしよう。

実存主義者たる総裁は、自由な人間だ。朝がやって来て目が覚めるたびに、気分一新。真っ新な(まっさらな)一日が始まる。昨日何をしたかなんてどうでもいい。彼にとっては「過去はもう二度と戻らない過ぎ去りしもの」(bygones are forever bygones)なのだ。ところで、今日の政策金利の誘導目標を決めなくちゃいけない。よし、11%にしよう。ちなみに、昨日の段階では、政策金利の誘導目標は1%だった。・・・それが何だというのだ? 過去の話じゃないか。

政策金利(の誘導目標)が一挙に(1%から11%へと)10ポイントも引き上げられるという予想外の展開を前にして、債券市場に集う投資家たちは・・・あきれた表情であくびをもらし、そそくさとベッドに戻る。なぜかというと、あの総裁のことを知り抜いているからだ。今日が終わって明日になれば、また真っ新な一日が始まるのだ。総裁の今日の行動に目を凝らしたって、総裁の明日の行動を予測するヒントなんか得られない。明日の総裁は、今日の総裁とはまったくの別人なのだ。そのことを誰もが知り抜いているからこそ、30年債の利回りも微動だにしないのだ。政策金利(の誘導目標)が突然11%に引き上げられたにもかかわらず。

実存主義者の総裁は、一人のようで一人じゃない。別の人格が日替わりで総裁を務めているようなものなのだ。「総裁のやることは一日限りの単発行動」と投資家たちに見抜かれているため、何をやっても効果がほとんどない。一回の決定(行動)にいくらかでも効果を持たせるためには、大きなサプライズに打って出るしかない。総裁もそこのところは承知していて、大きなサプライズに打って出る・・・のだが、日付が変わって朝が来ると、真っ新な一日が始まる。真っ新な気持ちで「今日の一手」を決める総裁。前日のサプライズなんか一顧だにせずに。

現代のマクロ経済学では、中央銀行による金融政策がこんな感じでモデル化されているんですよ・・・って言われたら驚くだろうか? 少なくとも、中央銀行が将来の行動にコミットできずに [1] … Continue readingその都度(日付が変わるたびに)最適化問題を解くと想定されているモデルの忠実な再現だとは言える。言い換えると、実存主義者の総裁が金融政策を牛耳っていると想定されているわけだ。そんなモデルが破綻をきたさないでいられる唯一の理由は、四半期(3カ月)ごとに得られるデータに照らして政策金利の誘導目標が決められるからだろう。実存主義者の総裁がその腕を振るうのは、1年の間でたったの4回だけなわけだ。

しかしながら、モデルと現実は大違いだ。現実の世界で政策金利(の誘導目標)が一日で10ポイントも引き上げられたりしたら、投資家たちは神経衰弱に陥ってしまうだろう。総裁の思惑と今後の成り行きを探るので頭がいっぱいになってしまうだろう。インフレ圧力が猛烈な勢いで強まってるっていう判断なんだろうか? 政策金利(の誘導目標)を10ポイントも上げなくちゃいけないくらいの勢いで? そこまでしないと、インフレ率が目標値を上回っちゃうってこと? 総裁はどんな極秘情報を持ってるんだろう? もしかしたらインフレ率の目標値を引き下げたいのかもしれないぞ。今のうちにインフレ率を引き下げておいて、その後で目標値を見直そうとしているのかも。いや、待て待て。近いうちにインフレ率の目標値を引き上げるつもりなのかもしれない。そのことを前もって伝えようとしているのかも。インフレ率の目標値を引き上げるつもりらしいぞっていう観測が広まると、予想インフレ率も高まるだろうな。そうなるのを見越して、先手を打って政策金利を上げたんだ。実質金利が下がらないように。待てよ。プレスリリースの誤植って可能性もある。だとしたら、取り越し苦労じゃないか。明日になったら訂正されるに違いない。ベッドでひと眠りしようかな。

債券市場だけでなく、あちこちのマーケット――株式市場、為替市場、労働市場、スーパーマーケット――でも総裁の思惑が探られる。政策金利を10ポイントも引き上げた意図は何なんだろう? 「次の一手」についてどんなことを伝えようとしているんだろう?

