ジョセフ・ヒース「イデオロギー論の諸問題」(2001年10月1日)

本稿で私は、従来「イデオロギー的影響」というカテゴリーの下で一緒くたにされてきた現象の多くが、主体が合理的であるとの想定を保持したままでも説明可能であると論じていく。〔…〕制度が再生産されるメカニズムを正確に診断すれば、社会変革ための新しい戦略を提示できる可能性がある。
Vector continuous line drawing human heads with opposite thinking concept illustration

目次

現代の社会批評において「イデオロギー」概念が中心にあり続けているのは、カール・マルクスと青年ヘーゲル派のしつこく残り続けている遺産の1つである。「イデオロギー」概念は、個人が、自らを抑圧し搾取する制度の維持や再生産にしばしば自主的に加担するという、極めて特殊な現象を説明するために導入された。極端な場合、そうした個人は、自らにとって利益となるような制度変革を試みる他人の努力に、積極的に抵抗することさえある。よって明らかに、〔こうした状況への〕なんらかの説明――個人がいかにして自己利益の把握に系統的に失敗してしまうのか、あるいは自己利益が明らかにになっているにもかかわらずなぜそうした利益の実現に失敗してしまうのかの説明――が必要となる。この説明の必要性は、切迫感を伴うことが多い。説明できなければ、個人は真に抑圧され搾取されているとの主張が、暫定的にだが(prima facie)証明できなかったと通常は見なされてしまうからだ。

もちろん、この種の現象に特別な説明が必要なことに疑問の余地はない。不幸なことに、フォイエルバッハ、マルクス、そしてその追随者たちは、こうした「イデオロギー的」影響を、イデオロギーに支配された人の非合理性によってもたらされたものとして説明するという、破滅的なアプローチを取ってしまった [1] … Continue reading 。慣習がなんら筋の通った理由なしに再生産されるケースも明らかに存在するが、〔慣習を実践する〕主体が非合理性に支配されていると説明するのは、理論的にも実践的にも代償が大きい。そうである以上、こうした説明は最終手段として取っておくべきである。本稿で私は、従来「イデオロギー的影響」というカテゴリーの下で一緒くたにされてきた現象の多くが、主体が合理的であるとの想定を保持したままでも説明可能であると論じていく。主体は、合理的だとしても、自己利益に究極的には反するような行為パターンにはまってしまう。そして、そうした行為の有害性や自己破滅性を指摘された場合でも、行為パターンの変更に抵抗するかもしれないということを示したいと思う。

このような、人が非合理とか誤っているとかと想定しないアプローチには、主に2つのメリットがあると私は考えている。まず、このアプローチを用いれば、救いたいと思っている人々(それが労働者階級であれ、女性であれ、サバルタン [2]訳注:ポストコロニアル研究などで用いられる、従属的な立場に置かれた人々を指す用語で、特に先住民や奴隷などを指す。 であれ)の知性を侮る傾向を極力抑えながら、社会批判を行うことができる。救いたいと思っている当のグループのメンバーの一部は、自分たちの合理性に疑いをさしはさむ批判理論を拒否し、それに反論して自らの自律性を主張しがちだが、このアプローチはその傾向を和らげるかもしれない。2つ目の大きな利点も、その実践上のメリットにある。抑圧的な慣習の多くは、人々が誤った、あるいは非合理な信念を持っているから再生産されるわけではない。そのため、人々に信念を変えるよう説得するだけでは、そうした慣習を再生産している根底のメカニズムを変えられないないことがほとんどだろう。一層悪いことに、問題となっている制度は、ずっと批判されているのに何も変わらないというだけの理由で、社会批判への頑健性を持つように見えるかもしれない。制度が再生産されるメカニズムを正確に診断すれば、社会変革ための新しい戦略を提示できる可能性がある。

1 イデオロギーと非合理性

人が非合理にふるまうとの想定がなぜ大きな問題となるのか、という問いから始めよう。なんだかんだ言っても、人が誤りを犯し、考えなしに行動することがあるのは当たり前の事実だ。人が自分の生活を悲惨なものにするような行為をしていたら、その人は何らかの誤りを犯している可能性が高いように見える。農奴が封建領主を守るために馳せ参じたり、人質が誘拐犯を手助けし始めたりすると、そうした人は頭が混乱したまま行動しているのだと、私たちは考えがちである。「キリスト教」とか、「ヘルシンキ症候群」とかと、人を愚かにさせてきたものに名前をつけさえするかもしれない。行為者が、そうした病的症状に罹っているのだと教えられた後でさえもその行動に固執し続ければ、私たちは「問題はもっと根深いのではないか?」とか、「行為者は教えられた情報を判断する能力に何か問題を抱えているのでは?」と考え始めるかもしれない。人々が単に間違えているだけに留まらず、「もっと深い形の非合理性に囚われているのではないか」と考えるようになるのだ。この診断はかなり直感に合っている。では、これにどんな大きな問題があるのだろう?

この問題とは、ドナルド・デイヴィッドソンが、有名な「概念枠」批判において提起したものである [3]原注:ドナルド・デイヴィッドソン「概念枠という考えそれ自体について」 。デイヴィッドソンの議論はおおよそ以下のようなものだ。人々の発話が意味することについて、事実の問題など存在しない。人の発話の意味は、聞き手がその発話に与える最良の解釈によって決まる。しかし、〔聞き手である〕私が人の発話に付与する意味は、「その人は正しい信念を保持している」という私の一連の信念に決定的に依存している。例えば、人々が「木曜日」に会おうと話しているとしよう。このとき私は、「今日は火曜日である」との信念を人々が(私と)共有していると想定しなければ、人々がどの日を指しているのかを把握できない。もし、「人々は今日を月曜日だと信じている」と想定すれば、人々は「木曜日」と言いながら「水曜日」を意味している、と私は考えるだろう。しかし私たちは、直接訊ねることでしか人々の信念を明らかにできず、また人々は自らの信念を文の形にすることでしか表現できないので、その文による表現は解釈を必要とする。そのため、私たちが人の発話に付与する可能性のあるあらゆる特定の解釈は、私たちに利用可能な証拠からすると大いに飛躍がある、つまり、利用可能な証拠は解釈の決定に十分でない(underdetermined)。人の発話の解釈の仕方は数えきれないほど存在し、その解釈のそれぞれが、異なる信念の集合を人に帰属することに支えられている。

