左派の大多数は、あらゆる社会問題について、「もっと民主主義を進めれば(more democracy)」解決できると考えているようだ。子供たちが学校で問題行動を起こしている?子供たちの教育環境は子供たち自身にもっと任せればいいじゃないか。労働者が怠けている?労働者が自分たちで上司を選べるようにすれば、うまくいくはずじゃないか。敵対する部族同士で殺し合っている?もっと参加型の氏族統治を導入すればいいじゃないか。
もちろんこうした発想の大部分は、現実の民主主義が差し迫った社会問題に対処できるという信念から説明できるものではない。むしろこの発想は、「民主主義はこのように機能するはずだ」という理想化されたモデルに基づいている。この見方によれば、民主主義は、あらゆる意思決定に適用し得る万能の仕組みとみなされる。すなわち、これまで社会の基本構造を支配してきたエリートやヒエラルキー(階層)、あるいは権威に基づくいかなる制度的枠組みを、「人民の意志(will of the people)」へと置き換えることができると考えられている。
こうした民主主義観が最も極端な形で現れるのが、「サイバー・デモクラシー(cyberdemocracy)」や「E-デモクラシー(e-democracy)」の理想である。そこでは、市民があらゆる重要な意思決定のたびに、インターネットや、場合によっては携帯電話を使って投票することが想定されている。市民の意見が十分に取り入れられれば、選挙で選ばれた代表者を完全に排除し、一人一人の市民の選好を直接、多数派の意思決定へと集約することも可能になるかもしれない。そうなれば、まさに「人民による統治(government by the people)」と呼べるだろう。
残念ながら、民主的意思決定に関する理論的研究の大半は、この種の楽観主義を支持していない。個々人の選好を統一された「一般意志(general will)」へ集約する方法が通常存在しないばかりか、そもそも首尾一貫した「人民の意志(will of the people)」自体が存在しない場合も少なくないことが明らかになっている。結局のところ、民主主義とは、すでに大半の問題を解決してしまっている人々のための問題解決メカニズムにすぎない。
これらは、「公共選択理論(public choice theory)」と呼ばれる経済学の一分野から得られた主要な知見の一部である。残念ながら、公共選択理論の文献の多くは、反政府的な悪罵や右派的バイアスに彩られており、時には滑稽とさえ言える域に達している。例えば、公共選択理論家はしばしば、「政治家は利己的である」という前提から出発し、それを「外発的なインセンティブによってのみ動く存在だ」と解してしまう。ビジネスマンが金を追いかけるなら、政治家は何を追いかけるのか。票である。したがって、政治家のあらゆる行動や意思決定は、再選を確保したいという欲求によって動機づけられていることになる。次に、公共選択理論家は、「政府は公共の利益にどれだけ役立つのか」と問いかける。そして、いくつもの複雑な数式を経た末にたどり着く答えは、「大して役に立たない」というものである。
このモデルがいかに非現実的であるかについては、すでに多くの人が指摘している。例えば、このモデルでは、愛国心や政治的イデオロギーがまったく考慮されていない。また、政治家は公共の利益や他者の福祉に対して、いかなるコミットメントも持たないことが前提とされている。しかし、この前提がいかにアメリカ的であるかについては、あまり注目されてこなかった。例えば、公共選択理論家は、立法府における自由投票や、個々の政治家がそれぞれ選挙資金に責任を負うことを当然の前提としている。しかし、アメリカ以外の民主主義国では、議員の行動は政党政治に強く規定されているため、このモデルは民主主義制度一般を分析する道具としては、まるで役に立たない。
このような偏狭さと、政府に対する素朴な冷笑主義が相まって、公共選択理論は、単なる右派イデオロギーの焼き直しとして片付けられがちである。これは残念なことである。というのも、公共選択理論の文献では、民主的意思決定手続きの正当性や堅牢性について、極めて重要な知見が数多く示されているからである。これらの知見はいずれも、民主的意思決定手続きを経済領域へ拡張する可能性に対して深刻な疑問を投げかけている。そして、それらの知見は、公共選択理論家が政治家や有権者に対して抱きがちな、非好意的な前提とは無関係に得られたものである。
