●Axel Leijonhufvud, “Stabilities and instabilities in the macroeconomy”(VOX, November 21, 2009)
現在の経済学は、その分析用具を用いて明らかにするはずの現実の経済の性質に関して地に足のついた理解を得ることができないでいる。現在主流の「摩擦を伴う安定性」に基づくマクロ経済理論(stable-with-frictions macro theory)においては、①レバレッジの不安定性、②連結性(connectivity)、③物価水準の潜在的な不安定性の三つが無視されている。「摩擦を伴う安定性」が支配的なパラダイムである限り、経済分析におけるテクニカルな面でいかなる進展があったとしても、現実の経済の理解の面で真の進歩がもたらされることはないだろうし、政府は新たな危機に対して準備不足の状態に置かれ続けることになるだろう。
およそ50年前に遡ると、経済学を学ぶ学生たちは次のように教えられたものだ。市場(経済における民間部門)は、完全雇用に向けて収束する傾向を有しておらず、乗数効果や加速度効果によって増幅された望ましからぬ景気変動に見舞われがちであるとともに、そこここに様々な種類の「市場の失敗」が存在している、と。加えて、次のようにも教えられたものである。だがしかし、慈悲深くて有能な民主主義下の政府が打ち出す政策を通じて、マクロ経済の安定化を実現し、大半の「市場の失敗」を是正する――「市場の失敗」の是正を通じて、経済厚生上の損失を軽微なものにとどめる――ことは可能である、と。
翻って50年後の今日、経済学を学ぶ学生たちは次のように教えられる。民主主義下の政府は、価格や生産量の余計な変動を生み出す。政府に対して適当な制約を課すことができれば――例えば、中央銀行に対して独立性を付与するなどして――、自由な市場は、完全雇用の実現をはじめとした多くの恩恵をもらたすことになる、と。50年の間に、マクロ経済政策に関する教義の焦点が、民間部門の安定化を図ることから、公共部門に制約を課すことへとシフトすることになったわけである。
過去50年の間に経済に関する視座に大きなシフトが生じることになったわけだが、この半世紀というのは、経済分析におけるテクニカルな面で大きな進展が見られた実り豊かな時期でもあった(Blanchard 2008)。しかしながら、この半世紀の経済学の歩みが示しているのは、自らが作り出した時流の表面をあてもなく漂いながら、ただただ途方に暮れている経済学の姿である。現在の経済学は、その分析用具を用いて明らかにするはずの現実の経済の性質に関して地に足のついた理解を得ることができないでいるのだ。
Neoclassical syntheses(新古典派総合)
20世から21世紀へと向かう世紀の転換点のあたりで、振り子が反転を始めた――といっても、その振れ幅は、それほど大きなものではなかったが――。マクロ経済学における「淡水学派」(“freshwater”)と「海水学派」(“saltwater”)との間に、「新-新古典派総合」(New Neoclassical Synthesis)として知られる「汽水」(“brackish”)的な妥協が成立することになったのである。「海水学派」たるニューケインジアンの面々は、ニュークラシカルの手によって開発された動学的確率的一般均衡(DSGE)モデルを受け入れた。その一方で、「淡水学派」たるニュークラシカルの面々は、ニューケインジアンによって長らく研究されてきた、市場における 「摩擦」(“frictions”)や資本市場における「不完全性」(“imperfections”)を受け入れるところとなったのである。
この「新しい総合」は、50年前の「古い総合」と同様の想定に立っている。すなわち、現実の経済は、安定的な一般均衡システムのように振舞い、基本的には均衡に向かう傾向を有しているものの、その傾向が時折「摩擦」によって妨げられることがある、との想定に立っているのだ。「新しい総合」の立場に立つ経済学者は、目下の出来事(金融危機に端を発する世界的な経済危機)は理論的に説明可能な現象であると言い張ろうとしているが、既存の理論では現在の危機はうまく説明できないのだ。
私の判断では、新旧どちらの総合も間違っている。新旧どちらの総合も、市場経済の性質に関する根本的な誤解を抱えている。「摩擦を伴う安定性」(“stability-with-frictions”)が支配的なパラダイムである限りは、経済分析におけるテクニカルな面でいかなる進展があろうとも、現実の経済の理解の面で真の進歩がもたらされることはないだろう。現実の経済の理解の面で真の進歩を実現するためには、現代経済における真の不安定性の問題に正面から立ち向かわなければならないのだ。
A complex adaptive system(「複雑な適応システム」としての経済システム)
現実の経済は、適応的な動的システム(adaptive dynamical system)である。現実の経済は、時に「市場メカニズム」と呼ばれるところの自己規制的な(self-regulating)特性――均衡に向かう特性――を有しているものの、「市場メカニズム」は、複雑なシステム内部で展開される様々な経済活動間でのコーディネーションを必ずしも保証するものではない。約40年前に遡るが、この点に関連して「回廊仮説」(“corridor hypothesis”)と呼ばれる仮説を私なりに展開したことがある。「回廊仮説」の概要は、こうである。何らかのショックが生じて経済が均衡状態から離れることがあったとしても、均衡経路付近の「回廊」の内部にとどまっていれば、「古典派」的な調整が働いて経済は再び均衡に復することになる。しかし、回廊の外側にある「ケインジアン」的な領域では、市場に備わる自己規制的な力は損なわれる。それゆえ、均衡からの乖離が大きくて、経済が回廊の外側に位置するような状況では、政府による安定化政策の助けがない限り、経済は再び均衡に復することができないかもしれない。