しかし、すると私たちはどのように互いを理解しているのだろう? デイヴィドソンは、あらゆる解釈は「寛容の原理」(principle of charity)による制約を受けると主張している。最良の解釈は、その人に最も合理的な一連の信念を帰属できる解釈、つまり、その人が保持していると考えられる正しい信念の数を最大化できる解釈となる。聞き手の立場からすると、最良の解釈は、話し手と聞き手の最も高い水準での合意と整合する解釈である。この寛容の要請は、方法論的な仮定ではなく、〔解釈そのものを成り立たせている〕構成的原理である。ある人を解釈することは、その人を寛容に解釈することである。その人を寛容に解釈しないなら、それは単に解釈とは見なされない。

デイヴィッドソンの議論は、ある種のデカルト的な懐疑論を排除する効果を持っている。自分の身の回りの事柄について正しい信念を持っている人が、現実世界から夢の世界へと移送されたと想像してみよう。その人は騙されており、夢の世界では物質的な物体が全て消えてしまったにもかかわらず、周囲の環境について〔移送前と〕同じ信念を保持している〔つまり、現実世界と夢の世界が全く同じものだと思っている〕。その人の信念は、現実世界では大部分正しかったが、夢の世界に移送された今となってはほとんどが間違いとなる。しかし、その人は間違いに気づくことができるだろうか? これがデカルトの思考実験の基本構造だ。デイヴィッドソンの議論は、このデカルトの思考実験の決定的な前提を暴露している。デカルトの思考実験では、現実世界と夢の世界で、その人の信念は同一である、具体的に言えば、その信念は同じ内容を持つとの単純な前提に立っている。しかし、信念とは命題的態度、つまり自然言語の文章として解釈されるものである。そのため、この〔現実世界と夢の世界で信念が同一という〕前提は、言語表現の意味が、現実世界から夢の世界へ移行しても不変なままの要素によって決定される、との前提とイコールとなる。しかしデイヴィッドソンによれば、〔言語〕表現の意味は言語共同体の解釈実践によって決定される。そのため、人の信念は、現実世界から夢の世界への移送によって意味を変化させるが、大部分は正しいままである。なぜそうなるのか? 寛容の原理は、話者の信念を概ね正しいものとして扱う解釈実践を要求し、この要求は夢の世界でも現実世界でも同じように課されるからだ。もしある解釈によって、誰かがが大量の誤った信念を持っていると分かったなら、それは単にその解釈が間違っている証拠となるだろう。

寛容の原理が働いた実際の例として、エスノグラフィ―(民族誌)の歴史における次のエピソードを考えてみよう。リュシアン・レヴィ=ブリュールは、「前論理的」な文化の存在を発見した、との悪名高い主張を行った [4]原注:リュシアン・レヴィ=ブリュール『未開社会の思惟』 。レヴィ=ブリュールは、観察対象の人々が、矛盾した発言や整合性のつかない主張を繰り返し、概してバカげた事柄を信じていることを発見した。言うまでもなく、こうした社会を再訪した後続世代の民族誌学者たちは、レヴィ=ブリュールのような主張に懐疑的で、レヴィ=ブリュールを困惑させた発言が、観察対象の「原住民」を理性的であると想定したままでも解釈できることをすぐに見出した。例えば、言葉通りの意味での表現と、比喩的・装飾的な表現を区別することで、レヴィ=ブリュールが明らかにした「矛盾」のかなりの部分が解消された。デイヴィッドソン的な観点からすると、このエピソードのポイントはこういうことだ。後続世代の人類学者たちによる解釈がレヴィ=ブリュールの解釈よりも優れていたのは、その解釈が、観察対象の社会の人々が「真に」意味していたものに近づいたからではなく、誤りの帰属をより倹約していたからである。後続世代の人類学者の解釈が正しいとされたのは、その解釈にのっとれば原住民が合理的であると思えたからである。解釈の正しさを示す証拠になるものが、〔合理性の〕他に何かあるだろうか? 2つの解釈〔の正しさ〕を比較する基準となるような「第3のもの」は存在しない。ただ、もっとたくさんの解釈があるだけである。

より一般的な問題は次のようなものだ。「人は概して合理的であり、人の信念は大部分正しい」という仮定を疑えば、解釈を統制する唯一の制約が取り払われ、人の発話の意味をいかように解釈してもよくなってしまう。すると問題が生じる。その問題とは、人の行動のもっともらしい説明を構築できなくなってしまうということではなく、あまりにも多くのもっともらしい説明が構築できてしまい、それらの内から不適切なものを除外するのが難しくなってしまうことだ。これは、批判理論家が、非合理性と誤りを該当人物に帰することにも限界があることを意味している。批判理論家〔による分析〕が閾値を超えれば、〔分析によって示された〕当該人物の誤りは、当該人物の問題ではなく、批判理論家の解釈が間違っている証拠と見なされるようになる。つまりこれは、批判理論家が巨大な包括的イデオロギーを発見したのではなく、単に人々の行動を理解し損ねていることを示すに過ぎない。そして、イデオロギーにあまり訴えない解釈が、まさにそのために(イデオロギーにあまり訴えていないために)勝利する [5] … Continue reading

これは、フランクフルト学派の批判理論の歴史における古典的な問題である。批判理論の「祖父」であるマルクスとフロイトはともに、人々の信念には広範な誤りが存在すると診断する理論を構築した [6]原注:例えばジグムント・フロイトは『幻想の未来』で次のように語る。「それゆえ、宗教は人類に普遍的に見られる神経症だろう」。 。そうすることで、彼らは自らの土台を掘り崩すリスクを冒した。大量の誤りをその人自身に帰してしまえば、その人々に帰すことのできる動機や信念の範囲も大きく拡張させてしまう。こうなると、ある解釈が他の解釈よりも優れていると示すのが非常に困難となる。そのために、マルクスとフロイトは、自らの解釈のメリットを評価するのに使える、ある種の「外部」理論(史的唯物論、精神分析)を持ってこざるを得なかった。問題は、この基準が、競合する解釈や理論の上位に位置する何かに依拠しなければならなかったことである。それは、解釈の適切さを判断する基準を提供すると称しているため、単なるデータの集合に対する最良の解釈以上のものでなければならなかった。