総裁の「今日の一手」それ自体には些細な効果しかない。何よりも大事なのは、「今日の一手」がマーケットの予想――総裁の「明日以降の一手」に関するマーケットの予想――にいかなる影響を及ぼすかだ。総裁もそのことは承知していて、「明日以降の一手」に関するマーケットの予想を自分が望む方向に導くのに役立ちそうな「今日の一手」を選ぶ。総裁がそのようにして「今日の一手」を選んでいるのをマーケットは承知しているし、総裁がそのようにして「今日の一手」を選んでいるのをマーケットが承知しているのを総裁は承知しているし、総裁がそのようにして「今日の一手」を選んでいるのをマーケットが承知しているのを総裁が承知しているのをマーケットは承知しているし、<以下続く>。

総裁が選ぶ「今日の一手」が次のように解釈されるのが慣習(conventions)になっているとしよう。総裁が政策金利の誘導目標を変更すると、その小数点第一位がどの数字で終わっているかにマーケットの全注目が集まる。小数点第一位が5で終わっている(例. 5.5%)ようなら、誘導目標が近いうちに再び変更されるに違いないし、小数点第一位が0で終わっている(例. 5.0%)ようなら、そのまましばらく同じ水準に据え置かれるに違いない。そんな「迷信」がマーケットに広まっているのだ。「迷信」がマーケットに広まっているのを総裁は知っているし、「迷信」がマーケットに広まっているのを総裁が知っているのをマーケットは知っているし、・・・以下は省略するが、マーケットに先のような「迷信」が広まっているのが共有知識(コモン・ナレッジ)になっているわけだ。総裁にとっては、仕事がやりやすい状況だ。なぜなら、「明日以降の一手」に関するマーケットの予想をコントロールできるからだ。「今日の一手」として、政策金利の誘導目標を変更するとしよう。近いうちに(明日以降に)また変更するつもりで、マーケットにもそのことを勘付いてもらいたければ、どうすればいいか? 小数点第一位が5で終わる数値を誘導目標として掲げればいい。しばらく同じ水準に据え置くつもりで、マーケットにもそのことを勘付いてもらいたければ、どうすればいいか? 小数点第一位が0で終わる数値を誘導目標として掲げればいい。

上のようになっている経済では、財市場を均衡させる「金利と産出量の組み合わせ」を表すIS曲線が(右下がりの滑らかな曲線ではなく)右下がりでだいぶギザギザした形状をしているだろう。あるいは、IS曲線は二本ある。金利の小数点第一位が5で終わっている点同士を結んで一本の曲線が引けて、金利の小数点第一位が0で終わっている点同士を結んでもう一本の曲線が引けるわけだ。傾きも異なっていて、別物と言っていい。こんなことになるのはどうしてかというと、政策金利が変更された後の「次の一手」がどう予想されているか――政策金利が近いうちにまた変更されると予想されているか、同じ水準にしばらく据え置かれると予想されているか――によって効果に違いがあるからだ。

ところで、似たような迷信が英語圏でも広まっている。例えば、「キャット」というのがネコを指す単語だと広く信じ込まれているのだ。そのおかげで物事がうまく回っている。ネコの話題で誰かと一緒にお喋りできるのも、会話が噛み合う(かみあう)のも、「キャット」というのがネコを指す単語だと信じ込まれているからこそだ。言うまでもなく、慣習でそうなっているに過ぎない。ネコを指す単語は、どれだっていい。「キャット」じゃなくたって構わないのだ。ただし、実存主義者が集まると、話は違ってくる。単語の意味が日ごとに変わるからだ。筋金入りの実存主義者同士は、英語(あるいは、おフランス語?)を使って意思疎通できないのだ。単語の意味が昨日とは違うのだから。

どこかの国の辞書を開いて「グルー」(“grue”)の意味を調べてみると、こう書いてある。「2013年まではグリーン(green)を指す単語。2014年からはブルー(blue)を指す単語」。「ブリーン」(“bleen”)の意味を調べてみると、こう書いてある。「2013年まではブルー(blue)を指す単語。2014年からはグリーン(green)を指す単語」。「グリーン」(“green”)の意味を調べてみると、こう書いてある。「2013年まではグルー(grue)を指す単語。2014年からはブリーン(bleen)を指す単語」。「ブルー」(“blue”)の意味を調べてみると、こう書いてある。「2013年まではブリーン(bleen)を指す単語。2014年からはグルー(grue)を指す単語」。

これまで(2011年11月5日まで)に見つかったエメラルドはどれもこれもが、グリーン色かつグルー色だったとしよう。これまでの経験(観察結果)を踏まえて未来を予測するとするなら、2014年以降に見つかるエメラルドは何色だろうか? グリーン色? それとも、グルー色? エメラルドの色は、2013年の1年の間にどうなるだろうか? 年内のどこかで変わるだろうか? それとも、変わらないままだろうか? 「変わらないまま」ってどういう意味? 「グリーン色のまま」ってこと? それとも、「グルー色のまま」ってこと?

