ジョセフ・ヒース「資本主義をぶっ壊す! 働いたら負け! 夢を追いかけろ! 損得なんてクソ喰らえ!:『反体制』はカネになる」(2022年7月2日)

経済の非物質化が進むにつれ、あらゆる取引で信頼性が重要となり、情熱を示すことが収益を上げる近道となっている

Down with capitalism! For people and companies alike, there’s a new path to profits: Follow your dream, and trash-talk profits
As the economy becomes increasingly dematerialized, trust becomes more important to every transaction, and showing passion can be a quick way to profitability
By Joseph Heath Special to The Star
Sat., July 2, 2022

無知な大学生だった頃の話だ。授業をサボり、学生会館の地下に篭って、学内新聞の編集者として日々過ごしていた。そこで、記事を書いたり、政治を語り合ったり、今でいう「ウォーク・ポリティクス〔社会的正義に目覚めた左派活動〕」の熱に浮かされたりもし、ハッピーな時間を過ごしていたものだった。

当時、我々は皆して、学校をサボって、過激な左翼新聞に過激な左翼記事を書けば、体制への素晴らしい対抗手段になると考えてた。我々は、劣等生で、落ちこぼれで、抵抗勢力だと自らを位置づけていたのだ。スーツにネクタイを締め、プレゼンに勤しむビジネススクールの学生こそが、体制側に行ってしまう連中だと、我々は考えていた。

ところが、時が経つにつれ、不可思議なことが起こり始めた。一緒にたむろしてた急進派の連中が皆して、かなりの成功を収めるようになったのである。ジャーナリストになった者もいれば、医者、大学教授、弁護士、政治家、起業家になった者もいた。我々は皆して、自身の情熱を貫けば、体制は弱体化せず、あっという間に体制に組み込まれてしまうことを発見した。この過程で、我々のほとんどは金持ちになり、中には呆れるほど大金持ちになった者もいる。

今からすれば、これは当然のことだっただろう。週40時間、無償のボランティア活動として学生新聞の記事執筆や発行に従事しながら、大学の授業をフルでこなすのに必要とされていた性質や精神力は、資本主義システムから十二分の恩恵を得られる資質であることが自明だったからだ。我々が抵抗だと思い込んでいた活動は、実際には単なる適応可能性に過ぎなかった。

最近、クシシュトフ・ペルクの新著『利己主義を超えて:市場を拒絶する人に、市場が恩恵を与える理由(Beyond Self-Interest: Why the Market Rewards those Who Reject It)』の副題を目にして、当時のことを思い出した。ペルクは、近年、フィクションとノンフィクションの両方で賞を受賞しているマギル大の政治学教授だ。成功に後押しされ、ペルクはこの本で、本職の国際貿易協定についての研究分野を超えた、現行世界についての深い思索を繰り広げている。

市場での成功と、その成功への個人的態度の関係に、逆説的な関係が存在することを発見したのはペルクが最初の人物ではない。100年以上前、マックス・ウェーバーは、プロテスタントの教義である清教徒的な態度と、営利事業での成功の間に明らかな相関関係があることを指摘した。プロテスタントは、その厳格さと自己規律によって、目的の追求において異常なまでに几帳面になる。結果、貯蓄率が劇的に高くなり、投資可能な資金が増えると、ウェーバーは指摘した。

ウェーバーが指摘したように、金持ちになるには、お金を稼ぐだけでは足りない。お金を使わないことも重要である。歴史上、大抵の人や社会は、どちらか片方には成功したが、両方の成功にはほとんど失敗してきた。成功の秘訣は、一生懸命働くことを推奨しつつ、その労働の成果を享受することを節制するだけの価値観を見つけ出すことにあった。

現代の反消費主義にも似たような関係性を見出すことできる。だからこそ、反消費主義を支持する人の多くは、「寝返った」と批判される。ナオミ・クラインは、反消費主義文学の市場は広く、非常に儲かることを、かなり前に証明した。しかし、反消費主義的な態度は、もっと深刻な矛盾を抱え込んでいる。彼らは、現代の消費経済に対して、計画的陳腐化でもって反撃しようとする。毎年恒例の「何も買わない日」に参加することや、「修理する権利」運動を支持することだ。これらはつまるところ、支出を減らす様々な活動である。しかし、収入を減らさずに、支出を減らせば、結果的に貯蓄となり、長期的には支出が増えてしまう。

私は、同世代の多くと同じく、1960年代の反資本主義にどっぷりと浸かった両親に育てられた。ベランダを自作したり、自分で自宅を掃除したり、子供を自分で世話したりするような、自立心を信じるような環境で育った。家事手伝いや乳母は、召使いのようなものだとして敬遠した。大家に家賃を払うのは、お金の無駄だと考えた。そして何より、私は借金、特にクレジットカードによる借金を直感的に嫌悪してきた。しかし、時が経つにつれ、こうした個人的な価値観が、私を金持ちの老人に変えてしまったことを認めざるを得なくなった。

ペルクは、こうした伝統的なパラドックスに着目しているが、現代経済ではもっと広範にこうしたパラドックスが起こっていると彼は考えているようだ。人々は、物質的な消費だけに飽き足らず、もっと奥深い素養を求めるようになっている。例えば、弁護士や銀行家として成功した人が、凝った手作りパンや、少量生産のシラチャソース〔様々な素材からなるチリソース〕の製造に情熱を注ぐために、仕事を辞めるといったエモい話をよく耳にするようになっている。

こうしたベンチャー活動は、利益よりも情熱の探究行為だと一般的に解釈されているが、〔転身した人は〕ほとんどが廃業する競争の激しい市場で成功する可能性が高いことに、皆は気づいているはずだ。こうしたベンチャーは営利活動を否定しているにもかかわらず成功する。その理由の一つが、市場経済において困難となっている信頼の創出に効果的に成功していることにある、とペルクは指摘している。