マルクスとフロイトはこの問題に対処するため、自らのメタ解釈理論は「科学的」であり、根本的な形で正当化されているという論陣を張った。残念ながら、どちらの主張にも特にメリットはなく、「科学的」探求に伴う権威を利用しただけだった。結果、批判理論家たちはすぐに、マルクスとフロイトの批判理論を批判理論家にも適用するようになった。カール・マンハイムは、古典派経済学がブルジョワジーのイデオロギーに過ぎないなら、史的唯物論はプロレタリアートのイデオロギーに過ぎず、それゆえもはや真実とは言えないと主張した [7]原注:カール・マンハイム『イデオロギーとユートピア』 。同様に、精神分析家はすぐに、解釈の構築の指針として提供されたフロイトの本能理論それ自体が、フロイトの無意識の欲望の表明以外のなにものでもないと主張した [8]原注:フロイトのサークルでは、理論的論争を行う際、相手が自分の意見に同意しない動機を分析することもしばしばだった。Peter Gay, Freud: A Life for … Continue reading 。こうした批判に共通するのは、メタ解釈理論からあらゆる特権的地位を奪うことで、それを解釈理論のレベルに引きずり降ろしていることだ。しかし一度それがなされると、デイヴィッドソン的な問題が立ちはだかることになる。ある批判理論を、他のものよりも妥当なものにすると考えられるものが、非常に不明確になるのだ。

20世紀の批判理論の歴史のほとんどは、この問題を巡る解決の試みと理解できる。しかし、そうした試み全体において、ほとんど疑問視されなかったことの一つに、人が自らの利害に反する行動を取っていれば、その人はなんらかの理由で非合理的な行為をしているに違いない、という非常に根本的な仮定がある。本稿で私は、この仮定は多くの場合で間違っていることを示したい。人は、時に間違いを犯し、混乱するが、それは(特に、経済的利益の核心に関わる場合には)通常状態というより例外的な出来事である。私が示したいのは、個人は誤った選択によってではなく、自らの行為が他者の行為と望ましくない形で組み合わさることによって、自らの望んでいない結果を生み出してしまいがちということである。それゆえ、社会的インタラクションの構造にもっと注意を払えば、イデオロギー理論の必要性は減ることになる。次の3つのセクションでは、主体が、合理的な選択によって、ある意味で自らの利害に反する行為を行い得る3つのパターンを提示する。

2 集合行為問題

批判理論家の犯してきた最も一般的な誤りは、私見では、集合行為問題の帰結をイデオロギーの影響だと誤認することである。集合行為問題は、主体が、他者になんらかのコストを押し付ければ、自らの目標やプロジェクトを最もよく達成できるような状況で生じる。囚人のジレンマはこの典型的な事例だ。それぞれの囚人は、相手の囚人を警察に売ることで、自分の刑期を短くできる。しかし相手を売れば、相手の刑期は長くなる。結果、両者は互いを警察に売り、黙秘を貫いていた場合よりも長い刑期が両者に課される。

大規模集団におけるインタラクションの多くは、まさに囚人のジレンマと同じ構造を持っている。例えば、電話会社は以前だと、電話番号案内サービスについて、顧客1人1人に料金を請求しないのが普通だった。代わりに、消費者は基本の月額パッケージの一部として電話番号案内サービスの料金を支払っていた。この仕組みの問題は、利用者1人1人にサービスを提供するコストが、企業の消費者全体によって支払われるために、サービスの過剰利用を招くことだ。そのため、電話番号を調べるのが面倒な人は、他の誰か〔案内員〕に調べさせながら、そのコストを他の消費者に効率的に転嫁できた。しかし、誰もがこうした行動をとると、電話番号案内サービスは本来の需要分に比べて過剰に利用されてしまい、全員の支払いが増えることになる。そのため、電話会社が電話番号サービスの利用料金を個人に直接請求するようになると、サービス利用量は著しく減少した(シンシナティでの運用テストでは、1回の利用ごとに0.2ドルの料金を課すと、電話番号案内サービスの利用量は月に平均で80,000回から20,000回に減った。結果、固定電話の電話料金は月に平均で0.65ドル下がった) [9]原注:この数値はEdward E. Zajac, The Political Economy of Fairness (Cambridge: MIT Press, 1995), 29.を参考にした。

電話番号案内サービスの場合、人々が集合行為問題にはまったのは、一つにはインタラクションが完全に匿名であるためだ。しかし同様のダイナミクスは、対面のインタラクションでも見られることがある。例えば、大人数のグループの全員が、誰が何を注文しようともレストランの支払いは全員均等の割り勘になると知っている場合、各個人は1人で来た時よりも高い料理を頼むことが多いだろう。しかし、全員がそうすれば、結局全員が望んでいたよりも多く支払うことになる。6人で外食に出かけて12ドルの前菜を頼めば、1人は2ドルを支払うだけだ(そして、自分が前菜を注文しようとしなかろうと、周りの人の前菜の代金の一部を支払うことになるのだから、ここは前菜を頼んだ方がよい)。同じ理由で、大規模な集団における個人は店員へのチップの金額を少なめにしがちである。誰もが本来の支払額よりも少ないチップを出すことになる。なぜなら、〔少額のチップを払うのが1人だけなら〕その個人はケチくさく見えず、グループ全員が少々ケチくさく見えるだけだからだ。もちろん全員がそれをすれば、皆揃って非常にケチくさく見える(これは広く見られる現象であり、ほとんどのレストランが大人数のグループに最低限のチップ額を課すのは、実はこのためだ)。

