どのマクロ経済学者でも,「いまそちらの業界のスターといったら誰です?」って聞かれたら,きっとそのリストのトップかそのあたりにエミ・ナカムラの名前を挙げるはずだ.2019年に,エミ・ナカムラはジョン・ベイツ・クラーク・メダルを受賞した.経済学でとびきり名誉ある2つの賞の片方が,このメダルだ――そして,これがマクロ経済学者に贈られることはめったにない.エミ・ナカムラはもともとカナダ出身で,いまはカリフォルニア大学バークレー校で勤務しながら,並外れたペースでトップ学術誌に論文を載せ続けている.
ぼくが初めてナカムラに会ったのは,2011年のことだ.当時,ぼくはまだ大学院生だった.ナカムラはミシガンにやってきて,論文「マネタリーユニオンにおける財政刺激:合衆国各地域からの証拠」について講演をした.あの論文は,財政刺激が経済成長を後押しする最良の証拠の一角をなしていて,2008年以後の不況から経済を押し上げるために財政刺激を使うべきかどうかをめぐって戦われた学術論争に大きな影響を及ぼした.
その後も,ナカムラは政策論争にきわめて意義の大きい研究を生産し続けている.ほんの一例だけあげれば,Hazell と Steinsson とナカムラの共著論文「フィリップス曲線の傾き: 合衆国の諸州から得られる証拠」は,いまのインフレについてぼく自身が考える際に主な手引きになってくれてる論文だ.それに,ぼくは,ナカムラのワーキングペーパー「景気循環のプラッキング・モデル」の大ファンでもある.この論文は,いまのアメリカの景気回復を理解する助けになってくれる力を秘めてると思う.ナカムラが2016年に中国について書いた論文(Steinsson と Liu との共著)は,世間に人たちが中国に向けてる疑いに強力な実証的支えを与えてくれる.その疑いとは,自国の経済成長を実態以上によく見せかけるよう統計をごまかしているんじゃないか,という疑いだ.さらに,ナカムラが最近出した論文のなかには,こんなことを示してるものもある――人々が移住を余儀なくされたとき(この論文の場合には火山の噴火),その人たちの経済状況は改善する.これは,アメリカ国内での地理的な人々の移住が減ってきてることに関して明らかな含意をもたらす.こんな具合に,ナカムラは政策に大きな意義のある研究を次々に出してる.
一方,マクロ経済学そのものの改善にナカムラがずっと取り組んできたこともよく知られている.マクロの分野は,2008年以後に深刻な危機におちいっていた.金融危機と景気後退によって,〔マクロ経済学の〕なにかがおかしいことがわかって,理論がいかに実証的な現実からかけ離れてしまっているかを多くの人たちが指摘した(ぼくもその一人だ).でも,そのことに不平をこぼすのではなく,ナカムラはとにかくそこを修繕することから着手した.彼女が取り組んだのは,次のようなことだ――高頻度のデータで金融政策のショックをつきとめる方法,さまざまな地域それぞれで異なっている影響に着目することで各種政策の効果を腑分けする方法,そして,マクロをもっと科学的にしてくれる研究手法のさまざまな革新.2018年に,新しい実証的なマクロに関する概観論文をナカムラは Steinsson と共著で出した.これはきっと,経済学業界の方向にすごく大きな影響をもたらすことになるだろう.
このあとのインタビューでは,ナカムラとこんなことを語った――インフレとその対処法,マクロ経済学で理論と証拠が相互に作用するあり方,そして,マクロの未来.
ノア・スミス: まずは,インフレの話題からはじめた方がいいんじゃないかって思うんですが,いま,みんなの頭のなかで,インフレはマクロ経済の重大論点になってる感じですよね.いま合衆国が経験してるインフレって(さらに,度合いは下がるけれど他の先進国のインフレって),主にどんな原因で起きてると思います? 勝手に収まってくれると期待していい種類のインフレなのか,それとも,鎮めるためになんらかの政策手段をとるべきなんでしょうか?
