ピーター・ターチン「社会科学者が戦争を研究しなければならない理由」(2012年3月18日)

戦争を研究する社会科学者には、十全たる勇気(あるいは十全たる愚かさ)が必要になっている。


一月ほど前、私はノックスビルでの社会進化論のワークショップに続けて行われた公開討論会に参加した。討論会で私は、ジェリー・サブロフと一緒に、「戦争は社会進化における創造的原動力である――戦争は、人類を村落の生活から巨大な国家での生活へと変貌させ、人類に都市や文明を築かせ、究極的には我々の生活に平和をもたらした」と主張した。尊敬すべき学僚である、ザンダー・ヴァン・デア・レーウとティム・ケーラーは、我々のこの命題に反論した。討論会の最後に、聴衆の投票があり、我々側は完全に敗北を喫した(我々の命題に賛成の投票は5%くらいだったと思う)。まあ、私は特に気にしていない。我々への反論が素晴らしいから聴衆は揺り動かされたわけでではなく、単に多くは「戦争に反対してます」との理由で投票したとハッキリと感じられたからだ。

私は最近、イーサン・コクランとアンドリュー・ガードナーが編集した “Evolutionary and Interpretive Archaeologies: A Dialogue(進化論と解釈考古学による対話)”を読んでいる。いろいろな意味で興味が尽きない本だが、私的に最も興味深かったのが、サイモン・ジェームズによる「暴力行為と戦争状態」についての論説だった。「子供や配偶者への殴打を禁ずること、死刑を廃止すること、軍国主義を忌避すること、これらは人間価値の普遍的な進歩の表れであると、ほとんどの人は同意するだろう」とジェームズは書いている。過去数十年においても、ほとんどの欧米人が経験する暴力の水準は著しく低下し、暴力は常軌を逸したものであると見なすのが当たり前になっている。暴力について論じること自体が不快なものとなっており、ジェームズが挑発的に指摘しているように、暴力についての論題は、ヴィクトリア朝英国におけるセックスと全く同じくらい文化的タブーになっている。

このような考え方は称賛に値するかもしれないが、社会科学者が戦争を研究するのを困難にもしている。研究者もまた、広範な社会の一部であり、世相の気分が変化すれば影響される。戦争が道徳的に批判されるようになると、戦争についての研究も流行らなくなる。人類学や考古学では、戦争や暴力の経験的証拠を隠蔽しようとする傾向が表れてきている。〔発掘された〕人間の骨格には高い比率で、暴力による被害の痕跡があることを、考古学者は調査で明らかにしているが、こういった証拠は端的に無視されているか、視認されても報告されない。例えば、〔発掘された〕巨大な要塞を、「市民の誇り」や「帝国の荘厳さ」を表す象徴的建造物として曲解して説明するのが流行となっている。ローレンス・キーリーは、1996年の著作“War Before Civilization(文明化以前の戦争)”で、こういった傾向を「過去の平和化」と名付けている。

戦争は非常に感情的な軋轢を産むので、研究するのは難しいテーマだ。戦争は、人間本性の最悪と最良の両面を引き出す。分析的かつ、冷静にアプローチするのは難しい。さらに、戦争は社会に様々な影響を与える。悪い影響もあれば、良い影響もある。私は、戦争が社会を大規模で複雑なものに進化させる直接的な原因であり、大規模で複雑な社会を維持してきた最重要の淘汰圧であるという論拠を発展させてきた(討論会でもこのことをについて言及している)。このような戦争の創造的役割は、経済学者のサミュエル・ボウルズ、人類学者ピーター・リチャーソン、歴史学者イアン・モリスといった他の学僚達によっても探求されてきている。この戦争の創造的役割の見解が正しいとすれば、我々は戦争を根絶するやり方に関して、慎重にならねばならない。私を含めて、地球上の大多数の人が、戦争の根絶を望んでいるのは明らかだ。しかし、戦争を根絶した結果、社会が分断され、国家が崩壊することになるかもしれない。もしそうなってしまえば、戦争が新たな悪循環として必然的に永続し、我々の〔戦争根絶の〕営為は全て無に帰すだろう。歴史には、善意の介入が意図せぬ結果を招いた事例で溢れている。

この不愉快な論題について論じるには、「戦争を道徳的に非難するための根拠」と、我々の社会が実際に戦争を行ってしまっていることの矛盾に対処することが不可欠となっている。アメリカで「国防」と呼ばれているものへの支出は、世界のアメリカ以外の国の国防費を足し合わせたものとほぼ同額である。マデレーン・オルブライト [1]訳注:アメリカ人政治家。クリントン政権期に国連大使や国務長官を努めている の言葉を借りれば、「使わないならこんな便利なものを持っておく必要ないでしょう?」ということになる。なので、現在の戦争のほとんどが、アメリカ軍(あるいはアメリカの様々な代理勢力)が関与した戦闘となっているのは、不思議でも何でもない。

「道徳的な非難」と「精力的な戦争遂行」が平和共存していること、研究分野が感情的な軋轢を引き起こす性質となっていること、これらが強力に混在しているため、分野が真正の地雷地帯となっており、戦争を研究する社会科学者には、十全たる勇気(あるいは十全たる愚かさ)が必要になっている。しかしながら、この分野は非常に重要なので、政治家等の非研究者だけに任せては駄目なのだ。

[Peter Turchin, “Why Social Scientists Need to Study War” cliodynamica, 18 MARCH, 2012]

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1 訳注:アメリカ人政治家。クリントン政権期に国連大使や国務長官を努めている
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