批判理論の観点から、こうした集合行為問題において最も特徴的なのは、集合的な自己破滅的行動をとっていることを自覚したとしても、主体がそこから抜け出すことは困難になりがちということだ。なぜなら、結果が最善にならないと認識するだけで、そうした結果を引き起こす行為を各個人にとらせるインセンティブが変化するわけではないからである。電話番号案内サービスの過剰利用をやめるべきだと気づいた人が、1人だけ過剰利用をやめたとしても、電話料金が安くなるわけではない。全員が過剰利用を止めて初めて、その人の電話料金は安くなる。しかし、その人は他の全員の行為をコントロールすることができない(更に、他の全員がサービスの過剰利用を止めた状況で自分だけ過剰利用し続ければ、自分にとっての利得は大きくなる)。

それだけでなく、積極的に他の人にコストを転嫁しようとはしていない人でさえ、転嫁しようとする人から搾取されるのを避けるためだけに、集合的に自滅的な行為をとらなければならないかもしれない。友人たちとレストランで卓を囲み、友人たちが自分たちの分の高い酒を注文すれば、自分も同じ酒を1杯頼まざるを得なくなる。頼まなければ、友人たちに一方的に奢ることになってしまうからだ。

重要なのは、集合行為問題は免れるのが非常に困難ということである(この現象を集合行為問題と呼ぶのはこのためだ。インタラクションのパターンを変えるには、全員に現在の行動を止めさせなければならない)。そのため、人々がこうした均衡にはまっていると見抜く手がかりの1つは、全員がどんな問題が生じているのかを知っていても、何も変化が起きないような事態を観察できたときだ。例えば、クリントン大統領とルインスキー秘書のスキャンダルや、O・J・シンプソンの裁判のような出来事を巡って生じた「報道合戦」(media circus)についての不満をここ数年よく耳にする。報道合戦の最も批判されている特徴の1つは、報道が「飽和」レベルにまで達することだ。最も明快な例は、主要な報道ネットワーク全てが全く同じニュースを報道している状況である。これは明らかに、最善の結果ではない。あるチャンネルがある事件の報道を24時間生放送で行っていたら、他のチャンネルが同じことをするのは無駄である。その事件に興味のない視聴者にも何か見るものを提供するために、他のチャンネルは別のトピックを報道した方がよいだろう。同じことは、全てのニュース番組が、夕方の放送で5、6個の全く同じネタを扱い、他のニュースバリューのあるトピックを無視している状況にも言える。

いずれにせよ、この件で興味深いのは、批判は単に世間一般でよく聞かれるだけに留まらないことだ。「飽和」したニュースを報道しているジャーナリストら当事者も、自らの見解を聞かれれば、この状況はばかげており、無視されている興味深いネタがある、などと語ることが多い。言い換えれば、ニュースを取材している人々は、他のことを取材すべきだと考えていることが多いのだ。それゆえ、問題は「メディア」のメンバーが優先順位を間違えてきたこととか、テレビですべきことは何なのかについての理解が貧弱であることではない。メディアの人々は何が起こっているのかを完全によく理解できている。問題は、最善でない均衡にはまっていることなのだ。報道局は、視聴者を巡って互いに競争している。今、世界に2つのチャンネルしかなく、大事件が起こった状況を想像してみよう。70%のテレビ視聴者はその事件に興味があるとする。報道局は、ライバル局がそれを取材することを知れば、他の事件を取材して視聴者の30%を惹きつけるか、同じ内容を取材して視聴者の35%を惹きつけるかの選択肢が与えられる。両局は同じように推論して、どちらも全く同じ内容を放映する。結果は、一方の放送局の電波の単なる無駄遣いである。

そのため、全員が問題は何なのかを知っていても、状況が何も変わっていないなら、集合行為問題が生じていると疑うのは理に適っている。同様に、人々がある社会変化は(広い意味で)自らの利益となると知っていても、このことは人々がそれについて何かを行うインセンティブを持つだろうことを意味しない。電話料金の支払者は、〔皆で〕電話番号案内サービスを使うのをほどほどにすれば自分の利益になると分かっているとしても、実際にサービス利用を減らそうとは思わない。同様に、ジャーナリストはセンセーショナルで凄惨なニュースばかり追えば報道業界全体が信頼を失う(よって自らの利益にならない)ことを知っているかもしれないが、各レポーター、各報道組織にとっては、そうすることが依然として利益になるだろう(テレビ視聴者の総数が減ったときでさえ、視聴者のシェアを増やすことは可能だからだ。「ネガティブ」キャンペーンの背後にあるロジックはまさにこれと同じものである)。

そして外から見れば、こうした状況では、人々は単に利害の在処について混乱しており、なんらかのイデオロギーに囚われているかのように見える。しかし、立ち入って調べてみると、人々は完全に合理的であることが分かる。人々は、批判理論家に同調して自分たちの行為の悲惨な帰結を嘆きさえするかもしれない。

この分析を受けると、イデオロギー〔による分析〕の古典的な例のいくつかを振り返って、似たようなことが同様に生じていないか確認したくなる。労働者階級を例にとろう。多くの理論家は、労働者たちは資本主義下よりも共産主義下の方が暮らし向きが良くなるだろうことが判明するやいなや、街頭に繰りだし体制を転覆させるだろうと単純に考えていた。〔そのため〕労働者がバリケードに姿を現さなかったという事実にはなんらかの説明が必要だと考えた。イデオロギーは、〔説明の仮説として〕最も人気な候補だった。なのでマルクスは、労働者は「商品の物神性の犠牲者であり、個人間の社会関係を、物の間の物象的関係と取り違え、既存の経済秩序が不変だと〔イデオロギーによって〕信じ込まされてしまう」と主張した。ところが、こうしたマルクス主義的な批判が半世紀にわたって繰り広げられたにもかかわらず、労働者階級は依然として革命を起こせていなかった。理論家は、より深い、より狡猾なイデオロギーが機能しているのではないかと疑い始めた。最も人気な分析は、消費主義に陥った労働者は後期資本主義の物質的価値に幻惑されてしまい、郊外の家で労働節約的な家電を使って、TVを見ながらディナーを食べるといった生活を享受しているという誤った信念のために、革命を支持できないでいる、というものだった。