エミ・ナカムラ: このところのインフレは,歴史上の経験から予測される水準を大きくこえています(歴史からは,だいたい,失業率が 1% 下がるごとにインフレが 1/3% 下がると予想されます).ここで重要な要因はいくつかあるでしょうね.
第一に,長らくインフレで大きな役割を演じていなかった供給側ショックが,再来しましたね.そうしたショックのなかでもとりわけ劇的なのは,労働市場の混乱ぶりです.合衆国の労働参加率は,だいたい 1.5% 下がりました.そして,ここまでのところ,こうして下がった分はずっと戻っていません.しかも,労働供給ショックは,それをはるかにこえています:つまり,多くの労働者たちは病気で仕事から離れていたり,隔離生活に入ったりしています(あるいは,そのリスクのなかにあります).労働参加率の低下は,ユーロ圏よりもずっと大幅です.これは,ユーロ圏諸国の方がパンデミックのあいだに労働者たちを職場に引き留めておく政策をたくさん実施しているのが一因になっているのかもしれません [https://venance-riblier.shinyapps.io/Employment/].パンデミックが長引いたことで労働参加率に影響がおよぶと予測した人はほとんどいませんでした.それに,これが来年・再来年にどう展開していくかは判断の難しいところです.仕事から離れていた労働者のなかには,復職する人たちもいるかもしれませんが,他方で,とくに退職した人たちはもう仕事に戻らないかもしれません.コロナウイルスのためにとられている安全面の制限によって,以前よりもデイケアや工場の操業は費用が高くつくようになっています.昔は学部生向けの経済学講義でマイナスの供給側ショックの好例をあげるのに苦労したものですが,コロナウイルスはまちがいなくその好例ですね.
第二に,歴史上めずらしいほどに需要がサービスから財(モノ)に移っています [https://fred.stlouisfed.org/graph/?g=LnYU].〔2008年金融危機後の〕「大不況」では,財への支出の割合が減りました.コロナウイルスでは,その反対が起きています:つまり,財への支出の割合が劇的に増えました.これもまた,サプライチェーンにとてつもない圧力をかけている経済の大変動のひとつです.在宅で勤務する人たちは大幅に増えました.そうした人たちはみんなコンピュータを必要としていて,それはつまり,コンピュータに組み込まれる半導体が必要とされるということです.こうした財は,海外から合衆国に輸送されて,各家庭に届けられねばなりません.これは供給への「圧力」ではありますが,実は「供給側ショック」ではありません.なぜなら,その究極因は需要増加にあるからです(少なくとも,特定の種類の財に関しては).しかし,最近出たジャクソン・ホール論文では,一般消費者の需要の変化によって,供給側ショックと同じインフレ圧力がもたらされうることが指摘されています.ここでも,みんなの消費パターンが平時にもどるまでどれくらいの時間がかかるのか,不確実性がたっぷりあります.おそらく,こうした消費の変化のなかには,前述の労働供給の変化に関連しているものもあるでしょう:通勤する場合には,仕事を補う各種のサービスを買いますよね――職場に向かう途中でコーヒーを飲んだり,お昼にサラダを食べたり.ところが,多くを在宅勤務に切り替えると(さらには,そもそも働かない人たちが増えると),需要パターンに起きた変化の一部がずっと長く残りかねません.
第三に,景気回復がすごく急速に進んできていて,政府もたくさん支援支出をやりました.家計の貯蓄は大きく増えました[https://fred.stlouisfed.org/graph/?g=Lo1j].これほどの支出が需要を増やしているのはまちがいありません.概念のうえでは,こうした需要圧力をとらえるには失業率を見ればいいと思う人がいるかもしれません.失業率はいまだにコロナウイルス前の水準よりも高いところにあります.でも,失業率では現在の労働市場の売り手市場ぶりをうまくとらえきれないという証拠はたくさんあります: コロナウイルス前より失業率は上がって就業率は下がっているにもかかわらず,求人件数や離職数はコロナウイルス前に比べてかなり増えています〔※のぞましい待遇の仕事が見つかると考えると離職しやすい〕.
