Debt is too a burden on our children (unless you believe in Ricardian Equivalence), December 28, 2011)
Posted by Nick Rowe
実は外で雪かきをしながら、将来世代の負担としての政府負債に関するエントリを書こうか考えていた。それと、この問題に関するマクロ経済学者の考えが30年ほど前に静かに転換したこと。そして我々プロはある意味「記憶を改ざん」したということについて(Timur Kuranの “preference falsification” のような話。訳注:himaginary氏による関連情報)。経済学を知らない無学な田舎者だけが信じることだとかつては思っていたようなことを,今は自分たちが信じている。
そしてこう結論した。「いや、古い議論を蒸し返す意味はないな。例の「自分自身に借りている」という話はもう誰も信じていないし。」
で、屋内に戻りクルーグマンのエントリを読んだ。どうやら書かないでおこうと決めたことを書かなければならなくなった。
「高水準の負債が何の問題も引き起こさないということではない。問題は確かに起こり得る。でもそれは分配及びインセンティブについての問題で、一般に理解されているように負担になるという問題ではない。ディーンが言うように、子供たちに負担を押し付けるという言い方は特に無意味だ。我々が続く世代に残すのは、我々の子供たちのうちの誰かが別の子供たちにいくばくかの金を支払わなければならないという約束であって、それは負担とはぜんぜん違う問題だ。」
おそれながら、これは純然たる間違いだ。経済学を知らない田舎者ー国の負債は子や孫の負担になると考えるーは基本的に正しいのだ。正に「特に無意味」とは対極だ。リカーディアン均衡になると信じているのでなければ。
クルーグマンの続編エントリ。
「これを肯定するのに右翼である必要はない。限界税率がとても高くなり生産性が損なわれることになるだろう。よって実質GDPは大きく落ち込む。
負債の負担の問題はインセンティブに関することで、誰かに資源を移転することではないと言ったのはそういうことだ。
……
つまり、借り過ぎた家計に喩えるのは完全に間違いということ。残念ながらこのつまらない例えが全国を覆ってしまっているが。」
いや、インセンティブの問題に過ぎないということはない。そして誰かへの資源の移転は確かにある。家計に喩えるのはつまらないことではないし、完全な間違いでもない(もちろんあらゆる喩えのご多分に漏れず、物事を完璧に描写するわけではない。)
昔、私たちは皆NB(訳注:Not burden、「負担でない」)と信じていたものだ。少なくとも、教育を受けた洗練された人々は皆NBと信じていた。B(訳注:burden、「負担である」)と信じていたのは無学で洗練されていない人だけだった。私たちは皆うぬぼれて「そのへんの人」は間違っていると見なしていた。実際、BかNBかのどちらを信じるかは、その人が教育され洗練されているかどうかのクイックテスト足り得た。教育され洗練された人々の中にもBと信じていた人や、NBであることが自明だとは本当に理解していなかった人たちもいたかもしれないが、皆それを隠していた。自分が教養がなく洗練されていないと他の人に思われたくなかったからだ。
1980年代のいつだったかに参加したチャールトンでの経済学セミナーを覚えている。招待講演者は年長の男性で、アメリカのトップ校から来たオールドケインジアンだった(名前は忘れてしまった)。セミナーの途中で彼はこう言った。「聴衆の皆さんは経済学の素養があるのでBだと信じている人はいませんね。」 そう言って彼は黙って室内を見渡した。私は顔が熱くなった(あとで院生に聞くと私の顔は真っ赤だったそうだ)。私は挙手し、自分はBと思うと言ったものだ。
ジェームス・ブキャナンは洗練されたマクロ経済理論家ではなかった。彼はマクロはやらなかった。彼は政治の経済学と公共選択をやっていた。マクロ理論の権威では全くない。ジェームス・ブキャナンはBだと論じた。彼も私と同じ田舎者だった。(そりゃ自分でもわかってるけれど、なんでそんなこと聞くの?)
ところが、ある時突然、洗練され教養のある人々が皆Bと信じるようになったようだった。とても静かな革命だった。目に見える議論は兆候すらなかった。ある日まで我々は皆(私が言っているのは教育を受けた洗練された人々)NBを信じていた。そして翌日は皆Bを信じるようになっていた。Bと信じている「そのへんの人々」を見下すのをやめた。自分が以前NBと信じていたことを口にすることすらなかった。昔の記憶から古い信念を消し去ったのだ。ソビエトの写真のように。話題にすることが恥ずかし過ぎる事柄になったのだ。
このような記憶抹消や信念の静かな反転には危険がある。「メモが回ってこない」人たちがいて、古いNBを信じ続けている。我々(洗練され教養のある人々)も皆かつてそうだったようにだ。付け加えれば、このことは信念一般について、我々はそれを信じることがファッショナブルであるものを信じるものなのかもしれない、ということを示唆している。(我々はこれをやっている。しょっちゅう。我々の信念、とりわけ教養的で洗練された信念の多くが実にくだらないのはこの理由からだ)。
ポール・クルーグマンは私よりはるかに優れた経済学者だ。ただ「メモ」が彼には回らなかった。古い箱に押し込んでいた記憶を再び開くときが来たのだろう。
BとNBの違いの核心を突くため、単純にした仮定を置こう。(そう、もちろんこれらの仮定は偽であり非現実的だ。しかし両者が合意している領域を除外することよって、合意していない領域に集中できるというわけだ。)
仮定:閉鎖経済、投資およびあらゆる実質資本はゼロ。税は歪みのない一括税で、徴収コストはゼロ。実質金利はプラスで実質成長はゼロ。完全雇用水準の生産があるものとする。生産する財はリンゴのみ。リンゴは保存できない。経済主体は同質、世代は重複。以上、おかしな仮定はない。
政府は借り入れによって得た100リンゴを現役世代に配るとしよう。このことは将来世代の負担を生み出すだろうか? イエスかノーか? BかNBか?
