マーク・ソーマ 「経済学者は第二次世界大戦でのアメリカの勝利にいかにして貢献したか? (その2)」(2011年6月12日)

●Mark Thoma, “How US Economists Won World War II”(Economist’s View, June 12, 2011)


デビッド・ウォーシュ(David Warsh)がFRB議長の候補者選びをめぐるゴタゴタに絡めて、ジム・レイシー(Jim Lacy)の『Keep From All Thoughtful Men』を引き合いに出している。

———————————(引用ここから)———————————

Kept from All Thoughtful Men” by David Warsh:

先週のことだが、ピーター・ダイアモンド(Peter Diamond)が・・・(略)・・・FRB議長の候補者レースから身を引く意向を示した。これまでの紆余曲折についてよく御存知の方もいることだろう。話は昨年に遡る。ホワイトハウス(オバマ大統領)がダイアモンドをFRB議長に指名。それに対して真っ向から「ノー」を唱えたのは、アラバマ州選出の上院議員であり米上院銀行委員会の共和党側の急先鋒であるリチャード・シェルビー。ダイアモンドは、・・・(略)・・・金融政策の専門家ではない、というのが反対理由だった。オバマ政権の経済政策に対して共和党側から横槍が入る例はこれまでに何度も見られたが、ダイアモンドのFRB議長指名への反対もそのような小競り合いの一つだ。そんな中、昨年の秋(2010年10月)にダイアモンドにノーベル経済学賞が授与された。・・・(略)・・・サーチ理論――とりわけ、労働市場におけるサーチ(職探し)――の分野における際立った功績が讃えられての受賞だった。そして、ホワイトハウス(オバマ大統領)は再びダイアモンドをFRB議長に指名し、残すは議会の判断待ちということになったのである。

どんな展開が待っていたか? 共和党所属の上院議員たちは、ダイアモンドのFRB議長就任を阻止するためにこれまで以上に頑な(かたくな)に抵抗したのである。

・・・(中略)・・・

今回の騒動は、その道の専門家(学者)と政治権力とが真っ向からぶつかった事例の一つと言えるわけだが、過去にも似たようなエピソードがあったことを思い出す。さて、ここでようやく登場するのが、専門家と政治権力(正確には、軍事権力)とのぶつかり合いの一部始終が描き出されているジム・レイシーの『Keep From All Thoughtful Men:How U.S. Economists Won World War II』だ。

・・・(中略)・・・

戦争に向けた準備を整えるために経済をいかに組織化すべきかをめぐって、ブレホン・サマーベル(Brehon Somervell)中将率いる陸軍補給部隊――軍人側――と、サイモン・クズネッツ(Simon Kuznets)&(クズネッツの教え子であり、官僚機構内ではクズネッツの上司を務めることになった)ロバート・ネイサン(Robert Nathan)率いる戦時国家生産局(WPB)――文民側――との間で、重大な意見の違いが生じた。

戦争が勃発した暁には、民間の生産活動の指揮を軍部に委ねるというのが米政府の1924年以来の既定方針だった。しかしながら、レイシーも指摘しているように、「そのための計画を練り、必要な人材を養成するために、何年にもわたって何百人もの軍人(の高官)が産業幕僚大学に送り込まれたにもかかわらず、戦争の勃発に備えていかなる補給体制を整えればよいのかについて軍部はこれっぽっちのアイデアも持たずにいた」。一か八かの戦争を戦い抜くために必要となる(天文学的とも言える)水準にまで国内の生産力を高めるにはどうしたらよいかという問題になると、なおさらそうだった。

そのような状況を見かねたフランクリン・ルーズベルト大統領は、真珠湾攻撃を受けてから1週間も経たないうちに戦時国家生産局(WPB)の立ち上げを求める大統領令に署名した。戦時国家生産局(WPB)は、それまでにあった複数の機関を一つに統合したもので、戦時動員にまつわるあれやこれやの計画の調整役を果たすのが任務の文民を構成員とする機関である。人選をはじめとした組織作りを担当したのは、シアーズ・ローバック社の元最高経営責任者であるドナルド・ネルソン(Donald Nelson)――その役目を最初に引き受けたのは最高裁判事のウィリアム・ダグラス(William O. Douglas)だったが、ほどなくしてその役目はネルソンに引き継がれた――。ネルソンは、ロバート・ネイサンを戦時国家生産局(WPB)の議長に選んだ。そして、ネイサンは、クズネッツを主任統計官――当時は、経済学者は統計学者と同一視されることが多かった――として戦時国家生産局(WPB)に招き入れたのである。(戦時国家生産局の立ち上げを求める)大統領令が下されてから数週間後に、陸軍省(今の国防総省)も内部機構の再編に乗り出した。その結果として、陸軍航空部隊/陸軍地上部隊/陸軍補給部隊の三通りの指揮命令系統が立ち上げられることになった。いずれもジョージ・マーシャル陸軍参謀総長の指揮下に入ったが、陸軍補給部隊の司令官を任されたのがブレホン・サマーベル中将だった。今日(こんにち)では、まず何よりも国防総省の本庁舎であるペンタゴンの「生みの親」としてその名が人々に記憶されている人物だ。