こうしたいろんな要因が果たしている役割を評価するうえで興味を引いたグラフがひとつありまして.こちらなんですけど [https://fred.stlouisfed.org/graph/?g=Lo1x]:
このグラフを見てもらうと,消費者物価指数 (CPI) の品目のうち,住居とそれ以外の項目それぞれのインフレ率と失業率が見てとれます.こうした数値を 1990年までさかのぼってプロットしてあります.なぜそこまで入れてあるかというと,アメリカで長期インフレ予想が安定しはじめたのがだいたい1990年ごろだからです.消費者物価指数の住居品目はほどほどに安定しているのに対して,住居以外の品目はずっと上下変動が大きいのがわかりますね(たとえば,2008年には.一次産品を主因に大きな変動がありました).コロナウイルス期に入ってからも,消費者物価指数の住居品目と失業率との関係はほどほどの安定しているのに対して,住居以外の品目はかなり劇的に上昇しています.ここで認識しておくべき大事な点は,アメリカにおける消費者物価指数の住居品目は賃貸コストにもとづいているという点です:そのため,サプライチェーンにも労働市場の不足にも影響されていません〔新規の建設であれば資材や建設作業員のコスト変化に影響される〕.というわけで,このグラフを解釈するなら,伝統的な総需要要因に比べて,私が強調した3つの要因のうち2つ〔供給側ショックと財への需要偏重〕が大きな役割を果たしていることがうかがえます.ただ,賃貸価格もこれから大幅に上がって追いついてくると予測している人たちもいます.こうしたパターンのなかには,住宅に関連した需要変動に関わっているものもあるのかもしれません.コロナウイルスによって経済に根底からの変化が余儀なくされたのですから,過去に要因どうしに見られた関係を将来に引き延ばして当てはめるときには,謙虚にならなくてはいけません.
これまでのところ,インフレにそれほど寄与していない要因があります.それは,もっと長期のインフレ予想がずっと安定していることです.調査でも市場ベースの数値でも,より長期のインフレ予想はかなり安定して見えます(下記を参照).ここまでのところ,FRB は長期のインフレ予想の安定化にすごく成功しています.これは大きな達成ですね.もちろん,その目標は,こうした供給側ショックや相対価格へのショックから1970年代後半に見られた自己成就的な高インフレになるのを避けることにあります.ごく最近には長期インフレ予想に顕著な上振れがありましたが,いまのところは小さいものです.長期インフレ予想をこんな風に安定させておくのは,FRB の主要な目標のひとつです.
スミス: 労働供給ショックの話にちょっと混乱しているんですが…… 労働供給が減ったのがインフレの大きな要因になっているんだとしたら,実質賃金は上がるはずじゃないですか? ふつう,不足したモノの価格って上がりますよね.ところが,実質の時間当たり賃金は下がってきてます.これはどう説明できるんでしょう?
ナカムラ: すごくいい論点ですね! (実質ではなく〔名目値の〕)時間当たり賃金は,大きく上がっています(前年比 5.75%).ただ,インフレで調整すると十分に上がってはいないんです.そのため,実質賃金はあまり上がっていないわけです.過去20年は,時間当たり賃金の名目値と実質値の推移に大きな開きはありませんでした(このグラフを参照).ところが,去年からこれがすごく開いています.名目賃金の他の数値を見てみますと――たとえば同じ労働者たちの賃金の推移に注目する Wage Growth Tracker の数値を見てみますと――同様に大きく開いています.
ひとつ大事な点を言いますと,賃金分布のいちばん下の層では実質賃金が上がっています――こちらのプロットを見てください(リンク先のページで,上部にある “wage level” を選択すると,賃金分布を上から下まで 25%ごとに区切ったまとまりごとに,それぞれどうなっているか見られます).コロナウイルスショックが誰もに均等に影響したのではないことを,これは物語っています.コロナウイルスの景気回復でひとつ明るいことを挙げると,どうやら,格差がこれによって縮小したらしいのです.ただ,このプロットですら,実質値で見ると,最下層 25% の人たちの賃金はあまり上がっていません.マクロ経済ショックへの反応で賃金がとりわけ「硬直的」なのだとしたら――とくに食料品・エネルギーみたいなもっと変わりやすい価格に比べればなおさら「硬直的」なのだとしたら――このパターンは予想されるでしょう.賃金硬直性に関するもっと古い学術文献は,景気循環にさからう実質賃金の動きを予測してずいぶん批判されました.でも,もしかすると,コロナウイルスでの景気回復の一部で私たちが目にしているのは,まさにそれなのかもしれません.