消費者が、商品の物質的な品質にあまり関心を持たなくなり、スピリチュアル的・社会的価値を重視するようになると、価値は売り手のパフォーマンスに大きく依存するようになる。カーペットのサイズは容易に評価できるが、経糸編み機で手作りされたとの主張の検証は困難だ。多くの人は、手作業で作られたカーペットに大金を支払うことを厭わないが、それが本物である場合に限られる。よって、人々は、カーペットを、アウトレットストアで購入せず、羊の毛を手作業で刈り、あらゆる現代テクノロジーの使用を拒否しているラッダイトから一般的に購入するようになる。

これこそが、狂信者の美点だ。狂信者はカネを目的としていないため、商品の良し悪しについて、大きな信憑性ある主張を行えるのである。伝統的な経済的利己主義は、便宜主義だと問題視され、信頼性は喪失する。経済の非物質化が進むにつれ、あらゆる取引において、信頼がますます重要となり、拝金主義的な人は競争上不利な立場に置かれている。

労働者の側にも同じような現象が見られる。ドン・ドレイバー的な職場順応理論(「目的のためにはカネだ!」)に対して、若い世代は特に強い拒絶反応を示しており、「社会正義のための戦いの最前線にいる強い実感」のような、深い充足感を仕事に求めるようになっている。例えば、〔食料品メーカー〕ユニリーバは、〔自社ブランド〕ヘルマン・マヨネーズの使用用途を、サンドイッチの味付けではなく、食べ残しの消費を促進し食品廃棄物との戦いを主導することにあると発表し、散々に嘲笑された。マヨネーズには、高度に社会的な目的が必要なのだろうか? と多くの人が疑問に思ったのだ。
〔訳注:ドン・ドレイバーは、2007年-2015年に制作されたアメリカのテレビドラマ『マッドメン』の主人公。ドラマは60年代NYが舞台となっており、当時の拝金主義・男性中心主義が批判的に描かれている。〕

それでも、雇用主は、お金よりも、もっと高潔な目的のために事業を行っていると、労働者を納得させることに成功すれば、労働者からもっと高いレベルでのコミットメントと労働努力を必然的に引き出せることに気づくだろう。そして、雇用主はそうすることでさらなる大金を稼ぐことに成功する。仕事がより抽象的となり、労働者の監督が難しくなるにつれて、労働者から真のコミットメントを引き出す能力こそが、競争上の重要な優位性となるからだ。

結果、企業は、利益の最大化において、差異化ゲーム戦略を取る有効性が増すことになる。

人生においては、直接手に入れようと努力すれば逆に入手が困難となるような成果物が存在している。例えば、社会的地位だ。社会的地位は、それを求めすぎたり、求めているように思われると、獲得の障害となる場合がある。リラクゼーションも同じような性質を持っている。我々は、常に他人にリラックスするように言うが、無理にリラックスすれば非常なストレスとなるため、こうしたアドバイスに従うのは困難だ。

哲学者の中には、こうした状況を「志向のパラドックス」と呼ぶ人がいる。ある種の望ましい状況は、他の目標を目的とした活動の副産物としてしか達成できない。明確な目標として採用すれば、自滅的な行為となるものがある。

こうしたパラドックスを、ペルクは「副産物社会」の出現と呼び、もっと大きなトレンドの根底にあるものとしている。現代の産業文明では、衣食住のようなものはたやすい努力で獲得できるようになったため、副産物効果への相対的な重要性が高まる力学が働いている。我々は物質的なモノより、経験を重視するようになっているが、結果的に生産性の最大化を目的とした直接的な介入は、次第に効果が薄れてきている。

こうした変化は、消費者としての我々だけでなく、労働者としての我々にも影響を与えている。企業は、従業員に創造性や革新性を求めるようになったが、これらは単純努力によっては達成できない。そのため、企業は、従業員の仕事量を減らし、「マインドフルネス」の達成に集中するように奨励すれば、もっとより良い労働者になると想定しているのだ。

こうしたトレンドの結果、現代経済で成功する人は、大抵の場合で、頑張りすぎない人となっている。最たる例が、現代のハイテク企業だ。こうした企業の創業者たちは、何かクールなものを作ることを優先し、マネタイズは後回しにしている。

しかし、むろん、市場を完全に否定しても、成功は望めない。私が会ったことがある彫刻家は、芸術品の高潔さを保つため、マニトバ州北部の湖畔の見知らぬ場所に、凹んだ岩山を作ることに専念していた。彼の作品は、「希少性を高める」戦略をあまりにもやり過ぎたため、皆は彼の名前を知らないだろう。

ペルクは、バンクシーのような芸術家をパラダイムの象徴としている。バンクシーは、自作を購入する裕福なコレクターを軽蔑しつつ、耳目を引く風変わりで馬鹿げた行為を求める市場の需要にも熱心に答えている。ここには、ある種の精神的な綱渡りが必要とされており、それによって、バンクシーのような人は、狂信者と偽物の間での幸せなバランスを達成しているのである。

こうした事例において、市場は、ある種の自己欺瞞の能力、つまり、自分がシステムと戦っていると信じながら、同時に報酬を得られるような能力に恩恵を与えるようになる。もしペルクが正しいのなら、こうした偽善は現代世界のあらゆる側面に埋め込まれており、鍵を受け取っていながら鍵がかかっていると文句を言う大学生〔体制に参加できる機会を与えられているのに、参加できなくなっていると批判するような態度〕だけの専売特許でなくなってしまっているかもしれない。

〔本記事は、カナダの新聞、トロント・スター紙に掲載されたものを、ジョセフ・ヒース教授の許可に基づいて翻訳している〕

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