「回廊仮説」に関するオリジナルの議論では、逸脱増幅的な(deviation-amplifying;均衡からの乖離を促すような)乗数効果について細かく検討が加えられたが、逸脱増幅的なプロセスに目を向けるというのは稀なケースに着目しているように見えて、説得的に感じられないかもしれない。しかしながら、経済システム以外の他のあらゆる複雑な動的システム――人工的なものであれ、自然環境下に存在するのものであれ――においては、ホメオスタシスの働きに限界が存すると言われていることも事実である。この点に関して、経済システムだけが例外というのはありそうにない。
経済システムの状態空間(state-space)上には、均衡に向かう特性を備えた領域に加えて、逸脱増幅的なプロセスが作動して均衡に向かう特性の力が削がれる領域も存在すると見なしても、それほど的外れではないだろう。しかしながら、話はここで終わらない。現在の危機は、乗数効果以外の――そして、その効果が発動する領域が乗数効果ほど限定されてはいない――不安定性を引き起こすポジティブ・フィードバック・ループの例をいくつか明らかにしているのだ。例えば、銀行によるデレバレッジ(債務の圧縮)がそうだ。銀行がデレバレッジに取り組めば、ビジネス部門に対する信用(銀行貸出)の供与が削られることになる。その結果として、不況がさらに深まって、銀行が保有する資産の毀損がさらに進むことになれば、銀行がデレバレッジを通じてバランスシートを縮小させようとするインセンティブは一層高まることになるだろう。不安定性を引き起こすフィードバック・ループの中でも最も危険なのは――これまでのところは、どうにかして回避してきているが――、フィッシャー流のデット・デフレーションである。経済システムの状態空間上には、いかなる犠牲を払ってでも避けるべき領域が存在するのだ。
この種の「衝撃-波及」(impulse-propagation)の枠組みでは、ショック(衝撃)の発生に伴ってシステムが均衡から大きく離れた場合に、システムがどのように振舞うことになるかという点が問われることになる。この枠組みにおいては、衝撃は外生的なものと見なされていることもあって、不安定性が内生的に引き起こされる可能性が見過ごされてしまうおそれがある。
過去200年の経験を通じて学び取られてきたことの一つは、部分準備銀行制度(fractional reserve banking)には内生的な不安定性が備わっているということだ。部分準備銀行制度に備わる「金融的な不安定性」が商業銀行システムを超えて波及する可能性を説いたのは、ハイマン・ミンスキー(Hyman Minsky)だ。ミンスキーは、次のように主張した。危機に晒されないでいる期間が長引くと――最近の「大平穏」(“Great Moderation”)期のように――、人々がリスクを引き受けるのに抵抗を感じなくなり、それに伴って経済システムは「金融的に脆弱な」状況に置かれるようになる。そして、脆弱なシステムは、遅かれ早かれ崩壊することになるだろう、と。
Systemic problems(システミックな問題)
現在世界経済が直面している喫緊の問題には、「摩擦を伴う安定性」に基づくマクロ経済理論によって無視されてきた「3つの不安定性」が絡んでいる。「3つの不安定性」については、私もこれまでにVOXの論説で詳しく論じてきたところだ(Leijonhufvud, June 2007, January 2009, and July 2009)。
- レバレッジの不安定性(Instability of leverage):ライバルよりも何倍も高い収益を獲得しようとして、どの金融機関も歴史的に見て極めて高率のレバレッジをきかせた取引に臨んだ。それに伴って、リスクスプレッドは歴史上最低の水準にまで縮小することになり、金融機関のバランスシートにはやがて「不良債権」(“toxic”)へと化すことになる資産が大量に計上されることになったのであった。
- 連結性(Connectivity):かつてのアメリカの金融システムは、グラス=スティーガル法によって異なる業務分野――異なる業務分野は、投資可能な資産の種類と、発行可能な負債の種類によって区別された――の間で分断されており、異なる業務分野で活動する金融機関が互いに直接競争することはなかった。しかしながら、規制緩和が進んだ結果として、金融機関が形成するグローバル・ネットワークの連結性が急激に高まることになった。1980年代のアメリカで生じたS&L危機は非常に大きなコストをもたらしたが、その影響が及んだのはアメリカの住宅金融部門だけだった。現在の危機もアメリカの住宅金融部門に端を発しているが、(金融機関相互の連結性の高まりを背景として;訳者挿入)その影響は世界中にまで波及することになったのである。