スミス: あと,インフレ予想の話もしましょう.ぼく自身も考えるときに大いに頼りにしているのは,Hazell, Herrero, Steinsson とあなたの共著で最近出た論文です.あの論文では,70年代のインフレは石油ショックによる部分もありつつ,でも FRB のタカ派度合いに関する世間の考えにおきたレジーム転換による部分があると説明しています.そのおかげで,市場のインフレ予想と長期調査の予想の両方が安定して見えることにホッとしてます.では,FRB がいま十分なことをしていると考えていいんでしょうか? それとも,インフレを 2% 目標にまでもどすべく積極的に FRB は動くべきなんでしょうか?
ナカムラ: 長期インフレ予想がまだ抑え込まれていて,ホッとしてます(10年物インフレ連動債 (TIPS 10Y) と専門家予測調査 (SPF) の 5年/10年インフレ予測の上記グラフを参照).数値の推移の最後に顕著な上振れが現れていますが,いまのところ,まだ小さなものです.ただ,市場の予想は,FRB がどうすると市場が予想しているかに関する予想です.マクロ経済のいろんなものがそうであるように,ここには自己成就的予言の要素があります.インフレを封じ込めるのに必要なことをFRB がやると市場が予想しているかぎり,長期のインフレ予想には大した動きはないでしょう.この点を維持するために,FRB はすごくがんばってます.ただ,これを当たり前に思うわけにはいきません.他の地域,他の時代には――ここアメリカですら――長期インフレ予想はこんなにアンカーされていませんでした.FRB にとって大きな課題は,うまくいった場合には,そうやって回避できた危機は決して実現しないという点です――たとえば,長期インフレ予想にみんなが信用をなくす「悪しき均衡」を,目下の政策変更によってうまく回避できても,その〔回避できなかった場合の〕反実仮想をけっして目にすることはないわけです.たとえば,パンデミック初期に FRB が行った各種の流動性政策のおかげで,金融危機は回避されたのかもしれません〔そうした政策がなかったら金融危機に陥っていたのかもしれない〕.でも,その反実仮想はけっして見えないのです.
スミス: このところ,Jeremy Rudd の論文がすごく話題になっています.この論文では,「インフレ予想がインフレそのものにどう影響するか,自分たちはほんとに理解できてる」という考えが本当なのか,疑っています.マクロ経済学者たちは,予想の力をあまりに強く信じすぎているんでしょうか? なんといっても,McKay & Steinsson との共著でお書きになった論文では,みんなが思っているほどフォワードガイダンスが効果的でないと示しているわけですよね.なんで効果的でないかと言えば,消費者や企業の力は限られていて,はるか遠くの未来で起こることに反応できないからだという理由でした.「誰も彼もが,すごく長期のことを考えて経済的な意思決定をやっている」という考えを疑う理論文献はだんだん増えてきていますし,あの論文はそれに合致するように思えます.こうした考え方をとって,いまのインフレに関するぼくらの考えをかたちづくるべきなんでしょうか?