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まずは良い話から始めよう。民主主義の中心的な魅力の一つは、時に「群衆の知恵(wisdom of crowds)」と呼ばれるものにある。【1】かつてエイブラハム・リンカーンはこう述べた。「一部の人々を常に騙すことはできるし、すべての人々を一時的に騙すこともできる。しかし、すべての人々を常に騙すことはできない」。その理由は、人を騙すことはそう簡単ではないからだ。そのため、騙そうとする相手が多ければ多いほど、あるいは騙そうとする頻度が高ければ高いほど、騙せる確率は低くなる。この議論が正しければ、「多数者による支配」は「少数者による支配」よりも優れていることになる。その理由は単純で、大数の法則(law of large numbers)を活用することで、協力から生じる利益を引き出すことができるからである。
この直感を初めて理論的に定式化しようと試みたのは、18世紀のコンドルセ侯爵(訳註:フランスの啓蒙思想家・数学者)だった。当時問題となっていたのは、陪審の最適規模である。陪審員の人数が多いほど判断の信頼性は高まるが、その一方で、人数が増えすぎると意思決定に到達すること自体が難しくなると考えられていた。このバランスを考えるために、コンドルセは、この二つの要因を数理的に表現するための定式化を行う必要があった。
最も大きな影響を与えたのは、コンドルセが信頼性の問題を定式化した方法だった。平均的な人は、嘘を見抜く能力をある程度持っていると仮定しよう。例えば、被告人が証言台に立って「私はやっていない」と述べたとき、陪審員は60%の確率で、その証言が真実かどうかを正しく判断できるものとする。10人からなる陪審が満場一致で被告人を有罪と判断した場合、その人物が実際に有罪である確率はどの程度だろうか。陪審の判断が誤っているとすれば、それは10人全員がそろって誤っていた場合に限られる。各陪審員が40%の確率で誤るとしても、10人全員が誤る確率は極めて低い(約0.01%)。
では、10人の陪審のうち、過半数の6人が被告人を有罪と判断し、4人が無罪に投票した場合、多数派の判断が正しい確率はどの程度だろうか。陪審員が10人の場合、その確率は70%を超える。陪審の規模が大きくなるにつれて、この確率もさらに高くなる。例えば、100人の陪審員のうち60人が有罪に投票した場合、その判断が正しいことについて99%以上の確信を持つことができる。これは、どれほど嘘を見抜くことに長けた専門家であっても到底達成できない精度である。つまり、ある問題についてはそこそこの判断力しかない人々でも、多数集まれば、同じ問題に極めて長けた一人の専門家よりも、はるかに良い成果を出せるのである。【2】
ただし、この「陪審定理(jury theorem)」は、かなり大胆な仮定に基づいている。 最も重要なのは、各陪審員が真実を見抜く確率が、他の陪審員の判断とは無関係でなければならないという点である。 言い換えれば、各陪審員はコイントスのように独立して判断しなければならない。もし陪審員同士が互いに影響を及ぼし合うなら、一人の間違いが他の人の判断ミスを誘発する可能性があるため、この議論は成り立たなくなってしまう。(伝言ゲームは、この現象をあえて誇張して楽しむ遊びである。もし一人一人が直接、元のメッセージを聞いて復唱するだけなら、多少の誤りは生じても、多数派が聞き取った内容はほぼ確実に正しいものになる。しかし、そのメッセージを人から人へ順に伝えていかなければならない場合、多数派が聞き取る内容は、最初にメッセージを受け取る人が聞いた内容よりも不正確になっている可能性が極めて高い。)
「群衆の知恵」は、人々が判断を下す際の系統的なバイアスによっても損なわれる。 例えば、容姿の整った人は、そうでない人よりも陪審で無罪とされやすいことが示されている(これはかなり顕著なバイアスであり、人種によるバイアスよりも強力である【3】)。おそらく、陪審員が30%どころか40%もの確率で間違えてしまうのは、容姿の良い人の嘘を過度に信じてしまうからなのかもしれない。だとすると、容姿の良い人が証言台に立てば、陪審員全員がそろって惑わされる可能性が高くなる。したがって、一人が間違える確率は他の人が間違える確率と無関係ではないため、「コイントス」のアナロジーは成り立たない。「陪審定理」が成立するためには、誤りは真にランダムでなければならない。
このような制約はあるものの、「陪審定理」的な現象は日常生活でも多く観察される。例えばジェームズ・スロウィッキーは、テレビ番組「クイズ$ミリオネア(Who Wants to Be A Millionaire?)」の中に、彼の著書『「みんなの意見」は案外正しい』(原題:The Wisdom of Crowds)【1】に適した好例を発見した。この番組では、出場者は四択式の雑学クイズに答える。答えに詰まった場合には3つの「ライフライン(助け舟)」が使える。 一つは不正解の選択肢を二つ取り除く方法、もう一つは友人に電話して助言を求める方法、そして最後がスタジオの観客に投票してもらう方法である。検証の結果、友人の正答率は65%だったのに対し、観客による投票の正答率は脅威的な91%に達していた(より正確には、観客の中で最も票を集めた選択肢ーー「相対多数の勝者(plurality winner)」と呼ばれるーーの正答率が91%だった)。【4】