こうした社会批判家たちは、単純にもっと分かりやすい説明を見逃していただけだった。革命はリスクの伴う仕事である。バリケードの保持は言うまでもなく、ピケラインの設置も、退屈で、難しく、しばしば寒く、危険なこともある。社会主義革命を起こせば労働者階級は利益を得るが、個々の労働者にとっては革命を手伝っても利益になるわけではない。何千人もの同志が行動を共にしないとバリケードに行くメリットはないが、何千人もの同志がバリケードに行けば、自分はバリケードに行く必要性がなくなり、家にいても問題はない [10]原注:Allen Buchanan, “Revolutionary Motivation and Rationality,” in Marx, Justice and History, ed. M. Cohen , T. Nagel, and T. Scanlon (Princeton: Princeton Univer sity Press, 1979), … Continue reading 。革命への熱狂によって、こうした集合行為問題の克服するのに必要な連帯を生み出せた事例もいくつかある。しかし、一般に、労働者が電話会社の消費者よりも互いの連帯を示すだろうと考えるべき理由はない。そして、労働者階級の大部分は一貫して、他の労働者の集合的達成にフリーライドしたいという意思を示してきた。労働組合が大抵、法的に強制された「クローズドショップ」方式を求めるのはこのためである [11]原注:マンサー・オルソン『集合行為論』

もっと議論を呼ぶ事例を考えてみよう。化粧品会社、ダイエット産業、美容外科などは、女性を搾取しているとの不満をよく聞く。90年代中盤、アメリカの女性は化粧品に200億ドルほど費やしており、これは400,000の保育所、あるいは33,000のDV被害者女性用のシェルター、50の女子大などの財源にできたかもしれない額である [12]原注:ナオミ・ウルフ『美の陰謀』 。これは明らかに最善の結果ではない。更に、(平均的に女性より稼ぎの多い)男性は自らの容姿の維持のために、女性が費やす金額と比べてごくわずかしか費やしておらず、身体状態について大きな不安に苛まれてもいないという事実が、事態をますます悪化させている。この男女の差は、女性を不利な立場に置くジェンダーロールを存続させるものだと広く考えられてもいる(男性のステータスを収入と、女性のステータスを美しさと同一視する風潮を促し、女性の性的役割は受動的なものだという考えを存続させる、などなど)。それゆえ、フェミニストは長い間、女性は美しさや美容産業への依存から自らを解放する必要があると論じてきた。

しかし、この批判について最も興味深い事実となってきたのは、女性の大半がこの考えを受け入れているにもかかわらず、個々の女性の行動にはほとんど影響がないことだ。化粧品産業がいかに女性を搾取しているかを説明できる女子学生はたくさんいるが、このことで彼女らは口紅をつけたがらなくなるわけではない。女子学生たちの多くは、大学を卒業すれば、私たちの文化におけるダブルスタンダード(いびつな身体イメージの弊害と、女性の容姿のモノ化などなど)について語れるだろうが、一方で依然としてカロリーを計算したりスキニーラテを飲んだりするだろう(ケロッグのような企業は、フェミニストの批判を利用して、女性に低脂肪な朝食用シリアルを売るために、「自分なりのやり方で美しく」とのスローガンを掲げている。ケロッグの目標は、洗練された女性消費者に、単なるダイエット産業の被害者だと思われる懸念を抱かせずに、ダイエット商品を買ってもらうことである。ケロッグの戦略は、彼女らをアイロニカルな被害者にする)。

こうした観察によって、フェミニズム理論家の多くは、更に狡猾なイデオロギーが働いているに違いないと主張するようになった。女性たちが自らへの抑圧の構造を理解しており、化粧品産業やファッション産業がいかにして積極的に自分たちを搾取しているかを理解できているのだとしたら、最新の保湿クリームに100ドルをつぎ込むのは正気の沙汰でないと気づくはずだ。ナオミ・ウルフは、基本的に同様の意見を示している。彼女によると「化粧品売り場に行けば、女性を惑わすのを意図した鏡や照明、香りのプリズムを通り過ぎなければならない。女性は、暗示をかけやすくするために催眠術師やカルトが用いる“感覚過負荷” [13]訳注:脳が処理できるよりも多くの情報を受け取ること。 に晒されるのだ」と [14]原注:Ibid, p. 83.。 。女性は「無意識的な幻覚」を経験しており、その意識は「植民地化」されてきたのであり、女性は恣意的なジェンダーロールによって「主体性を奪われ混乱させられ」てきた、などなどとウルフは述べている [15]原注:Ibid, 6.。 。要するに、女性は合理的に行為していないのだ。なぜ女性はそんなにも愚かな行動をとるのだろうか? 答えは、イデオロギーである。「女性が”非常に愚か”なのは、女性は”非常に愚か”だしそのままであるべきだという美容産業の決めつけを、エスタブリッシュメントとその番犬たちが共有しているからである」 [16]原注:Ibid, 87. … Continue reading

しかし、誰もが何百回もこの批判を耳にしてきたのに何も変わらなかったという事実それ自体が、この問題は集合行為問題であって、イデオロギーの問題ではないことを示唆している。このことは、美容の問題では見落とされがちだ。なぜなら、〔美容に関するフェミニズムの〕研究は、美の基準を設定する際に理想像や模範の果たす役割に注目する傾向があるからだ。結果、こうした研究は、美は本来的に競争の構造を持っているという事実から目を背けさせる。美の基準は文化によって異なるが、どの文化もある種の美のヒエラルキーを持っている。人々は、このヒエラルキーにおけるポジションから、非常に大きな物質的・社会的アドバンテージを得るのである。ある意味で、美しい人々は、醜い人々が住んでいるのとは大きく異なる世界に住んでいる(高校生活での経験がどれほど異なるか、そして美しさがそれにどれくらい関係するか、考えてみよ)。伝統的な家父長制的結婚市場において、女性が自らの美しさから大きな物質的利益を得られるということは置いておいても、対面のインタラクションのレベルで、美しい人々はそれほど美しくない人よりも良い扱いを受けるという事実は厳として存在している。