1892年に(アーカンソー州の州都である)リトルロックで産声を上げ、「アーカンソー出身のカントリーボーイ」を自任した「ビル」・サマーベルは、(軍人としての地位にとどまりつつも)ニューヨーク市の公共事業促進局(WPA)の局長を務めた経験がある。局長を務めていた時には、公共事業促進局の長官でありルーズベルト大統領の相談相手でもあったハリー・ホプキンズ(Harry Hopkins)に大層可愛がられた。職業軍人の例に漏れず、サマーベルもマーシャル陸軍参謀総長に徹底的なまでに忠誠を尽くした。サマーベルが楽観的な姿勢を頑固なまでに崩さなかったのは、上司であるマーシャル陸軍参謀総長を喜ばせたいとの一心からだったのではないか、というのがレイシーの見立てだ。マーシャル陸軍参謀総長は、1943年中のどこかのタイミングでヨーロッパ戦線に参戦する気でいた。そうするのは可能だということを下から伝えられていたからである。アメリカ国内の文民らは、政治指導者たちに甘やかされ過ぎている。サマーベルは、確信を持ってそう信じ込んでもいた。「アメリカは、2つの敵を相手にして戦わなければならない。戦場においてはドイツ/イタリア/日本の三国を相手に、国内においては戦時国家生産局を相手に」。どうやらサマーベルはそう感じていたようだとは、ネイサンの評だ。

クズネッツは、・・・(略)・・・恩師であるウェスリー・ミッチェル(Wesley Clair Mitchell)と比べると理論家肌の学者だったが、幾何学の演習よりも事実の収集のほうに気乗りがしたという意味では理論家というよりは実証家と言えた。博士号を取得すると、すぐさま全米経済研究所(NBER)に移り、国民所得勘定の研究(GNPやら何やらの計測)を開始。1930年にはペンシルベニア大学の教授にも就任し、学生の指導にあたることになる。ロバート・ネイサンもそこで教えを受けた一人だ。クズネッツが史上3番目となるノーベル経済学賞を受賞したのは、1971年。経済学の分野に現代的な実証研究の手法を持ち込んだ第一人者としての名声は、日増しに高まるばかりだ。しかしながら、そんなクズネッツも1942年の時点では軍事経験が皆無の一介の教授に過ぎなかった。少なくともサマーベル中将の目にはそのように映っていた。

文民の専門家と陸軍(+海軍)のお偉方との間でバトルの幕が切って落とされたのは、1942年のことだ。緊張の糸が張り詰めっぱなしの6ヶ月間に及ぶバトル。陸軍はあまりに多くを求め過ぎているのか? サマーベル中将は、苛立(いらだ)たしげに言い放つ。「連合参謀本部に、統合参謀本部、統合生産資源委員会、軍需品割当局、陸海軍軍需局。そして、戦時国家生産局。これだけの機関がある。国内の生産活動の実態について碌に知りもしない面々(経済学者に、政治家に、兵士)を構成員とする機関を立ち上げたところで、どんな意味があると言うのか?」

両陣営の間のバトルが山場を迎えたのは、1942年の10月。クズネッツが用意した調査書――「実行可能性をめぐる調査」(“Feasibility Study”)――の是非をめぐって、激しいぶつかり合いが演じられた。陸軍補給部隊が掲げる目標のどれにしても全般的に見て非現実的であり、実現不可能。軍当局は、当初の予定を見直して計画――とりわけ、対ドイツ戦に関わる計画――の日程を先延ばしする必要がある。件の調査書の中で、クズネッツはそのように断じていた。

以下に引用するのは、クズネッツが用意した調査書をめぐって、サマーベル中将とネイサンとの間で交わされた火花散るやり取りの一コマである。その他のやり取りとあわせて、本の付録として収められている――本書のタイトル(『Kept from All Thoughtful Men』)は、以下に出てくるサマーベル中将のセリフからとられている――。

