Neoliberalism and austerity, (Mainly Macro, Friday, 21 October 2016)
Posted by Simon Wren-Lewis
ネオリベラリズムというものは首尾一貫した政治哲学などではなく,むしろ人々が議論を重ねるうちに広まった,相互に関連したアイデアの寄せ集めだと思っている.『民間セクターの起業家こそが富の創造者であって,国はただ彼らの邪魔をするだけだ』とか.『民間のビジネスにとってよいことイコール国の経済にとってよいことだ』とか(たとえ独占力を増したりレントシーキングを伴うものだったりしても).『民間ビジネスや市場に,国や労働組合が介入するのは常に悪である』とか….こうした考え方が支配的なイデオロギーとなっている現在では,誰もわざわざ自分たちのことをネオリベラルと呼んだりする必要はない.
緊縮があれほどの規模で起きえたのは,ネオリベラルな精神がこのように支配的になったということ抜きには考えられない.Mark Blyth は緊縮を歴史上最大のおとり商法(bait and switch)と表現している.このインチキは2つの形をとった.一つ目は金融危機で,これは規制が緩すぎた金融機関の貸し出しが過大になった結果として起きたのだが,銀行への救済措置が公的債務を増大させた.これが(金融機関へではなく)公的債務への怒りの声を呼び起こした.もう一つは,金融危機が引き起こした深刻な不況で,その結果(いつものことだが)大きな財政赤字が生じた.「酔っ払った水夫みたいに無駄遣いしやがって」と怒りの声が上がる.「いますぐ緊縮しなければならん!」.
どちらの場合も,起きていたことの本質は,ちょっと事実を調べてみれば誰にでもはっきりわかる.ただ,その”ちょっと事実を調べてみ”た人間は実に少なく,したがってメディアの大勢も緊縮側の言説を受け入れていた.この緊縮言説の源流の一つがネオリベラル精神である.何年もの間,『メガバンクは,富を生み出す巨人たちだ』と称賛されているのを眼にし続けた後では,メガバンクのビジネスモデルに根本的な欠陥があるとか,国からの目に見えない巨額の補助金を必要としていたなどということを理解するのが難しいのだろう.一方,政府の些細な過ちこそが債務危機すべてを引き起こした元凶だと想像する方が,彼らにとってずっと容易なのだ.
『緊縮はたしかに評判が良かったが,銀行叩きだって人気があったじゃないか』と言うかもしれない.しかし我々は本当に緊縮を食らったが,銀行は少々つつかれた程度である.『ユーロ圏の危機はそれほど深刻な問題だったんだ』と言うかもしれないが,だとするとそれは2つの重要な事実を無視している.最初の点は,緊縮策があの危機より前に,すでに英米両方の政治的右派に広く行き渡っていたという事実である.2つめは,ユーロ圏の危機がギリシャだけにとどまらなかったのは,すべての中央銀行が行うべきことをECBがしそこねたからだという事実である.すなわち,ECBは公的な最後の貸し手としての任務を果たさなかったのである.ECBが考えを変えたのはそれから2年後のことであった.だが,この遅延は半ば戦略的なものだったと言ってもあながち穿ち過ぎではなかろう.しかも,ギリシャ危機が本来あるべき状態よりずっとひどい事態になってしまったのは,政治家たちがベイルアウト(公的資金による銀行救済)を使って,銀行システムの脆弱さを覆い隠そうとしたからだ.これもまた別の形のおとり商法である.
この意味で緊縮は,金融危機が露わにしたネオリベラリズムの問題点から目をそらすための便利な道具だったが,緊縮が行われたもっと重要な政治的理由は,緊縮策がネオリベラルの重要なゴール — 国家をより小さくすること — の達成を早めるように見えたからだと思われる.緊縮策として,増税よりもたいてい支出削減が行われるのは偶然ではない.財政赤字の削減が絶対に必要だという思い込みを利用して政府の支出削減を覆い隠したのである.私はこれを財政危機詐欺(deficit deceit)と呼んでいる.この意味でもまた,緊縮とネオリベラリズムは自然と歩みをともにしているのである.
これらすべてが示唆するのは,2010年の緊縮の起きる可能性をネオリベラリズムが高めたということである.しかし,そこまではよいとしても,”緊縮はどうやっても起きていた,なぜならそれは『ネオリベ計画』に不可欠だったから”とまでは言えない.まず,最初に言ったとおり,私はネオリベラリズムという言葉をそういう機能主義者的な用語とはみなさない.しかし,より根本的な理由は,右翼的な政府が緊縮策の及ぼすダメージを理解し,緊縮という経路をたどらないということもあり得ると思うからである.緊縮策は部分的にはイデオロギーの産物であるが,同時にまた政府の無能さ — 優れた経済学的アドバイスを採り入れるのに失敗したという無能さの反映でもあるのだ.
興味深い問題は,同じことが英国および米国の右翼的政府(戦術として移民や人種を用いて,勝利の原動力とした)にもあてはまるだろうかということである.今はたしかに,Brexit とトランプ双方のこうした戦術がいかに破壊的で危険か我々にはわかっている.Brexit で離脱に投票したネオリベラルの夢想家でさえ,Brexit がネオリベラリズムにとって大きな後退であると気づきつつある.民間ビジネスにとって直接の害があるだけでなく,(貿易と移民の双方において)市場プロセスに対する官僚の介入が大きく増大するからである.皆を1950年代に引き戻したいと思っている点で,テリーザ・メイ印の保守主義ブランドはマーガレット・サッチャーのネオリベラル哲学と大きく異なっているのかもしれない.