この結果は、「陪審定理」で簡単に説明できる。というのも、出題されたのは謎かけ問題(trick questions)ではなく、雑学問題(trivia questions)だったからである。つまり、正解はたいていの場合、多くの人がさまざまな情報源を通じてどこかで見聞きしているような、広く知られた情報だったのである。そのため、一人一人が正解する確率は、他の人の判断にそれほど左右されない。(その情報を知らなかったり、正しく思い出せなかったりして)一定数の人が間違えることはあっても、その人たちの回答は残る三つの選択肢に比較的ランダムに分散すると考えられる。したがって、「相対多数の勝者」が正解となることが多いのは、別に不思議なことではない。
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しかし、民主主義の支持者は、フランスの貴族からの贈り物には用心した方がよい。コンドルセが与えるものは、同時にコンドルセ自身が奪い去るものでもある。コンドルセの「陪審定理」は公共選択理論家の間では比較的よく知られているが、一般的にはむしろ「コンドルセの投票パラドックス」の方がはるかに有名である。そしてその名が示すように、この結論は民意による意思決定を熱心に支持する人々にとって、あまり歓迎できるものではない。
個人の意思決定における基本原則の一つは、個人の選好が「推移性(transitivity)」を満たしていなければならないということである。つまり、バナナよりオレンジを好み、オレンジよりリンゴを好むのであれば、当然バナナよりリンゴを好むはずだということである。もし選好の順序がこの推移性の条件を満たしていなければ、誰かがこの三つの果物の中から次々と異なる果物を与える度に、あなたは欲しい果物を何度も変えることになってしまうだろう。オレンジと引き換えにバナナを手放し、リンゴと引き換えにオレンジを手放したかと思えば、今度はバナナと引き換えにリンゴを手放す、という具合である。このように選好が循環し始めると、そもそも自分が何を望んでいるのかわかっていないか、あるいは果物に関する選好そのものに整合性がないと言われても仕方がない。
幸いなことに、人々の選好はたいてい「推移的」である(そして、自分の選好に推移性がないと指摘されれば、整合性を回復するためにすぐさま選好を組み替える)。【5】しかしコンドルセが示したのは、大勢の人々を集めた場合、一人一人の選好が完全に推移的であったとしても、その集団の社会的選好まで推移的になるとは限らないということである。特に、多数決のような民主的意思決定手続きは、いわゆる「循環する多数派」(cyclical majorities)を生み出すことがある。集団に新たな選択肢が提示されるたびに、たとえその選択肢が過去に退けられたものであっても、多数派はそれを支持してしまうのである。さらに、このような非推移性が生じても、それを解消するために自らの選好を変えようとするインセンティブを持つ人はいない。このような状況では、そもそも「人民の意志」と呼べるものは存在しない。
これがどのように起こりうるのかを理解するために、三人の有権者が三つの政党の候補から選ぶ、ごくシンプルな選挙で考えてみよう。有権者たちは、自由党、保守党、または新民主党(NDP)の代表のうち、いずれか一人を選ぶ。一人目のビルは、典型的なカナダの中道派で、自由党を保守党より好み、保守党を新民主党より好む。二人目のテッドは、カナダ西部型(反エスタブリッシュメント)のポピュリストで、保守党を最も好み、次に新民主党、最後が自由党という順である。最後に、三人目のフランクはイデオロギー色の強い左派で、新民主党を自由党より好み、自由党を保守党より好む。さて、この三人で投票を行うとしよう。三つの選択肢を一度に投票しても各党が一票ずつ獲得するだけで決着がつかないため、、二択の比較を順番に行い、その都度一人ずつ候補者を落としていくことにした。まず自由党と保守党を比較すると、ビルとフランクは自由党に投票するので、保守党は落選する。次に自由党と新民主党を比較すると、テッドとフランクは新民主党に投票するので、今度は自由党が落選する。