サマーベル: 今回提出いただいた調査書の執筆者も明言しているように、調査書の中で用いられているデータにはかなり大きな誤差があるとのことであります。・・・(略)・・・つまりは、調査のもとになっているデータは頼りにならないというわけですが、その点についてはわたくしも大いに賛同するところであります。・・・(略)・・・(調査書の執筆者である)クズネッツ氏が語る「確率」と、わたくしたち陸軍補給部隊が掲げる生産目標との間にある開きは、わたくしたちの生産目標を根本から見直さねばならないほど大きなものではないというのがわたくしの意見であります。・・・(略)・・・ クズネッツ氏がいかなる軍事経験を積んでおられるかは存じませんし、彼が述べるあれこれの意見を、例えば、現状の設計のままでどれだけの数の兵営を用意できそうかについての彼の意見を、兵営の現状の設計は果たして適当と言えるかについての彼の意見をどのくらい重視したらよいかもよくわかりません。今回提出していただいた調査書の論の進め方にしてもその中で下されている判断にしても、わたくしの心には何ら訴えてくるものがありません。この調査書が思慮深い方々の目に決して触れないように細心の注意を払うべきだというのが、わたくしなりの助言であります(I ・・・(略)・・・recommend that they be carefully hidden from the eyes of all thoughtful men.)

ネイサン: 心に何ら訴えてくるものがなかったという率直なご意見をいただきまして、どうもありがとうございます。・・・(略)・・・しかしながら、貴殿が下された結論はまったく論理的ではありません。わたくしも同じく率直に言わせていただきますが、貴殿の返答には落胆させられました。今回提出させていただいた調査書の中で取り上げられている問題は重要なものであり、知的・専門的な観点から事細かに検証することが何よりも求められています。調査書の執筆者であるクズネッツ氏は、アメリカ経済について最も有能で最も頼りになるわが国を代表する権威の一人として認められています。平和時にしろ戦時にしろアメリカ経済の生産力がいかほどのものかを見定める氏の能力を疑う余地はありません。戦時国家生産局のスタッフが慎重な検討を加えた末にまとめ上げた調査結果を、戦争の成り行きとわが国の安全に対する責任を担っている方々の目に決して触れさせてはならないという貴殿のご意見ほど思慮に欠けたものはない、というのがわたくしの考えであります。

最終的には、ネイサン(戦時国家生産局)の側に軍配が上がった。生産力の「上限」(“outer limits”)を推計するクズネッツ流の定量的なアプローチは、その後に一気に広まるところとなった。かくして、今では経済学の入門書を開けば必ずと言っていいほど目にする「生産可能性フロンティア」(“production possibility frontier”)という概念が誕生したわけである。陸軍補給部隊が掲げる目標はこれまでよりも控え目なものに修正され、計画の日程も見直されることになった。ノルマンディー上陸作戦決行のタイミングも(1943年中のどこかという当初の予定から)1944年6月にまで先延ばしされた。ところがである。戦時国家生産局はその仕事ぶりが仇となって、無力化される憂き目に遭うことになる。ネルソンは(戦時国家生産局の組織作りの責任者という)その役目を解かれ、クズネッツは古巣の全米経済研究所(NBER)に送り返された。ネイサンは、陸軍側の組織へと配置換えされた(戦争が終わると、ネイサンはやがて有名になるコンサルタント会社を立ち上げた)。サマーベル中将はどうなったかというと、戦争が終わると軍隊を離れ、1955年に亡くなるまでピッツバーグにあるコッパーズ社(Koppers)の会長を務めたのだった。

・・・(中略)・・・

事の成り行きは以上の如くだが、事実そのものよりもそこから得られる教訓に個人的により強く興味を引かれる。1942年に交わされた論争で、クズネッツはサマーベル中将を完膚なきまでに叩きのめした。そして、連合国軍は枢軸国との戦争に勝利した。その一方で、2011年に交わされた論争で、ダイアモンドはシェルビー上院議員に敗れてFRB議長候補者レースから身を引いた。そして、・・・これから先にどんな結果が待ち受けているだろうか? 生死をかけた戦争をやってるわけじゃないからといって、大したことない些事(さじ)と切って捨てるわけにはいかない。誰もが自分なりの理屈を持っているが、自分とは違う意見を抑えつけたり締め出したりするなんてことはそう滅多に見られるものじゃない。専門家に(その知識を存分に発揮してもらえるような)適当な椅子(ポスト)を与えようとしないというのは、一国の安全を支える礎(いしずえ)をぐらつかせるに等しい所業なのだ。それは今も昔も変わらないのだ。

———————————(引用ここまで)———————————

Total
0
Shares
0 comments

コメントを残す

Related Posts