●Tyler Cowen, “Where to leave your discarded books”(Marginal Revolution, August 5, 2005)
読み終えた本はいつまでも手元に置いておきたくはない性質だ(再読する機会がありそうなら、話は別だ)。「何かを捨てる(処分する)という行為それ自体が好きなんでしょう」とはロシア人の妻の言だが、その通り。(読み終えた本を)捨てるだけでなく、誰かにあげるというのも楽しみの一つだ。しかしながら、旅のお供に持ってきた本はどうしたらいいだろうか? その本を読み終えたら、一体誰にあげたらいいだろうか?
読み終えた本を、公園のベンチに置き去りにする。さて、その後にはどんな展開が待っているだろうか? 扇情的な内容が詰まったこの本が誰かに拾われ、人から人へと転々とするうちに、世界中の人々の生活をどう変えることになるだろうか? そんなふうに、行き当たりばったりの空想にふけることも時にある。しかし、最近は、事情が違っている。私の内部で、「実際的な経済学者」がその他の内なる声を押しのけて優勢気味なのだ。社会厚生を最大化するには、読み終えた本をどう処分すべきか(読み終えた本をどのように処分するのが社会的に最も有益か)? 内なる「実際的な経済学者」がそう問いかけてくるのだ。
旅行でシンガポールを訪れた時のことだ。読み終えた本――少々淫(みだ)らな内容の本――を、公共図書館の棚にこっそり置き去りにしてみたことがある。そのうち、誰かがきっとその本を見つけることだろう。しかし、その本を貸出カウンターに持っていったとして、無事に借り出せるだろうか? できるだけ多くの人の目に触れるように、満員電車の中だとか、バスの停留所だとかに置き去りにすればいい、という意見もあることだろう。
ラディカル(過激)な案もあるにはある。読み終えた本を、書店に置いてくるのだ。その本は、そのうち売れる可能性が高い。その本をレジに持って行くと、店員はまごつくことだろう。しかし、最終的には、喜んでお会計してくれることだろう。
言うまでもないだろうが、書店に置き去りにされた本には、「値段」が付くことになる。「値段」が付く分だけ、(「無料」の場合に比べると)誰かに読まれる可能性は低くなるかもしれない。その一方で、その本がふさわしい人物――その本を高く評価している(その「値段」で買ってもいいと考える)人物――の手に渡る可能性は高まることになる。資本主義経済における(売り手と買い手をつなぐ)仲介業者の役割が、こんなかたちで証拠立てられるわけだ。読み終えた本を処分するのであれば、公園のベンチに置き去りにして「無料」で手に入るようにするよりは、書店に置いてきて「定価」で手に入るようにした方が、おそらくは社会厚生の向上につながることだろう。
というわけで、本を読み終えたというあなた。その本をどこに置き去りにすればいいか、おわかりでしょ?