大恐慌や第二次世界大戦は,経済や公共政策についての考え方を変えた.同じく,COVID-19 パンデミックも(気候変動とならんで)同様だ.変わるのは,セミナーや政策シンクタンクの考え方だけではない.ふつうの人々が生計や将来について語る日常の言葉も変わることだろう.政策のさまざまな選択肢がなす政府 vs. 市場の尺度では,左寄りの〔政府重視の〕方向への移行が促されるだろう.だが,もっと重要なのは次の点だ――そうした政府 vs. 市場という一次元の尺度に選択肢を並べる時代錯誤なメニューに替わって,コンプライアンスと物質的な利益を超えた社会的な価値を用いたアプローチが取り込まれるかもしれない.
気候変動をめぐる公共の懸念が高まる中で,政策パラダイムとして自己利益と自由放任をよしとする指向は,すでにぐらついていたが,今回のCOVID-19 パンデミックは,このパラダイムに痛打を与えている.パンデミックは,経済をめぐる私たちの語り方を変えるだろうか? 経済の仕組みと,そのあるべき姿について,ふつうの人々の理解を刷新するだろうか?
そうなると本稿は考える.ただ,変わると言っても,たんに「市場 vs. 政府」という時代錯誤な一次元尺度(図1)で左に寄っていくだけではない.青線上の位置が示すのは,各種公共政策のなんらかの組み合わせ〔が市場重視/政府重視な度合い〕だ――たとえば,鉄道の国有化は左に向かうのに対して,労働市場の規制緩和は右に向かう.
▼ 図1: 政策・経済論議の政府-市場尺度
良くも悪くも,COVID-19 によって,論争で3つ目の極点に焦点がおかれる:これを,地域社会または市民社会と呼ぼう.この3つ目の極点がないと,経済学や公共政策を語る伝統的な言語では,政府でも市場でもない制度や社会規範の寄与がとりこぼされる――たとえば,家族・企業内の人間関係・地域社会の組織などの寄与が語られないままになる.
〔今回のパンデミックで生じると〕私たちが予期している変化の規模には,前例がいくつかある.大恐慌と第二次世界大戦で,私たちの経済の語り方は変わった:なるようにまかせてたら,経済は人々の生活を破綻させてしまう(大量失業).「無頓着な自己利益はダメな経済学だ」(フランクリン・ルーズベルト)[1].そして,政府は公共善をうまく追求できる(ファシズム打倒,経済的安全の提供).この時代の記憶が薄れるにつれて,そこで育まれた社会的連帯と集合行動への信頼もいっしょに弱まり,これと別の語り口に取って代わられた:「社会などというものはない」(サッチャー)[2]――自分でお金を払ったモノが自分の手に入るのであって,政府もまた特殊利害集団にすぎない.
経済を語る語り口の根本的な変化が長らく必要とされてきた.いま,その機会が現れつつある.気候変動とならんで,COVID-19 は経済と政策の考え方に潮目の変化を起こすうえで,大恐慌や第二次世界大戦と同等のはたらきをしうる.
また,COVID-19 の語りをめぐる戦いはすでに進行中だ.『エコノミスト』誌は,警報を発している:「パンデミックと戦うために大きな政府が必要とされている.大事なのは,事態が収束したあとに,その政府をどうやって縮小するかだ.(…)パンデミック政府は,日常生活にはふさわしくない.」[3] 「政府を手を広げすぎたために,アメリカは用意が整わないでいるのだ」という声を聞く.「国中の学術的・臨床的な実験室は自分たちのコミュニティで検査を開発して採用する能力と意欲があるのに,厳格で時間のかかる FDA 〔による認可〕があれこれと求める事項ゆえに,それがかなわない」という話が出回っている.[4]
だが,アメリカ人もイギリス人もイタリア人も日本人も他の国の人々も,おそらく,「自分たちの政府が韓国政府のように最初からもっとやっていてくれたらよかったのに」「韓国政府による政策をあれほど効果的にしている市民たちの公共心が自分の同胞たちにもあればよかったのに」と願っていることだろう.
韓国は,COVID-19 との苦闘の物語りが展開される主要な劇場となるだろう.韓国でのパンデミック封じ込め成功の秘訣が SARS や H1N1 やその他の疫病をあの地域が長らく経験してきたことにあるのだという話を,たくさん耳にすることになるだろう.あるいは,韓国政治における権威主義体制の歴史の話だろうか? それとも,たとえばアメリカ人よりも韓国人の方がたんにもっと協調的だから,といった話だろうか?
のちに語られる話がどうなるかは,まだわからない.権威ある Polity IV データセットによれば,韓国はアメリカやイギリスと同程度の民主主義だ [5].アメリカは疫病の経験が豊富にある.ずっと公表されずにいた半年前の政府報告書では,仮想のパンデミックをシミュレートして,いまの事態推移とほとんど同じ状況を予期している.それどころか,ソウルの住人たちもとりたてて協調性に傑出しているわけではない.少なくとも,公共財への貢献に関する実験では,ボンやボストンやチューリッヒやコペンハーゲンの人々に比べてソウルの人々がそんなに優れているわけではなかった (Hermann et al. 2008).