ナカムラ: インフレ予想の役割を考えずに,ほんとに大きなインフレ上昇の事例を理解するのは,むずかしいと思います.いったいどうやって1年で 数十パーセント,数百パーセントにまでインフレ率が上がって,それからまたゼロパーセントにもどるのか,フィリップス曲線だけにもとづいて理解するのはむずかしいでしょう.理論的な観点から見れば,インフレ予想が果たす役割を組み込むというのは,ようするに,企業の重役たちが製品の価格を設定するときに将来について考えるということです――「賃金はどれくらい上がる?」「競合他社は製品の価格をどれくらい上げてくる?」「サプライヤーはコストをどれくらい上げる?」といったことを考えて価格を決めるという,ただそれだけの話です.こうした問題は,インフレ率が高い時期にはかなり顕著です.たとえば,賃金交渉で大きな問題になります――これについては,ポール・ボルカーのインタビューでちょっとした逸話があるんですよ.賃金交渉を終えてもどってきた実業家に会ったところ,その人が興奮した様子で言ったそうです――「うちの従業員の賃上げを 13% に抑えこんでやったぜ」(おそらく,高いインフレ予想をふまえての発言だったのでしょう).
インフレ率がほんとうに低いとき――たとえばアメリカであればコロナウイルスが始まるまでのかなり長い期間には――みんな,インフレ率に対して注意を向けないという証拠がたくさんあります.なにしろ,企業にとっても,労働者にとっても,インフレ率が大して問題になりませんからね.学生に教えていると,気がつくんですよ.おうおうにして,アメリカの学生たちは,インフレっていったいなんのことやらほとんど知らないまま講義を受け始めるんです.でも,ラテンアメリカの学生たちは生まれつき知ってたかのようにインフレを理解しているように見えます――おそらく,彼らが育った環境のためでしょうね.
「長期均衡の要因が現在の行動を決定する度合いをマクロ経済のモデルは重視しすぎている」という考えに,共感を覚えています.さきほどおっしゃったような路線ですね.限定された合理性を入れると,モデルから出てくる予測がどう変わるのかについて考えることには,非常に価値があります.
スミス: そこのところなんですが,いまどきのマクロの理論でいちばん興味深い傾向や,いちばん重要な傾向はなんだと思います?
ナカムラ: 私は実証畑のマクロ経済学者なので,理論的な仕事とミクロデータからの証拠のつながりが強くなっていることにわくわくしています.それに,マクロ経済学のいろんな領域で,〔実験群と対照群を比較するような〕実験に近い実証的な手法がとられるようになったことにも,興奮を覚えますね.自分たちのモデルから出てくる規範的な含意をもっと説得力のあるものにするには,理論をデータに関連づける方法をもっと見つけることが前提条件です.ミルトン・フリードマンがノーベル賞受賞講演で強調したように(あるいは,もっと詳しくはここで).説得力あるかたちで事実を打ち立てる方法が進歩すればするほど,どんな理論がいちばん有用なのかもっとうまく評価できるようになります.それに,予想されていなかった実証的な研究結果が見つかったときには,これが新しいモデルや理論的な考えを触発することもあります.
スミス: 理論とデータをつなぐ考えを支える話に,フリードマンの『実証経済学論集』(Essays in Positive Economics) を持ち出されたのはおもしろいですね.ビリヤードボールの名手によるショットにマクロ経済学をなぞらえる類推をフリードマンが述べたのは,あの論集でしたよね.ビリヤードでうまくショットをきめるのに物理学を理解しておく必要はないのと同じく,人々がとる行動のモデルをつくるのに,経済的な意思決定が具体的にどうなされているのかをマクロ経済学者が理解しておく必要はない――フリードマンはそう言います.つまり,ミクロのデータにマクロのモデルが合致する必要はなくって総計のデータだけあればいいんだと,フリードマンは主張しているように見えます.ですが,近年,マクロ経済学の業界は,フリードマンの考えに強く背きつつあるように思えます.というか,ぼくの知るかぎりでは,あなたの 2018年の論文 “Identification in Macroeconomics” こそ,ミクロデータにてらしてマクロのモデルを検証しようという傾向を誰よりもうまく要約しています.これが大きな転換だという点には同意されます?