これで決着したように見える。だが念のため、新民主党が本当に最善の選択肢なのかを確かめようと、最後に新民主党と保守党の間で投票を行うことにした。すると驚いたことに、新民主党が敗れてしまう。ビルとテッドの二人が保守党に投票するからである。だが、保守党が復活するなら、自由党はどうなるのだろうか?多数派は保守党より自由党を好む。しかし多数派はまた、自由党より新民主党を好む。そして新民主党より保守党を好む。いったいどういうことだろうか?有権者たちはループに陥っているのである。各個人の選好は整合的(推移的)であるにもかかわらず、社会的選好の順序は非推移的になっている。どの政党を選んだとしても、その政党を支持する多数派は常に存在する。しかし、それぞれの政党を支持するのはいずれも異なる人々から成る多数派である。したがって、二択比較のプロセスは理論上いつまでも続けることができる。この場合、「多数派の意志」と呼べるものは存在しない。 存在するのは、三つの政党それぞれを支持する別々の多数派だけなのである。


もっと複雑な投票方式(例えば、すべての選択肢を選好順にランク付けするボルダ得点)を導入すれば、こうした問題を解決できると考えられることがある。しかし、そううまくはいかない。【6】さらに、少し考えれば、そのようなシステムが機能するはずがないこともわかる。コンドルセの投票パラドックスが生じる状況では、多数決は必ず意思決定に失敗する。なぜなら、そもそも多数派の選好そのものが存在しないからである。存在するのは、各選択肢を支持する別々の多数派だけである。もちろん、個々人の選好が常にこのような非推移的な社会的選好順序を生み出すわけではない。しかし、選択肢の数が増えるにつれて、非推移的な順序が生じる確率も高くなることには注意が必要である。したがって、多数決は選択肢が二つしかないような単純な問題には有効であるとしても、選択肢が増えるにつれて次第に役に立たなくなる。
この発見の重要性は、いくら強調してもしすぎることはない。例えば、政策課題が少しでも複雑なものになると、レファレンダム(国民投票や住民投票)は解決手段として根本的な欠陥を抱えることになる。社会的選好の順序が非推移的である場合、議題設定を支配する者は、どの選択肢が最終的に勝つかを事実上決定できてしまう。そのために必要なのは、二択比較をどの順番で行うかを決めることだけである。したがって、レファレンダムでは結果が都合よく操作される余地が大きい。
例えば、ケベック州の分離独立をめぐってこれまでに実施された二度のレファレンダム(住民投票)を考えてみよう。カナダ人がこれを「ネバレンダム(終わりなき住民投票)」と呼ぶのには理由がある。過去30年間の世論調査は一貫して、いずれの憲法上の選択肢も絶対多数の支持を獲得できていないことを示している。基本的な選択肢は三つある。すなわち、現状維持、分離独立、そしてある種の「連邦制の再編成」である。 例えば、最初のレファレンダムが行われた1980年の世論調査では、現状維持への支持が28%、完全な分離独立への支持が25%、そして曖昧な憲法上の妥協案(連邦制の再編成)への支持が40%台に達していた。【7】
1980年のレファレンダムでは、ケベック州の有権者に対して、選択肢は「連邦制の再編成」か「分離独立」かの二択であると受け止めさせることで、「反対」派が実質的な勝利を収めた。しかしその後、1992年の憲法改正案(シャーロットタウン協定)は、レファレンダムで否決され、現状維持が支持された。これを受けて1995年に再び分離独立を問うレファレンダムが実施されたが、これも失敗に終わった。今回は前回よりも接戦となったが、それは分離独立への支持が高まったからではない。シャーロットタウン協定の否決によって、「現状維持」対「分離独立」という二択であるかのように見えたからである。
ここに多数派の循環が生じうることは容易に見て取れる。しばしば指摘されるように、ケベックの「主権主義(sovereigntist)」運動には大きく二つの支持層が存在する。完全な分離独立を求める「強硬派(pur et dur)」と、「統一されたカナダの中で独立したケベック」を望む、いわゆる「穏健派ナショナリスト(soft nationalists)」だ。両者の決定的な違いは、強硬派が連邦制の再編成よりも現状維持を選好する点にある。妥協は分離独立の魅力を弱めることを彼らは理解しているからだ。一方、穏健派ナショナリストは憲法改正を望んでいるが、その要求が受け入れられなければ、分離独立も辞さない。 そして最後に、ケベックの英語系住民(アングロフォン)は、そもそもこの問題そのものが消えてなくなってほしいと思っている。


これは単なる仮定の話ではない。図11.2で示された投票の順序は、最初の二回のレファレンダムで実際に起きたことであり、三回目でもほぼ同じ展開をたどったのである。(さらに言えば、仮に分離独立派が勝っていたとしても、カナダ政府が連邦制の再編成を提案し、再び振り出しに戻っていた可能性は十分にある。)ケベック州民がコンドルセの投票パラドックスに陥っていると考えても、まったく不思議ではない。もしそうだとすれば、レファレンダムは民主的正統性を完全に欠いていることになる。それは憲法上の問題を解決する方法として、有用でも適切でもない。