人々は、美のヒエラルキーを数段のぼることで、QOL(生活の質)と物質的豊かさをともに高めることができる。ここまでくれば、美の「模範」モデルがミスリーディングなことが分かる。美による優位性は、絶対的な意味で美しい人にではなく、周りの人よりも相対的に美しい人にもたらされるのである。これが競争的な構造を生み出すのだ(美のヒエラルキーをのぼることは、他の誰かを蹴落とすことを意味する)。

人々が、先天的に与えられた資質を増強することができないなら〔つまり美しさを後天的に増すことができないなら〕、こうした問題は全く生じないだろう。不幸なことに、美容や美容整形によって、美しいと見なされる特徴は人工的に再生産できる。そのため、人々はお金で美のヒエラルキーをのぼることができる。これは典型的な集合行為問題を生み出す。しわ取りの例を考えてみよう。多くの女性は、人工的な手段で自分を若く見せようとする。不幸なことに、人の外見的な年齢は、完全に相対的なものだ。ある女性が「50歳に見えた」なら、それは単に、他の50歳の女性と比べて、彼女が同じくらいに見えるからである。そのため、50歳の女性が40歳に見えるようになる美容手術を行うという事態は2つの仕方で記述できる。彼女は自身を若く見えるようにしたとも言えるし、周囲の50歳を老けて見えるようにしただけとも言えるのだ。そして周囲の女性は、自らの〔50歳に見える容姿という〕ポジションを維持するためだけに美容手術を行うよう動機づけられるかもしれない。これによって全ての50歳の女性が手術を行うことになれば、彼女らの行動は完全に自己破滅的なものとなる。皆して、最初の地点と全く同じところに逆戻りしてしまうのだ。つまり、全員が50歳の女性にしか見えなくなる。変わったのは、彼女らがその見た目を手に入れるのにたくさんのお金を払ったということだけだ。

このダイナミクスは、(カリフォルニアの住人なら誰でも知っているように)他の多く領域でも明らかに働いている。女性の多くは、自分以外の全ての女性も化粧を止めるならば、喜んで化粧を止めるだろう。他の女性が化粧をし続けるなら、化粧するのを止めようとはしない。なぜなら、そうしてしまえば私的なコストが私的な便益を上回ってしまうだろうからだ。これは、野球場の観客席で、試合の様子をよく見ようと席から立ち上がるのに似ている。自分は試合の様子がよく見えるようになるかもしれないが、それは後ろの人の視界を遮ることになってしまう。結果、1人が立ち上がれば、すぐに全員が立ち上がることになる。当然、全員が座ればより快適になるだろうし、試合の様子も〔立ち上がっているときと〕全く同じくらいよく見える。しかし、全員が立ち続けている時に、1人で座ることは選択肢とはならない。

女性はこの種の集合行為問題にハマっているのに、なぜ男性はハマっていないのだろう? 美容業界はよく、男性に「新しい」身体意識が広まっているという喜ばしいニュースを発表している。美容業界は明らかに、男性が女性と同様の美の競争に参入し始めることを望んでいるのだ。結局、あらゆる軍拡競争は、武器商人にとって莫大な利益となる。しかし今のところ、そうした競争は起こっていない。私の見解では、男性にはこうしたことを忌避する社会規範があるからである。美容品の使用は、男性の間では女々しさの表れとしてスティグマを貼られる。この規範の力の大部分は、男性のホモフォビア〔同性愛嫌悪〕から生じている。このことは、ゲイの男性の間での美の競争がヘテロセクシュアルの間での競争よりはるかに激しく、ゲイコミュニティ内での批判者がいつも、〔ゲイの男性が〕この競争のゲームに参加するためだけにジムで無駄な時間を費やしていることや、ゲイコミュニティで育まれる身体イメージのカルト性を嘆いているという事実に現れている。

3 信頼

集合行為問題は、個人がいかにして、自身の属する集団の利益に反する行為を行いうるのか、の一例である。個人がそうした行為を行うのは、その行為が自己利益に適うからである。より微妙なタイプの問題は、対人関係を安定させる上で信頼が果たす役割に関係している。集合行為問題では、人々が道具的に行為することで問題にはまる。集団が大規模なために個々人の行為が部分的にしか観察できない場合や、匿名的であるために個々人が相互に行為を調整するためのコミュニケーションをとる機会を欠いている場合、インタラクションのあり方は集合行為問題となりがちである。一方で、小規模な集団や対面のインタラクションでは、人々の行動は社会規範に厳しく制約されがちであり、それゆえ純粋な道具的熟慮を行う可能性は低くなる。そうした状況では、解決しがたい集合行為問題は生じにくい。しかし、インタラクションが規範に制約されるという事実は、個人が、自らにとって明らかに不公平な規範を尊重し、強制すらするかもしれないという、新たなタイプの「ねじれた」行動パターンを生み出すかもしれない。それゆえ、個人は自らを抑圧する制度の再生産に積極的に取り組みすらするだろう。このときの問題は、なぜ個人は進んでそうしたことを行うのか、ということである。

この問題は、特に女性器切除(FGM)のような極端に攻撃的な慣習が、その慣習の被害者によって再生産されることがよくあるため、近年ますます切迫したものとなっている。この慣習は明らかに家父長制の権威を保持するために作られているにもかかわらず、母が娘に対して行うことが多いとする様々な証拠が存在している。ここでも、(そうした女性は男性によって洗脳されている、といった)なんらかのイデオロギーが働いていると考えたくなる。〔そして〕イデオロギーを原因と見なす議論は予想通り反発を生み、慣習に加担している女性は完全に理性的かつ自覚的で、この慣習を正当化する根拠をスラスラと並べ立てられる、という指摘がなされてきた。リベラルの中には、単に西洋の批判者たちがそうした慣習に対してとってきたパターナリスティックな口調が気に入らないという理由だけで、慣習を擁護するスタンスを取ってきた者すらいる [17]原注:Yael Tamir, “Hands off Clitoridectomy,” Boston Review 21/3 (1996).を参照。