- 物価水準の潜在的な不安定性(Potential instability of the price level):アメリカの消費者物価は、中国をはじめとした貿易相手国による為替レート政策(為替安(人民元安etc)政策)と、中国をはじめとした新興国からの安価な製品の輸入に支えられて、10年間にわたって安定を保つことになった。さらには、「大平穏」(The Great Moderation)期を経て、予想インフレ率のボラティリティも低下することになった。今後これらの条件に変化が生じるようであれば、 「インフレ目標+マネタリーベースの内生的な調整(受動的な供給)+唯一の政策手段としてのFF金利」といった特徴を備えた金融政策の既存の枠組みは、金融面での安定を保つには不適切であることが判明するに違いない。
Current issues(現在の課題)
注意を払ってその成り行きを見守るべき課題は、以下の4つである。
- 前途に立ちはだかっている脅威は、二つのタイプに分けられる。日本型の景気停滞と、ラテンアメリカ型の高率のインフレーションである。通常であれば、どちらの脅威もほとんどあり得ないことであり、起き得る事象をその可能性の高い順に列挙したリストのかなり下の方に位置することだろう。しかしながら、①高水準の政府債務残高、②社会保障財源の大規模な積み立て不足、③大幅な財政赤字という事実に照らせば、どちらの脅威もまったくあり得ないこととは言い切れないのだ。財政問題を決然と解決することに伴う政治的な困難を思えば、財政にまつわる問題はあくまで一時的な苦境であるとは言えないであろう。スキュラとカリブディスの間の航行可能な経路(ルート)は、かなり狭まってきている(進退はかなり窮まってきている)のだ。
- 今後の政策の方向性を見極めるにあたり、念頭に置いておくべき非常に重要な事実がある。今般の危機の最中に繰り出された金融機関の救済策(ベイルアウト)や財政出動のおかげで財政赤字が極限にまで膨らんだために、将来的にバブルが崩壊した場合にそれに対処できるだけの財政面での余地(財政政策で対処できる余地)がもう残されていないという事実がそれだ。そのことを踏まえると、政策はフェイルセーフ(fail-safe)モードで運営されるべきである。現下の超低金利政策は、フェイルセーフの発想に基づくものとは言えない。低金利政策の目的は、景気のさらなる悪化を避けるために、資産価格をできるだけ引き上げることにある。それは細心の注意を要するオペレーションであって、フェイルセーフの発想に基づくものとは言えないのだ。現下の低金利政策は、民間の銀行に対して、高いレバレッジをかけて満期転換 [1] 訳注;短期で調達した資金を元手に、満期が長期の資産に投資する に励むゲーム――現下の危機を招く原因となったゲーム――を再開するよう促す強力なインセンティブを醸成しつつある。民間の銀行がそちらの方向に舵を切りつつあるのは明らかだ。
- 今回の危機をもたらした重要な犯人と言えば、高いレバレッジである。再び危機が発生するリスクを減らすためには、レバレッジを抑制する方向に向かわねばならない。しかし、各国の政府は、金融部門がデレバレッジをすすめるのに乗り気ではないようだ。金融機関がデレバレッジをすすめたら、その過程で資産価格が下落するだけでなく、信用(銀行貸出等)が抑えられることになり、そのせいで不況が一層悪化するかもしれないと心配しているようなのだ。じゃあ、問いたいと思う。今じゃないとしたら、一体いつならいいのだろうか?
- 各国の中央銀行は、「出口戦略」――セントラルバンカーらによると、出口戦略というのは、風変わりな [2] 訳注;「風変わりな」=通常であれば中央銀行が買い取らないだろう、という意味。 資産が混在するかたちで大きく膨らんだバランスシートを正常な状態に戻す [3] 訳注;バランスシートの規模ならびに資産構成を平常時の状態に戻す ことを意味しているらしい――に乗り出す機会をうかがっているが、おそらく思い通りにはいかないだろう。たとえ首尾よくいったとしても、将来また今回のような危機が生じたら、今回のようになりふり構わないかたちで非伝統的な政策に打って出なければいけなくなるだろう。それもこれも、既存の制度的な枠組みの下では、中央銀行の責務がどこまで及ぶのかがはっきりと確定していないことに原因があるのだ。この問題を解決するには、金融システムに新たな規制を課すしかないと思われるが、規制の具体的な中身となるとよくわかっていないのが現状だ。
<参考文献>
●Blanchard, Olivier (2008), “The state of macro”, NBER Working Paper14259.
●Leijonhufvud, Axel (2007), “The perils of inflation targeting”, VoxEU.org, 25 June 2007
●Leijonhufvud, Axel (2009), “Fixing the crisis: Two systemic problems”,VoxEU.org, 12 January.
●Leijonhufvud, Axel (2009), “Curbing instability: policy and regulation”,VoxEU.org, 11 July.
●Leijonhufvud, Axel (2009), “Macroeconomics and the Crisis: A Personal Appraisal”, CEPR Policy Insight 41, November.