タイラー・コーエン「美術館の本当のお客は誰?」(2004年4月9日)

Tyler Cowen, “An Impossibly Crude Theory of Museums“(Marginal Revolution, April 9, 2004)

洞察力鋭いデビッド・ニシムラ [1]残念ながら引用先の記事はリンク切れ は、美術館は所蔵している美術品の売却になぜそんなにも強く反対されるのだろうかと疑問を呈している。私の(非公式の)推計では、数年の間にアメリカの美術館はコレクションのわずか5%しか展示していない。ニシムラは言う。

実際のところ、美術館は展示できなかったり美術館に関連の少ない或いは全く関連のない美術品でいっぱいになることが度々ある(選ぶ余地がなく好意の贈り物を受け取ることになるのは何も親戚縁者だけではないのだ!)。保管スペースという問題もあるし、保険費用も問題になる。

また美術館は時間とともに大きくなる。例えば、ほとんどすべての古いアメリカの美術館は明らかに二流のヨーロッパ絵画を収集することから始めている。そこから何世代か先に進むと、それら美術館のギャラリーは完全に別のレベルに達している。裕福なパトロンたちの遺産、大きく改善した鑑識眼、そしてあまりにも多くのヨーロッパ絵画の分散。以前はその美術館の代表的とされた美術品が、今は三流のオークションハウスで束になって売りに出されている。これはそんなに悪いことだろうか?特に売上金を美術館により合った作品の取得に使えるのだとしたら?

実際問題として、美術品を売却する美術館の館長はひどい批判にさらされる。なぜか?ここでひどく粗い理論、あまりにひどすぎて現実ではない理論の登場だ。

観者を美術館のお客だと考えるのをやめてみるのだ。代わりに、寄贈者をお客だとする。絵画を寄贈するのはお金を使うようなものだ。寄贈者はMOMA(ニューヨーク近代美術館)にピカソを寄贈し、お返しに「MOMAにピカソを寄贈した」という気持ちを購入する。これは税金、ネットワーキング、その他人生における特権と長期的なレガシーという利益を生む。美術館は見返りに、観者を惹きつけるために少々気を使い、そうすることで本当のお客(寄贈者)にこの事業全体についてより大きな満足を得られるようにする。

この「モデル」では、美術品の売却はお客(寄贈者)を心配させる。「私の死後、ピカソを手放さないってどうしていえるだろうか?」「所蔵品の中の二流作品しか売りに出しません」という答えはほんの少しの安心しか提供しない。なので、美術館は巨大で大きくなるばかりの美術品の山の上に座り込むことになる。このように将来の寄贈者に彼らの信頼性をシグナルしているのだ。

いくつかの推論のもとでは、この結果は大まかに効率的だ。絵画を貴重品保管庫に寄贈するのは、寄贈者が自分のリソースをそのように「消費したい」と欲するからだ。寄贈者は寄贈品を傑作だと信じ込むかもしれない。真実が明らかになる頃には寄贈者は亡くなっている。その後カンサス州トピカ市の美術館に絵画を売却することは、カンサスの観者が得る利益に比べると、将来の寄贈者にダメージを与える。美術館コミュニティはもちろん、寄贈者が第一のお客だとは認めたがらない(観者や政府の資金提供者がどう思うだろうか?)。なので、売却がなぜ悪いことなのか他の理由を提示しなければならなくなる。同時に、美術館は「動学的不整合性」 [2]事前には最適であった政策が、実際に政策を行う段階で必ずしも最適ではない政策になっていること の問題に直面し、どうにかしてクズを売却したくなる。

政策的な結論:政府からの資金提供は美術館の資金需要を楽にし、美術館は保管庫に絵画をしまっておきやすくなる。資金は亡くなった寄贈者の遺産に助成していることになり、将来の寄贈者に対する動学的不整合性の問題を緩和し、美術品の真の供給を制限して観者は損害を被る。これは単に幻のモデルであって、現実世界のことではないのだが。

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1 残念ながら引用先の記事はリンク切れ
2 事前には最適であった政策が、実際に政策を行う段階で必ずしも最適ではない政策になっていること
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