イーロン・マスクが、数日の間ツイッターの主役となるのは、お馴染みの光景だ。月曜日、マスクは、「ウクライナとロシアの平和」と称する大構想をツイートし、いつもの光景が展開された。彼は、ロシアによるウクライナの併合地域での国連の監督下での投票の実施、クリミアの「正式なロシアの領土」への承認、ウクライナの「中立」国化などを盛り込んだ提唱を行った。
このマスクによる和平案は、当然のことながら素晴らしい外交手腕と称賛されず、ツイッター上で執拗な批判に晒された。そこで、現世で最も裕福なこの男性は、自分の提唱をオンライン投票にかけて賛否を問うた。結果、60対40という大差で否決された。実際、この騒動の終日になって、マスクの構想を強く支持していたインターネット論壇は、2つだけになっていた。(ロシア政府に買収されているわけでもないのに)ロシア政府に同調している人々。そして、特異な主張(「核戦争を避けねばならない」とか「私はウクライナの最善の利益のために活動している」とか、「西側諸国の利益を総合的に推進している」といった主張)をしているインテリの一群である。
イーロン・マスクもむろん、こうしたインテリの類型としてみなすことができるだろう。マスクは、今回のネヴィル・チェンバレンのような真似をするまでは、ウクライナの最大擁護者の一人として広く認識されていた。彼が、ウクライナ国内に何千台ものスターリンク端末を配備していたからだ。彼はネットで叩かれたが、それでも「私はウクライナの味方だ」と公言しており、提案によって大量死を回避しようとした動機は、彼なりの誠実さの表れだったのだろう。
ここで問題なっているのは、ロシアのウクライナ侵攻で示されたような粗野な道徳的明快さに、インテリがうまく対処できていない事態である。イーロン・マスクは、インテリ層(本物であれ、見せかけであれ)が共通してハマる罠にハマったのだ。これは、「物事は見かけほど単純ではない」といった考えへの誘惑や、あらゆる論争に双方の見解を見出そうとしたり、何でもない状況に陰影を見出そうとしてしまう、インテリに深く根付いている業(サガ)である。
これは、哲学者によく見られる傾向であり、なぜそうなるかというと、哲学者の営為が独創的な考察から突飛な結論を導くことにあるからだ。物事の本質や、自由意志と決定論などについて考察する場合には、こうした営為はあまり問題とならない。しかし、この習癖を、現実世界の問題に適用しようとすると、イーロン・マスクの突飛な国際問題の解決策のように、潜在していた危険性が表出する。マスクの提案で露わになったように、彼は、ウクライナという国家や、その歴史、さらにはこの30年間に該当地域で何が起こったについて、ほとんど無知だった。2月末にロシアの侵攻が行われるまで、彼はおそらくこの地域について1分以上考えてみたことすらなかっただろう。
もっとも、イーロン・マスクは、名声、富、Twitterのフォロワー数に反比例して、この手のいっちょかみインテリとしてはまだまだ修行が足りない。この手のインテリ仕草の典型例が、経済学者/未来学者/識者のロビン・ハンセンが最近発表したブログ記事「群衆(モブ)が煽る戦争戦略に注意せよ」だ。
ハンソンは、この記事の冒頭で、道徳的規範の強制において、明確な「コミットメント・プラン」(例えば、拘束)のベースとした〔ヒトの〕道徳的憤りの役割について、いくつかの考察を行っている。彼はこの考察で、ヒトの集団レベルでの憤りの表明は、小規模の部族や社会では道徳規範の〔集団での〕安定的な強制に有効な役割を果たしていたかもしれないが、今の我々が暮らす複雑な世界では、この〔憤激による道徳的コミットメント〕はうまく機能していないかもしれない、としている。「〔現行世界では〕私たちが想定している以上に、道徳規範は密接に共有されておらず、憤りにコミットメントしている構成員は、告発の正確性を確認するよりも、互いの忠誠心を示そうとすることが多く、場合によってはライバルを蹴落とすために誤解を招くような告発を意図的に行う構成員も存在する」とハンソンは述べる。この考察でハンソンが念頭に置いているのは、あきらかにネット上の群衆(モブ)が扇動するキャンセル・カルチャーである。