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コンドルセの投票パラドックスは、民主主義社会において最もよく守られている秘密の一つである。その主たる理由は、このパラドックスが民主主義の美徳についてしばしば語られる主張の多くを打ち崩してしまうからである。とりわけ、「ポピュリスト」的な民主主義観にとっては大きな打撃となる。例えば、このパラドックスは、レファレンダムが民主的意思決定の手段として本質的な欠陥を抱えていることを示している。また、より直接的な民主主義や「草の根」民主主義を求める多くの主張にも、同様の弱点があることを明らかにしている。
例えば、リコール制度を求める運動について考えてみよう。この制度の支持者は、選挙区の有権者が、自らの選出した代表者に何らかの形で裏切られたと感じた場合、次の総選挙を待たずにその代表をリコール(解職)できるようにすべきだと考えている。しかし、カナダのように「最多得票制(plurality rule)」で代表者を選出する国では、これはとんでもない発想である。最多得票制では、候補者は過半数の票を獲得しなくても当選できる。最も多くの票を得た候補が勝つからである。しかもカナダには比較的安定した三党制を存在するため、選挙区において当選者に投票しなかった有権者が過半数を占めることが一般的である。したがって、理屈の上では、その過半数は喜んでリコールに賛成票を投じることになる。
リコールは、現職と、まだ誰になるかも分からない対抗馬との二択比較を強いるため、代表者の交代が延々と繰り返される可能性がある。しかも、代表者は常にリコールの脅威にさらされ、身を守ろうとするため、終わりのない選挙運動に追われることになる。こうした問題がリコール制度に内在することは誰の目にも明らかである。そうなると、この制度の支持者の多くは、本当は民主主義の促進に関心があるのではなく、むしろリコール制度を利用して、政府がまともに統治できないようにし、その結果として国家の規模を縮小しようとしているのではないかと疑いたくなる。
人々は時に、代表者が過半数の支持を得ずに当選できるという事実に不満を抱く。(さらに言えば、最多得票制のもとでは、ある政党が得票総数では過半数を得ていなくても、議会では過半数の議席を獲得することがありうる。)しかし、選択肢を二つに制限しない限り、この問題にどう対処できるのかは明らかではない。比例代表制のような、より洗練された投票制度を導入することも、結局は円を四角にしようとするようなものである。投票制度を変えたところで、この根本的な問題を解決することはできない。その問題とは、ある程度複雑な争点になると、多数決は意思決定の手続きとして結論を定められない場合が少なくないということである。なぜなら、首尾一貫した多数派の選好そのものが存在しないからである。したがって、民主的制度が通常目指しているのは、より多くの民意を取り込むことではなく、むしろ民意の反映を何らかの妥当で非恣意的な形で打ち切ることであり、それによって必要な意思決定を可能にすることなのである。
これらを始めとする多数決の諸問題によって、左派の民主主義理論家の間では、民主的統制のメカニズムとしての投票に対する幻滅が広がっている。ポピュリズム(ざっくり言えば「より多くの事柄について、より頻繁に投票すべきだ」という考え方)は、今やほぼ右派の専売特許となっている。これに対して左派は、いわゆる「熟議」民主主義へと傾いてきた。この考え方によれば、民主主義において本当に重要なのは、人々が時折投票によって自らの意見を表明することではなく、むしろ公共での議論や討論を通じた、投票に先立つプロセスであり、それによって、より多くの情報に基づいた選好が形成されるという点にある。彼らによれば、コンドルセの投票パラドックスが問題となるのは、人々の選好を所与のものとして扱う場合に限られる。むしろ、民主的な公共空間への参加を通じて人々の態度が変化しうると考えれば、この問題はそれほど深刻ではなくなるというのだ。【8】
もちろん、この考え方にも一理あるが、ほとんどの「熟議民主主義者(deliberative democrats)」が思い描いているほどではない。民主主義政府は、選挙で落選する恐れがほとんどない場合であっても、世論に反応するものである。議論や討論のプロセスも、政治システムに対して驚くほど大きな影響力を持っている。しかし、意思決定の仕組みとして見れば、熟議は投票の代わりにはならないし、せいぜい投票への前奏曲にすぎない。【9】喉が枯れるまで議論したところで、意見の分かれる政治問題について全会一致に達する可能性はほぼゼロである。したがって、結局は投票で決着をつけなければならない。そして、熟議を終えて投票を始めた瞬間に、これまで見てきたコンドルセの問題がすべて再び姿を現すのである。