安定した協力実践の維持方法に注目すれば、不公正な制度が再生産されるメカニズムを明らかにすることができる。社会規範が特定の行為パターンを直接的に規定することで、主体は純粋な戦略的インタラクションの均衡では実現できないだろう結果を実現することができる [18]原注:この主張は、Joseph Heath, “Foundationalism and Practical Rea son,” Mind 106 (1997): 451–473. で擁護している。 。それゆえ、集合行為問題にはまった主体は、将来時点の自分たちの行動を制約するルールに合意するかもしれない。例えば囚人のジレンマにおける囚人は、互いを警察に売らないと約束するか、黙秘のルールを持った犯罪シンジケートのメンバーになるかもしれない。この種の規範は、それぞれの囚人に、最善でない均衡をもたらすような行為を行わない理由を与える。しかし、囚人が個別に、そうした理由が自らを動機づけるものだと判断したとしても、それだけでは協力を維持するには不十分なままである。両者は、相手もその理由に動機づけられ、それゆえ協力するだろうと信じなければならない。この規範同調的な性向は、両者の共有知識となっていなければならない。もっと端的に、囚人は互いを信頼しなければならない、と言えるだろう。

残念ながら、自らが規範同調的な性向を持っていると〔他者に〕示すのは難しい。自分がどれだけ約束を守るつもりだと言ったとしても、実際に行為することなしに、それを証明することはできない。そのため人は、互恵的な協力を行う機会があるのに、互いが信頼できるかどうか確信を持てない状況へと頻繁に陥る。搾取されたときのコストが非常に高く、協力の利得がリスクに見合わない場合は特に問題となる。そうした状況での標準的な戦略の1つは、信頼を「積み重ねる」ことである。人はまず、裏切りの機会が存在するが、搾取されたときのコストが非常に低い共同プロジェクトに取り組む。もし誰もこの状況を〔搾取に〕利用しなければ、人はより重要な物事についても互いを信頼しようとするかもしれない。最終的に、人の将来の裏切りが過去の行動と不整合になる(つまり、互いに「あいつが自分を裏切る気だったなら、とっくに裏切っていただろう」と言える)レベルに到達する。

そのため、互いをよく知らない人同士が信頼を築く際には、些細で象徴的なジェスチャーが重要な役割を果たすことがよくある。テーブルマナーは、この良い例である。テーブルマナーは、それ自体非常に重要なわけではないが、個人はテーブルマナーを利用して自らの自己制約能力を証明できる。例えば、他の人の料理が来るまで食べ始めるのを待つというのは、その人が自らの欲求を抽象的な社会的ルールの要求に従わせることができることを示す。このことは、周りの人に、自分はルールに従って行動できるし、そうする意思があるということを伝達する。これは、その人がより重要な社会規範も守る可能性が高いことを示すので、他の人を安心させる効果を持つ。テーブルマナーを守ることで、自分が突飛なことをしでかしたり、他の人を不愉快にさせたり、他の人を利用するつもりがないことが周りに伝わるのだ。

こうした象徴的な慣習の積み重ねが、「普通に」行為するとはどういうことかを定義する。そのため、「普通であること」、「通常であること」は、個人の積極的な努力によって実現される、規範的な達成である。異常なふるまいをする人は、〔行為が〕予測不可能であるだけでなく、信頼にも値しなくなる。それゆえ安定的な協力は、テレンス・ケリーが言うように、主体に「普通であること」を要請する [19]原注:Terrence M. Kelly, “Rationality, Reflexivity and Agency in the Critique of Every day Life” (unpublished Ph.D. diss., St. Louis University, … Continue reading 。互いによく知らない人々の間で高度な信頼が必要な状況において、普通であることの要請は強くなる。そのため、こうした状況では、外観や礼儀作法が過度なまでに標準化されがちとなる(ケリーはこれを「超規範化hypernormalization」と呼んでいる)。例えば診療室は、栄養素のポスター、白衣、視力検査表、パステルカラーの壁などの一般的な装飾からなっているが、これは「診療室」とすぐに認識できるような環境に患者を置くためだ。「診療室」がどのような見た目をしているかは誰もが知っている。このパターンからの逸脱は、何か「尋常でない」ことを示し、患者はすぐに医師に疑念を抱く。

なので、主体が自らの信頼性を確立したいときの最善の方法は、「普通であること」である。人は様々な理由で信頼されたいと思っている。一つには、信頼できる人間であれば、相互に莫大な利益をもたらし得る協力に参加する機会が与えられるからだ。しかし多くの人は、「普通であること」を直接的な道徳的義務として経験している。普通であることは、他の人を安心させ、心地よくさせ、気楽にさせ、ガードを下げさせる、などなど。ルールに従うことで、他の人に安心感が与えられる。一方でルールに違反すれば、即座にその人の動機について疑問が生じる。その人がルールを破ったのは、ルールに対するなんらかの原理的な反対意見を持っているからなのか、自らの自己利益を合理化しているからなのか、反社会的傾向に従って行動しているからなのか、を判別する術を人々は持っていない。そのため、特定の社会規範を理論的に批判することと、実際にその規範に違反することとは、全く異なる行為となる。人々はその社会規範が自らにとって不公平で、搾取的であることなどに同意するかもしれない。しかし、こうした意見に従ってルールに違反すると、個人的、あるいは道具主義的な観点から見て非常に有益な社会関係が犠牲となってしまうかもしれない。結果、特定の社会規範を否定し、それが自分たちや他の社会グループを不公平に扱っていると認識した人でさえ、それに「従って行為する」ことを選ぶかもしれない。