私の答えはイエス、Bだ。間違いなく将来世代の負担が作り出されている。将来世代の負担にならないとすれば、リカーディアン均衡が成り立つ場合だけだ。リカーディアン均衡では、人はそれが将来世代の負担になると認識するので、もらった支払いを全部利息ごと貯蓄し、遺産として子の世代に渡す。子も、将来世代の負担を無くしたいからという全く同じ理由で次の世代に渡していく。
洗練されていない無知無教養な人物は基本的に正しい。負債は彼の子や孫の負担だ。バロー=リカード風にそれを予想して遺産を増やすことによって帳消しにしようとした時のみ、負担は消える。
いやいや、私の議論にタイムトラベルは出てこない。今から100年かけてリンゴを育て、それをタイムマシンに乗せて今食べるようなことは必要ない。あたかもそれができるかのような。
私の議論は明快だ。世代重複モデルについて考えれば明らかだ。そして世代重複モデルなど一度も考えたことのないような、洗練されておらず無教養な田舎者にとっても同じくらい明らかなことだ。
政府が世代A全員から100個のリンゴを借り、全員に100個分の支払いをする。これはちょうど、政府が単純にリンゴ100個の借用証書を渡すのと同じだ。借用証書は国債だ。
ここまででAのリンゴ消費に変化はない。
世代Aは若いB世代のメンバーに債権を売る。ここで世代Aはプラス110個のリンゴを得て(金利は一世代10%とする)、これを食べる。世代Aが死ぬ。
世代Aの収支はプラス。世代Aは全員110個多くのリンゴを食べる。現在価値で見ると110個のリンゴは支払いを受けたときのリンゴ100個分の価値に等しい。
世代Bは若いうちはリンゴを110個少なくしか食べられないが、晩年に121多く食べる。そしてC世代のメンバーに債権を売る。世代Bは生涯で11多くのリンゴを食べるが、現在価値で見ればプラスマイナスゼロだ。金利は「若いころのリンゴは少なくなるけれども、晩年に取り戻せるよ」と説得できる水準である必要がある。そうでなければ彼らは世代Aから債権を買わない。と言うわけで、Bはプラスマイナスゼロ。
しかし(仮定から)負債はGDPよりも増えるのが早い。政府はこれが維持不可能と知る。結局は次の世代が前の世代から債権を買えなくなるので、永遠にロールオーバーすることができない。そこで政府は負債を償還するために、若き世代Cの人々に一人121リンゴの税を課し、これを原資に世代Cから債権を買い戻す。
世代Cのリンゴは121少ない、ということになる。
世代Aはリンゴを多く食べ、世代Cは少ない。これはちょうど、世代Cの口から世代Aの口へリンゴが時間移動するのと同じだ。(タイムマシンを通ることで利子が差し引かれる)
そう、政府負債は将来世代の負担なのだ。
場合によっては将来世代の負担を帳消しにできるだろうか。イエス。
リカーディアン均衡が意味するところでは、個人が次の世代の子供たちに債権を「売る」のではなく「贈与」することにすれば負担を帳消しにすることになる(訳注:従って余分のリンゴを食べない)。よって、リカーディアン均衡を信じる限りにおいて、国の借金は負担でないと議論してもよい。しかしそれは、各個人がそれを負担と見なし、それを帳消しする行動をとるがゆえに負担ではなくなるという話なのだ。ここでも無知無教養な人は正しい。
あるいは、この負債を子供の教育投資の原資に充てても負担を帳消しにすることができる。またあるいは、常に金利が成長率よりも低いとの仮定を加えれば「ノン・ポンジー」条件にならないので、将来世代に増税しなくても負債を永遠に利息付きでロールオーバーすることができ、よって世代Aが多くのリンゴを食べても、続く世代のリンゴが少なくなることはない(上の世代Cが現れず、Bの状況が続く)。
同様に、上の単純な仮定群はすべて、緩めても基本的な結論がほぼ同じになると示すことができるのだが、それは別の機会に。