したがって、熟議は個々人の選好の質を高めることはできても、一貫性を欠いた社会的選好という問題を解決することはできない。
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20世紀を通じて進歩主義的左派が抱いてきた最も途方もない希望的観測の一つは、資本主義が何らかの形の「経済民主主義(economic democracy)」に取って代わられるのではないかという考えだった。ここで言っているのは、労働者が自主的に管理する企業のことではない。これまで見てきたように、市場経済の中にそうした企業が存在できない理由はない。そうではなく、民主的な意思決定が、生産と消費を調整する手段として、現実に価格システムに取って代わるのではないかと考えられていたのである。この考え方によれば、経済上の意思決定は「連合した生産者たちの共同体(the community of associated producers)」によって行われることになる。
当然のことながら、労働者が集団としてまとまり、「これをどれだけ生産するか、あれをどれだけ生産するか」を決めるという構想は、そもそも議論の対象ではなかった。ソ連の経験が示したように、天才的な数学者が束になってもその問題を解決できなかったのだから、そこら辺の凡人が集まったところで、それ以上うまくいくはずがない。その代わりに通常想定されていたのは、何らかの分権的な仕組みである。個々の生産グループ(典型的には労働者協同組合)がそれぞれ何を生産するかを決定し、その結果を何らかの民主的メカニズムによって集約し、首尾一貫した経済計画へとまとめ上げるというものだ。
民主主義についてのある種の考え方は、このような構想に対する楽観論を後押ししている。例えばスロウィッキーは『「みんなの意見」は案外正しい』の中で、人々が瓶の中のジェリービーンズの数を驚くほど正確に当てる能力の話から、ギャンブラーがスーパーボウルの結果を予測する能力の話へ、さらに株式市場が勝者と敗者を予測する能力の話へと議論を展開している。そこでは、「群衆の知恵」と市場の知恵は区別されていない。そのため、群衆による意思決定は市場による意思決定の代わりになりうるのではないか、あるいは資本主義の代わりに民主主義を据えることもできるのではないか、という印象を与える。しかし、これは極めて誤解を招く議論である。
問題は、経済的意思決定にはフィードバックの循環が必要であり、それを民主主義に求めるのは難しいということである。非常に具体的な例を挙げてみよう。すべての工場の労働者がそれぞれ小規模な会議を開き、来年度にどれだけ生産するかを決めることで、経済全体の生産を調整するとしよう。こうして作られた「提案」はすべて中央の計画機関に送られ、そこで整合性が検討される。もちろん、ある「産出量」を提案する以上、その提案は一定量の「投入量」を前提としている。例えば、ある工場の労働者がX個のバッテリーを生産するには、一定量の様々な金属や重機の使用などが必要になる。ところが、それらの「投入物」は、金属を採掘する鉱山労働者など、他の労働者グループの「産出物」なのである。そして、その鉱山労働者が使っている機械は、ほかならぬそのバッテリーで動いているのだ!
バッテリー工場が計画を提出する際には、鉱山がどれだけの金属を生産するかについて一定の前提を置くことになる。一方、鉱山労働者は、自分たちがどれだけ生産できるかを計算するために、どれだけのバッテリーを利用できるかについて一定の前提を置くことになる。大混乱を避けるためには、これらの前提が相互に整合していることが不可欠である。しかし、市場なしでそれを実現するのは容易ではない。(例えば旧ソ連では、肥料を生産する側と、それを詰める袋を生産する側との調整がうまくいかなかったため、鉄道沿いに巨大な肥料の山が積み上がることがあった。【10】これは計画を担う巨大な官僚機構が存在していたにもかかわらず起きたことである。)
まともな人なら、ここで必要とされるような提案同士のきめ細やかな調整を、民主的な手段だけで実現できるなどとは考えない。コンドルセの投票パラドックスを脇に置いたとしても、その複雑さを考えれば実現不可能だ。ただし、生産計画を調整する方法として、市場に代わる選択肢が一つある。それは、(19世紀の経済学者レオン・ワルラスにちなんで)「ワルラスのオークション」と呼ばれる仕組みを用いて、希少性を反映した価格を設定することだ。近年の「参加型経済学」や「民主的経済学」の構想(例えば『Zマガジン』界隈で支持されている「パレコン」構想など)も、その表向きをひと皮剥げば、核心部分では結局のところワルラスのオークションが実質的にすべての調整機能を担っていることが分かる。