それでも,次の点を指摘する人たちもいるだろう――「迅速かつ大規模なテスト・追跡・対人距離維持の実施(いずれも大部分は自発的なもの)を韓国は採用し,感染拡大に関わる専門知識をすばやく動員し,とてつもない数の集中治療病床を利用できる態勢を整え,さらに,包括的な医療制度がこうした施策を円滑に進めやすくし抵抗を和らげたではないか.」いままでのところ,韓国は個人の旅行や移動への極端な制限や空港閉鎖は回避している.
だが,COVID-19 との苦闘の物語りで,さらに「もっと政府を」vs.「もっと市場を」の戦線を再演する必要はない.進行中のパンデミックをとらえる3つのスナップショットで,その理由は説明される.
イギリスでは,国民保健サービス (NHS) が 25万人のボランティアに支援を要請した.その5日後,ボランティア募集は中断された.殺到した 75万の応募者に対応しなくてはいけなくなったからだ.[6]
4月9日時点で,コロナウイルス検査を受けた韓国人は 49万4,711人にのぼる.[7]
世界各地で,アジア系の人々への攻撃が増加している.トランプ大統領が「中国人ウイルス」という言葉を繰り返し発し続けたせいで攻撃が後押しされたと考える人たちもいる.
パンデミック後に現れるだろう COVID-19 物語りは,3つの事実を盛り込まなくてはならないだろう.第一に,政府が――どんなにうまく組織だっていて専門的であろうとも――今回のパンデミックのような難題に対応しようにも,公共心ある市民がみずからの政府の公衆衛生上のアドバイスを信頼し法の支配に献身することなしには,それはかなわない.第二に,とてつもなく大きなリスクと便益に直面しながらも,人々は現に寛大な心と信頼をもって大規模に行動した.そして第三に,経済学で人々を個人主義的で利己的な存在として描いているのはひどく不正確であることが示されている.これは,警戒すべきことでもあるのかもしれない:人々は,前向きなかたちだけでなく後ろ向きなかたちでも,他人を気にかけるものなのかもしれない.外国人を嫌悪し排斥しようとする攻撃が恐ろしいほどに増加した点には,警戒を要す.
その帰結として,哲学者たちが「選好中立性」(preference neutrality) と呼ぶリベラルな信条を再考するほかない.この信条は,経済学では有名論文 “De gustibus non est diputandum”(「趣味嗜好は論議の的にあらず」; Becker & Stigler 1977)と結びつけられている.このリベラルな信条やその経済学での変種は,事実上,「好むと好まざるとに関わらず」という価値観を,公共の論争や政策の枠外にまで広げている.だが,〔選好中立的でない〕私たちの価値観に備わっている性質は,COVID-19 感染拡大に対処するうえでも民主的な社会を維持するうえでも,必要不可欠だ.それゆえに,どれほど居心地が悪かろうと,「趣味嗜好を論じる」ことに慣れなくてはならないだろう.
私たちが重んじる価値のなかでも,公正は大いに論じられることになるだろう.いま私たちは日々さまざまな意志決定に直面している――安定しないネット接続で遠隔授業で学んでいる学生たちの成績評価をつけたり,人工呼吸器を誰に回すか優先順位を決めたりしている.在宅勤務できない人たちに不公正な処罰を加えていれば,都市封鎖(ロックダウン)規制にしたがう人々の姿勢は崩れていくだろう.その結果,私たちの国や世界が考慮する事柄の中心は,倫理に関わるさまざまな考慮事項が占めることになる.そうした考慮事項には,人命を重んじることも含まれるが,それで終わりではない.そして,こうした考慮事項が私たちの普段の会話に入り込むことで,私たちの経済を語る言葉は豊かになるだろう.
政府による命令・認可と市場のインセンティブをどう組み合わせてみようと――どれほど賢く設計しようと――パンデミックのような問題への解決を産み出しはしない.私たちが市民社会(あるいはコミュニティ)と呼ぶものは,経済を殺すことなく COVID-19 を殺す戦略に必要不可欠な要素を提供する.
新たな理論に含まれる二重の要素――民間の契約と国による命令・認可の限界,(ときどき)社会を指向する経済主体に関する新たな考え方によって,経済論議がパンデミックに関与しうる余地が生まれる(図1を参照).図の上部にある横向きの青い線は,1世紀にわたって政策論議を支配してきた左派-右派(政府 vs. 市場)のさまざまな選択肢が位置づけられる尺度を示す.関連論文で,私たちはこうした考えをさらに発展させる (Bowles & Carlin 2020).