ナカムラ: ビリヤードボールの類推には,真実もいろいろ含まれていますけれど,私なら,データを放り投げていいという論拠にこれを採用しませんね.関連する各種の変数が無作為にいろいろと異なっている大規模データセットがあれば,もしかしたらマクロのデータだけに関心を集中できるかもしれません.でも,実際に私たちの手元にあるのは,たいてい,変異が無作為でない小さなデータセットです.マクロのデータでは,いろんな構造の変化や制度の変化によって交絡が生じていることがよくあります.それに,因果関係を推測するのにともなうありとあらゆる課題もあります.なにしろ,無作為化した実験を実施できませんから.なので,ミクロとマクロの両方のアプローチを組み合わせようと試みるのは理にかなっていると思います.観察されたデータに等しくうまく合致するとしても,それまで各種の効果を分析できていなかった文脈では,非現実的な仮定をおいているモデルを用いた場合より,現実的な仮定をおいているモデルを使った方がうまくいくだろうと自信をもてます.
別の主題で例を挙げると,鉛が人々の行動におよぼすマイナスの影響についてはっきりしたことを知りたいと思ったら,たとえば鉛の摂取量がより多い地域の犯罪に関する「マクロ」の証拠だけを観察するのではなくて,鉛を摂取したとき細胞に起こることに関する生物学的な証拠も見る方が有益です.
私が言うまでもなく,こんな見解を言った人はとっくにいたことでしょう.こうした観点がどう盛衰してきたかについてなにか言えるほど,経済思想史についてよく知らないんです.これまで,多くの論争では,もっぱら理論に関心が集中していたように思います:たとえば,マクロ経済学のミクロ的基礎の関係がそうです.しかし,ここ数十年で,ミクロデータの入手と利用がものすごく容易になりました.これは,実証側にとってものすごい機会です.
スミス: まあ,そうですね.間違いなくぼくはそちら側に組みしていますし,大半の若手マクロ経済学者たちも同様という印象があります.ミクロデータを使ってあれこれのマクロモデルを検証することで,マクロ分野の急速な進歩の黄金時代がやってきてもおかしくないように思えます.
そこで,次の質問はこれです: 1) いまマクロ界隈で研究者たちが追究してる研究路線のなかで,いちばん興奮をおぼえるのはどれでしょうか? そして,2) まだ十分に注目されていない重要な研究路線は,なんでしょう?
ナカムラ: 大不況以降の金融経済学の研究は,とりわけ興奮をおぼえました.なにしろ,政策問題が非常に重要になっていましたし,新しいデータがたくさん出てきて,しかも金融政策ツールが変わってきているので.今後について言いますと,基本的な問いをコツコツやる「たいくつな」仕事の長所を主張する場面が多いことに気づきます.ある問いがこれまで長いこと研究されてきたからといって,その答えにみんなが納得しているかというと,そうでもありません.複数の研究が,それぞれにちがった手法を使って――のぞみうるなら,ますます説得力を強めている手法を使って――同じ結論に到達すれば,その主題に関する私たちの考えをかためるうえで大いに価値があり得ます(たとえば,限界消費性向に関して経済学者たちの考えを変えるのに貢献した多くの論文を思い浮かべてみてください).また,私は,マクロ経済の数値計測の研究の大ファンでもあります.
スミス: では,ちょうどこれからキャリアをはじめようとしている若手マクロ経済学者になにか助言ができるとしたら,それはなんでしょう?
ナカムラ: プリンストンでの学部生時代に,指導教員の一人だったボー・オノレの研究室に座っていたときのことを思い出します.壁の貼り紙に,こんな言葉が書かれていたんです――「仮定を疑え」(Question Assumptions).いったいどういうことだろうと,そのときは思案していました.それから数年後に,バークレーで採用面接を受けたとき,当時の学部長だったジム・パウエルのオフィスが面接室でした.そこに座っていて,ふと見上げたら,まったく同じ貼り紙が目に入りました.「仮定を疑え.」 既視感から我に返って〔おそらくパウエルにたずねてみたところ〕,ボーもジムも,バークレーの繁華街でたむろっていたコロに,カウンターカルチャーのヒッピーからこの言葉を知ったのだとわかりました.きっと,もともとは,意欲に燃えてる経済学者のための研究上の助言を意図した言葉ではなかったんだと思いますけど,でも,これまでもらった助言のなかで,最高の部類の助言だといまでも思っていますし,私から伝えられる最高の助言でもありますね.