アダム・スミスは、市場の最も重要な点は、それが提供するインセンティブにあると考えた。見えざる手のおかげで、人々は最低限の公共心しか持ち合わせていなくても、社会はうまく機能するというわけだ。しかし20世紀になると、フリードリヒ・ハイエクは、市場の重要性は、インセンティブではなく、市場がもたらす情報にあると主張した。特に、市場競争が希少性を反映した価格体系を生み出す仕組みこそが、市場の本領だというのである。
もしこれが本当で、実際に重要なのは情報だけだとすれば、生産を組織するために本格的な市場を持つ必要はないのかもしれない。とりわけ、適切な価格体系を決定するためには、市場をシミュレーションするだけで十分かもしれない。価格が決まれば、あとは資本主義の場合と同じように、経営者に生産の指示を与えればよい。これが「パレコン」の根底にある中心的な発想である。つまり、資本主義や中央計画の代わるものとして、コンピューター上で巨大な市場シミュレーションを実行しようというのだ。
ワルラスのオークションは非常にシンプルだ。これは、買い手や売り手が現実に価格競争を行わなくても、市場均衡価格を導き出す仕組みである。まず、一人の人物(競売人)が経済内のすべての財とサービスについて価格を設定する。この価格はまったくの当てずっぽうでもよいし、希少性についての何らかの推測に基づいて設定してもよい。次に、生産者はその価格を前提として計画案を提出する。つまり、その価格なら投入財をどれだけ購入し、それだけの産出物を生産できるかを申告する。消費者も同様に計画案を提出する。すなわち、その価格ならどれだけ働き、どれだけ消費したいかを申告する。
競売人はこれらの入札を受け取ると、提案された消費量と生産量を集計する。目標は両者を一致させることだ。つまり、提案されるバッテリー(またはレタスやちりとり)の生産量が、人々が望む消費量とちょうど一致する状態である。このように需給が一致した市場は、その価格水準によって「均衡(cleared)」した状態にあると言われる。しかし、最初から市場が均衡することは、ほとんど偶然にしか起こらない。必然的に、(人々が消費したい量と比べて、)ある財は作りすぎになり、別の財は作り足りなくなるのである。
競売人はこれに応じて価格を調整する。提案された消費量が提案された生産量を上回る市場では価格をわずかに引き上げ、逆に消費量が生産量を下回る市場では価格を引き下げる。そして競売人は、修正後の価格を生産者と消費者に送り返し、再び提案を提出するよう求める。次に、その新たな提案についても消費量と生産量を集計し、同じ作業を繰り返す。やがて、このような小幅な価格調整の積み重ね(またはタトヌマンとも言う)を通じて、すべての市場を同時に均衡させる価格体系に到達することができる。
この基本的な仕組み自体は複雑ではない。実際、ワルラスのオークションを実行する簡単なスプレッドシート・マクロさえ存在する。しかし問題は、その反復回数の多さである。パレコン構想の提唱者であるマイケル・アルバートは、計画サイクルを20回以上繰り返す可能性を平然と受け入れいてる(そのたびに、すべての生産者は完全に新しい生産計画を作り直し、消費者も新たな消費計画を作り直さなければならない)。しかも、この数字でさえ楽観的である。さらに、この仕組み全体を現実的に運用できるものにするため、彼は計画作業を年に一度行うことを想定している。その結果、各家庭は一年分の消費計画を事前に立てなければならない。来年の夏に友人たちを招いてバーベキューを開くつもりか?それなら、どれだけのコールスローを作る必要があるかを今のうちに見積もっておいた方がいい。というのも、キャベツ農家は今まさに注文を受け付けているのだから…
アルバートはさらに、計画のプロセスをいっそう煩雑にする余計な仕組みをいくつも付け加えている。(例えば「消費主義」に対抗するために、民主的な熟議と修正のプロセスを追加し、各家庭の消費計画を近隣単位で集約するとしている。実際には、近所の人々があなたの消費計画を覗き込み、気に入らない項目を投票で否決することを意味する。アルバート自身も、これがプライバシー上の懸念を招くことは認めているが、各家庭の消費計画を匿名で審査すれば解決できると考えている。しかし、それだけではまったく不十分である。というのも、人とは少し変わった消費要求を正当化できるのは、それを提案した本人しかいないからである。したがって、この提案全体がもたらす効果は、私たちが資本主義によって与えられている自由や自律性を、どれほど当たり前のものと考えているか改めて思い出させることにある。自分のお金を使って自由に物を買うのではなく、あらゆる消費要求を委員会に提出し、そのたびに理由の説明を求められる経済を想像してみてほしい。厳しい追求を受けても正当化できるものはどれほどあるだろうか?そして何より、そのような説明を本当にしたいと思うだろうか?)