今日になって金融政策が変更されたとしよう。今後の展開についてどう予想する? これで終わりじゃなくて、年内のどこかでまた変更されるって予想する? それとも、年内は何もされないって予想する? 「何もされない」ってどういう意味? これまでの感じだと年内は何もされないだろうなって予想するにしても、「何もされない」というのが何を意味しているかによって、今日のこれからの行動――消費を予定していたよりも増やす(減らす)か、金融資産の配分を見直すか等々――も変わってくるだろう。

単純な複占モデルに目を転じるとしよう。二社がしのぎを削っていて、それぞれが生産する財は完全には代替的(同質的)ではないとしよう。それぞれが直面している需要関数と費用関数はかくかくしかじかで、どちらも利潤の最大化を目指すと仮定する。ゲームの構造のあらゆる面が二社の間で共有知識になっている。どちらも同時に決定を行う一回限りのゲームの均衡(ナッシュ均衡)はどうなるか?

経済学者の間で何世紀(?)も前から知られているように、今しがた列挙した情報だけでは最終的な結果(ゲームの均衡)がどうなるかは予測できない。相手の生産量を所与として、利潤が最大になるようにお互いが自らの生産量を選ぶとするなら、最終的にクールノー=ナッシュ均衡に落ち着く。相手がつける価格を所与として、利潤が最大になるようにお互いが自社製品につける価格を選ぶようなら、最終的にベルトラン=ナッシュ均衡に落ち着く。特筆すべきは、クールノー=ナッシュ均衡における価格と生産量は、ベルトラン=ナッシュ均衡における価格と生産量と同じじゃないということだ(経済学専攻の学部上級生であれば、このことを数学的に証明できるだろう)。

二社によって語られる言語が違うと、結果に違いが生まれる。Q言語(quantity language)が語られるか [2] 訳注;Q言語が語られる=数量競争(クールノー競争)が繰り広げられる、という意味。、P言語(price language)が語られるか [3] 訳注;P言語が語られる=価格競争(ベルトラン競争)が繰り広げられる、という意味。によって結果が違ってくる。客観的な現実について語ったり考えたりするために使われる言語が変わると、客観的な現実(ゲームの均衡)も変わってしまうのだ。二社がしのぎを削る複占市場で語られる言語がQ言語からP言語に変わると [4] 訳注;クールノー競争(数量競争)ではなく、ベルトラン競争(価格競争)が繰り広げられるようなら、という意味。、製品の価格が低下して生産量が増えるのだ。

産業組織論のように地に足がついた分野――実践的で厳密で現実志向な応用経済学者がうようよしている分野――の土台となる理論においてさえも、言語の違いが結果の違いを生むのだ。貨幣理論の分野では、言語の違いが結果の違いを生まない(使う言語が違っても結果は同じ)・・・なんてわけがあるだろうか? 言語が違うと、何が語れて何が語れないかも違ってくる。世界中の中央銀行の間で共通語として君臨している「金利語」(interest rate language)は、負の数について語れない [5] 訳注;名目金利はゼロ%以下に引き下げられない、という意味。。それに加えて、曖昧な言語でもある。金利(名目金利)の上昇が金融引き締めを意味することもあれば、その反対に金融緩和を意味することもあるのだから。

「目標が立派なのはわかりましたから、その目標をどうやって達成するのか具体的に教えてください」と問わずにはいられない「グタイアンモトム」軍団は、これまでの話が気に入らないだろう。「具体案」の中身が同じであっても、それについて語る言語が違えば効果に差が出るというわけだから。「具体案」は、グタイアンとかいう不変の物体でできてるわけじゃない。複雑な現実を秩序立てて理解する手助けをしてくれる便利な概念図に慣れきってしまうと、概念図は現実そのものじゃないということになかなか気付けなくなってしまう。すべてのネコに共通する客観的な「ネコ的なるもの」なんてない。「キャット」というのは、ネコとそれ以外を区別するのにそこそこ役立つ(境界が曖昧な)名前に過ぎないのだ。しかしながら、経済学の世界では、ネコをどう呼ぶか(「キャット」と呼ぶか、それとも別の名前で呼ぶか)によって、ネコの振る舞いが変わるのだ。

「経済学は、推論を行う(人間という)存在について推論する学問」であると述べたのは、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスだ(記憶が間違っていなければ、『ヒューマン・アクション』の中でそう述べていたはず)。正しくもあり重要でもある指摘だ。しかしながら、「経済学は、言語を語る(人間という)存在について語る学問」でもある。経済学は、言語哲学の下位分野の一つなのだ・・・というのは言い過ぎだろうか?

References

References
1 訳注;明日何をするかを今日のうちに決めておいても、明日になったら心変わりしてしまう――そのせいで、明日何をするかを今日のうちに決めておいても、周りから信用してもらえない――、という意味。
2 訳注;Q言語が語られる=数量競争(クールノー競争)が繰り広げられる、という意味。
3 訳注;P言語が語られる=価格競争(ベルトラン競争)が繰り広げられる、という意味。
4 訳注;クールノー競争(数量競争)ではなく、ベルトラン競争(価格競争)が繰り広げられるようなら、という意味。
5 訳注;名目金利はゼロ%以下に引き下げられない、という意味。
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