ここまでは良しとしよう。しかし、これに続けて、ハンソンは、戦争での和平交渉――特にウクライナ戦争に話題を移し、ウクライナを応援している人の多くは和平交渉を進めることに道徳的不快感を抱いているようだ、と指摘する。そして、ウクライナの支持者たちが道徳的憤りの感情を抱いているのは、信頼できるコミットメント・プラン、つまりロシアが核兵器を使用した場合に何が起こるのについて明確なステートメントがないことに問題がある、とハンソンは主張する。そして、核戦争は重大事であり、我々はロシアの核兵器使用を抑止する明確な手段を保持していない以上、我々は「群衆によって煽られた道徳的憤りからの漠然とした戦争戦略に縛られる」よりも、平和を模索すべきだ、としている。
ハンソンの記事から、ゲーム理論やコミットメント戦略といった知的な装いを取り去ってみれば、この記事の本丸は、「戦争狂」(ハンソンの独自用語)と化した「群衆(モブ)」による道徳的正義感からの誤謬でウクライナ戦争における平和の希求が阻害されている、との〔既存〕概念への逆張り長文に過ぎない。インテリのこうした逆張りは、我々を危険に晒している。
こうした考察は、インテリの内輪受けに留まる奇天烈な論だ。〔奇天烈過ぎて〕どこから指摘すれば良いか難しいが、初歩的な点から指摘してみよう。まず、「戦争狂」とは、通例では、理由もなく他国に侵略し、住民を虐殺し、都市を破壊し、兵士に強姦や略奪を奨励するような人物や支持者を指すのに使われる言葉だ。そうした人物と戦う人や、反対している人を指す言葉として使うのは不可解である。次に、ウクライナが今も戦っているのは、道徳的に憤りつつも纏まりを欠いた群衆(モブ)に扇動されているからであり、ロシアに実効支配されている現状への反応ではないとしているのは、単なる無知の表れに過ぎない。
しかし、ハンソンによるこの知的営為で最も驚かされる点は、「ロシアはある意味で欧米のキャンセル・カルチャーの犠牲者になっている」と暗示していることだ。彼は、ツイッター上でのモブによるキャンセル・ムーブと、ウクライナの支持者が似通っていると示唆している。こうしたアナロジー論法は、哲学者間では「気の利いた議論」と呼ばれており、突飛な結論を導き出す独創的な話法の典型例だ。ハンソンは、ブログ記事を書いている時に、ユリイカ状態になっていたに違いない。インテリは、「気の利いた議論」が大好きだ。「気の利いた議論」は、嫌悪感の表明や、レッテル貼りや、微妙な差異化や、明解さを曖昧にする、といった際の知的な道具として非常に有用だからである。
そして、ハンソンは、ウクライナの支持者を、ネット上の群衆(モブ)と同一視するという究極の茶番を行ったのである。典型的なウォーク化〔正義に覚醒〕した群衆(ウォークは、ハンソンの指摘にあるように、共有規範の欠如や、不誠実な強い信念といった全面的な欠陥を抱えている)とは違い、ウクライナの支持者は、悪より善を選び、不正義に対して正義の側に立っているだけであり、それ以上の複雑な行為を行っていない。これに狭義を差し挟むのは、白と黒しかない局面に、際ない灰色を見て取るような行為である。
ウクライナでの戦争は悲惨なものとなっている。エスカレート、紛争の拡大、核兵器による応酬に発展する可能性に、恐怖を感じるは当然だ。しかし、この局面において、悪役は一組だけで、それは、ツイッターのプロフィール画像にウクライナ国旗を掲げて、イーロン・マスクを糾弾したり、#slavaukrainiというタグで投稿を行っている人たちではない。こうした〔ツイッター上でのウクライナ支持〕に何か物申したいなら、「それに、ウラジーミル・プーチンはどう反応するだろう」と自問自答してみるのは有用である。
この基準で考察してみると、イーロン・マスクの和平案にロシア政府が前向きの反応をしたことは、いろいろ示唆的だ。他にも、ロビン・ハンソンによる「ロシアは、群衆の正義感によるキャンセル・カルチャーの犠牲者である」といった主張に、好意的な反応を示した人物について考察するのも有益だろう。ウラジーミル・プーチンは、そうした反応を示した人物の一人だ。
[Andrew Potter: The intellectuals are far too sophisticated to see the truth in UkrainePosted by Andrew Potter
Photo by Daniel Oberhaus
Oct 6, 2022]
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