仮にそうした息苦しい共同体主義を採らずに、もっと簡略化した「パレコン」の案を考えたとしても、計画システム特有の硬直性によって、たちまち社会の隅々にまで闇市場が生まれるであろうことは容易に想像できる。ある人はケーキミックスを32箱注文したが、トイレットペーパーは78ロールしか注文しなかった。別の人はトイレットペーパーを90ロール注文したが、ケーキミックスは8箱しか注文しなかった。するとどうだろう、11月になると、二人はトイレットペーパーをケーキミックスと交換することにする。程なくそのやりとりは、タバコが通貨として流通する「刑務所経済」のような様相を呈し始める。(もちろんタバコは闇市場でしか手に入らない。隣人たちがあなたの喫煙を認めてくれないからだ。)やがて計画担当者たちは、相対的な希少性についての情報を得るために、闇市場の価格を参照し始めるだろう。そして間もなく、年の途中で計画を修正する際にも、闇市場が発するシグナルに基づいて調整を行うようになるのである。
ここまで来ると、「パレコン」の良き実践者はどうすればよいのだろうか。忍び寄る資本主義に屈するのか、それとも「合意した大人同士による資本主義的取引」を取り締まるのか?【11】どちらも魅力的な選択肢とは言い難い。「民主的な」経済計画を維持するために権威主義に傾くのも、極めて疑わしい道である。しかも、それで成功する見込みはどれだけあるのだろうか?「麻薬戦争」のことを思い出してほしい。そのような場当たり的な対策を真剣に検討しなければならない時点で、すでに問題なのである。おそらく、これまで誰一人として、非資本主義経済の下で民主的な政治制度を維持することに成功していないのには、それなりの理由があるのだろう。
1 この言葉は、James Surowiecki, The Wisdom of Crowds(New York: Random House, 2005)(ジェームズ・スロウィッキー『「みんなの意見」は案外正しい』小高尚子訳、角川文庫、2009年)によって有名になった。
2 このアイデアの興味深い一般化については、Lu Hong and Scott E. Page, “Groups of Diverse Problem Solvers can Outperform Groups of High-Ability Problem Solvers,” PNAS, Nov. 16, 2004, 101(46): 16385-16389.を参照。
3 Ronald Mazzella, Alan Feingold, “The Effects of Physical Attractiveness, Race, Socioeconomic Status, and Gender of Defendants and Victims on Judgments of Mock Jurors: A Meta-Analysis,” Journal of Applied Social Psychology 24 (1994): 1315–1338. 容貌と社会経済的地位の二つは、一貫した偏見であることが明らかになった。人種や社会的性差は偏見の原因ではない。
4 Wisdom of Crowds, p. 4.
5 同上。
6 William Riker, Liberalism against Populism (San Francisco: W.H. Freeman, 1982), pp. 69-94.(ウィリアム・ライカー『民主的決定の政治学ーーリベラリズムとポピュリズム』森脇俊雅訳、芦書房、1991年。)
7 Allan Kornberg; Keith Archer, “A Note on Quebec Attitudes toward Constitutional Options,” Law and Contemporary Problems, 45, (1982): 71-85 at 76,
8 おそらく、これらすべてから「議題」を作成するための最も真剣な取り組みは、Bruce Ackerman and James Fishkin, Deliberation Day (New Haven: Yale University Press, 2004).(ブルース・アッカマン、ジェイムズ・S・フィシュキン『熟議の日ーー普通の市民が主権者になるために』川岸令和・谷澤正嗣・青山豊訳、角川文庫、2015年)だ。
9 ジム・ジョンソンとジャック・ナイトのPolitical Theoryでの記事。
10 Alec Nove, The Economics of a Feasible Socialism, 2nd edn (London: Harper Collins, 1991) p. 96.
11 Robert Nozick, Anarchy, State and Utopia (New York: Basic Books, 1974).(ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピアーー国家の正当性とその限界』嶋津格訳、木鐸社、1995年。)
〔本エントリは、ジョセフ・ヒース『資本主義が嫌いな人のための経済学〔新版〕』(栗原百代訳、早川書房、2026年)の未収録原稿を原著者の許可に基づいて翻訳・公開している。〕
[Joseph Heath, 11. More Democracy, Filthy Lucre MS.]