▼ 図2: 政策・経済言説の拡張された空間
註記: 図中にたくさんある緑の矢印は,COVID-19 に関連した各種の政策がこの空間内で占める位置を示す.黒い矢印は,それ以外の例だ.[8]
私たちが市民社会というラベルをつけた第三極によって開かれた空間内の〔任意の〕点は,政府 vs. 市場という2つの極にまたがる青線上の点と似た意味がある.社会の課題へのさまざまな解決法を実施するにあたって,政府の命令・認可,市場のインセンティブ,市民社会の規範をそれぞれどう重み付けしうるかを,この空間内の〔任意の〕点は示す.(〔任意の〕点の座標は,足し合わせると 1 になる.それぞれの軸のウェイトは,当該の頂点の反対側にある角から点までの最短距離となる.よって,いずれかの頂点に点が重なる解決法,たとえば図中の「義務的なリスク共有(移転)」〔左上〕は,政府のウェイトが 1 になる一方で,市場と市民社会のウェイトは 0 になる.〔なんかおかしいのでは.だったら「ドイツの医療制度」の座標はどうなるんだろう?〕)
市民社会にとって枢要な動機を,私たちは互酬性・公正・持続可能性などの一連の倫理的価値で特徴づける.また,これにはアイデンティティの項目も含める.ここでいうアイデンティティとは,ある人が「彼ら」に対して「我ら」と呼ぶ人々を優遇するバイアスを意味する.市民社会の尺度がもつこの側面に着目するのは,パンデミックへの対応をかたちづくる際のコミュニティの重要性を主張するためだ.コミュニティに基盤をもつ解決法には,排外的で偏狭で嫌悪・反目からくる行動を維持する能力がある点も私たちは認識している.
図2 では,疫病へのさまざまな対応が「制度空間」で占める位置を例示している.左上には,最後の保険提供者としての政府がある.市場も家計のリスク共有も,封じ込め政策で必要となる経済全体での活動縮小を扱えないし,また,リスクを薄く広く共有するのを可能にするほぼ全員参加を強いることもできない.
〔図中で〕市民社会の極に近いところにあるのが,合意によって実施される対人距離維持の政策だ.この三角形は,いわゆるダンケルク戦略の現代版に似た空間をなしている――1940年に,ドイツ軍の包囲から兵士たちを撤退させるリソースがイギリス海軍には欠如していたなかで,民間所有の小型舟艇がその不足を補った作戦と似ている.その一例は,検査の生産・処理を引き受けたり稀少な人工呼吸器を代替する新しい機器を開発しようとする民間の小さな研究所や大学による,公共心から発した行動だ.
こうした事例により,制度設計や製作設計に関する重要な真理が強調される:すなわち,制度空間の3つの極は――少なくとも理想的には――お互いを代替するのではなく補完し合うのだ.うまく設計された政府の政策は,市場のはたらきを強化し,協力などの社会的に価値のある選好の意義を強化する.うまく設計された市場は,政府の力を強め,倫理的・向社会的な選好を押しのけることなく政府にいっそうの説明責任を発揮させる.
COVID-19 後に経済を語る言葉に不可欠だと私たちが考えている内容の多くは,この分野で近年成し遂げられた2つの進歩に表れている.
ひとつは,「情報は稀少で局所的だ」という,ハイエクにさかのぼる知見だ.政府当局も民間の事業主も企業の管理職も,最適な対人距離維持・監視・医療分野へのリソース配分(ワクチン開発を含む)をどう実施しようにも,インセンティブに基づく契約や政府による命令・認可を書けるほどの知識を持ち合わせていない.
経済学に起きた2つ目の大きな変化は,希望をもたらしてくれる.契約や命令・認可ではまともに対応されない問題を,政府にも市場にもよらない解決法が実際に緩和するのに貢献するかもしれない,という希望だ.伝統的な経済学では人間は個人主義的で没道徳的だと描き出す.だが,それとははるかにかけ離れて,人間は倫理的価値やその他の選好にもとづく協力をとてつもない水準で行いうるということが,行動経済学の革命によって明らかになっている.
大恐慌や第二次世界大戦の場合と同じく,COVID-19 後も,私たちは大きく様変わりするだろう.また,経済の語られ方も,様変わりしてほしいものだ.
だが,大恐慌以後の時期と今日とでは決定的な相違点が1つある.大恐慌当時のパンデミック,すなわち大量失業や経済格差は,ゲームに新たなルールを持ち込み,これがすぐに便益をもたらすこととなった.失業保険,政府支出の役割の増大,そして多くの国々における賃金設定・新技術導入への労働組合の関与は,経済の新たな語り口による分析と倫理の両方を反映している.その結果は,資本主義の黄金時代と呼ばれる,数十年にわたるすぐれた実績の時代だった.これにより,新しいルールと新しい語り口は排除しがたくなった.
気候変動や繰り返されるパンデミックの脅威によって蓄積するコストによって,〔大恐慌後の変化と〕同様の新しい経済の語り口と新しいゲームのルールとの共生を支える環境がつくられ,ただちに具体的な便益をもたらすのは,ありうるとはいえ,およそ確実とは言いがたい.
原註