道具的な観点からすると、普通であることのメリットは、協力の機会を与えることである。〔普通であるようにふるまえば〕他の人は自分を「ことを荒立てる」のを好む人ではなく、「チームプレイヤー」として扱うだろう。極端なケースでは、ルールに従わない人はグループやコミュニティから追放されるだろう(「割礼」が規範となっている社会で、割礼を受けてない女性にもこれが当てはまる。そうした女性は、結婚できないことが多い)。信頼を保持することには、もう少し間接的なメリットもある。例えば、「仕事話」に参加することは、キャリアを前進させたいと考えている人からすれば非常に有益だ。しかし、男性優位な企業において、一般化している慣習や企業文化に露骨に異議申し立てをする女性は、男性の同僚との仕事話から排除されがちになるだろう。これは、露骨な村八分という形を取るとは限らない。仕事話は、廊下でのんびりしたり、ホテルのバーでくつろいでいたりするときなど、人々がリラックスしているときに行われる。男性は、自身の発言が例えばセクシュアル・ハラスメントの訴えで女性の同僚に「利用」されるかもしれないと思えば、彼女との会話でリラックスしなくなるだろう。そうした事態が自らを不利な立場に置くと理解している女性は、卑猥な言葉や性差別的な言葉を意図的に用いて、そうしたことを言っても自分は非難しないと周りの男性にシグナルを出すことが多い。女性は、自身のジェンダーを貶めるような企業文化のルールに順応することで、自らを「男子の一員」として証明できる。そうすれば、同僚からの信頼を獲得するのに役立つかもしれないからだ。

「普通であること」のもう1つの大きなメリットは、周りの人の不安感を軽減できることだ。ルールに不満を持つ人は多いにもかかわらず、ほとんどの人は規範によって制御されていないインタラクションを非常に煩わしく感じる。残念ながら、特定のルールに異議が突きつけられたとき、それに置き換わる新しいルールがすぐに生じることは稀である。人々が新しいパターンに慣れ始める(新しいパターンが「普通に」なる)までには、大抵たくさんの交渉と、長い時間がかかる。新しいパターンがどんなものであるべきかについて普遍的な合意に至っていない場合(ほとんどの場合がそうである)、新しいルールの確立までには長い時間がかかるかもしれない。その間、人々はアドホックな(その場しのぎの)インタラクションをやり抜かなければならない状況に置かれ、「期待の安定」という恩恵が得られなくなる。こうした状況では、ほとんどの人は張り詰めた緊張までは感じないにしても、少なくとも大変な煩わしさを感じるだろう。これによって、誰も相手が適切と考えている行為を正確に判別できなくなり、相手が期待に応じたり応じなかったりすることで「なんらかのメッセージを伝え」ようとしているのかを見分けられなくなるので、多くの誤解の余地が生まれてしまう。規範によって制御されていないインタラクションは、〔相手の行為から心を〕解釈する努力を要求し、それゆえたくさんの時間と注意力を要するが、それらはどちらも本来的に希少な資源である。

結果、人は、既存の制度上の取り決めから具体的な利益も得ていなくても、ルールに異議申し立てする人を腹立たしく感じがちになる。人は、確立した制度上の取り決めがただ単に存在しているだけで、利益を得られるからだ。安定した期待を持てば、人は細かいことについて気にせずに「やっていける」ようになる。これは、インタラクションのパターンを問題視することへの内在的な反発を生じさせ、社会変革をもたらそうとする試みにつきまとう特有の「バックラッシュ」現象をもたらすかもしれない。古いルールが信頼を失っても、新しいルールがそれに置き換わるのに十分なほど素早く生じなければ、人々は古いルールに戻り始めるかもしれない。悪いルールでも、ないよりもあった方がましだからだ。

『THE RULES』という、内容にふさわしいタイトルを持つ本を巡って起こった議論を例に考えてみよう [20]原注:エレン・ファイン、シェリー・シュナイダー『THE RULES 理想の男性と結婚するための35の法則』と、その続編、『THE … Continue reading 。この本は、女性読者に向けて、交際、デート、結婚においてとるべき行動を示したルールのハンドブックである。多くの社会評論家が、本書の圧倒的な人気ぶりと、そこに書かれているルールの時代錯誤ぶりに動揺した。この本に載っているルールは基本的に、「追われる女になる」ため、また男性に食事を奢らせるために、女性に伝統的・受動的な役割を勧めている。しかし、こうしたルールが人気なのは、誰もがそれを魅力的だと思っているからではなく、ルールはあった方がないよりまし、という単純な理由からだった。1960年代から70年代にかけて生じた性革命は、伝統的な関係性のプロトコルの全てを打ち壊すのにかなりの成功を収めた一方で、新しいルールを生み出すことができなかった。新しいルールの不在は自由も生み出したが、それよりもはるかに多くの不安を生み出した。それゆえ、性革命によって1970年代後半から80年代に成人した世代は大きな不便を被ることになり、その世代の多くは、難しい性的成熟の移行を導く指針となるような文化規範なしに放っておかれた [21] … Continue reading

こうした例は、人々が自身の支持していないルールに従うことを選択し、究極的には自らの「不利益」になるような慣習を再生産する可能性があることを示している。実のところ、協力は大きなメリットを与えるので、自分にとって不利な条件での協力は、全くもって協力しないことよりも好まれることが多いのだ。更に、社会制度を変革する試みは、協力やコーディネーションの失敗をもたらすアノミー状態を生じさせるかもしれない。個人は、代替的な制度が実現しなかったというそれだけの理由で、元の社会的慣習を保持したり、信用を失った慣習を復活させようとしたりする可能性がある。繰り返すが、なんのルールもない状態より、悪いルールがある方がましなことが多いのである。最後に、個人がインタラクトする相手の快適さの水準のありようになんらかの責任を感じるようになることは、あらゆる社会化実践において重要な構成用途となっている。固定化された社会的慣習に反対すれば、インタラクトする相手は、不安、緊張、誤解、そして敵対心さえ抱くかもしれない。規範への違反によって他人(当人にとって重要な人間も含む)に不快感をもたらせば、〔規範に違反することで不公正な社会的慣習を変革するという〕広い社会的目的は、単に「実行に値しない」と主体は判断しがちになるだろう。

4 適応的選好

最後の、そして恐らく最も厄介な問題は、社会理論家によって「適応的選好」と呼ばれる現象に関連している。ほとんどの人の目標や欲求は、社会環境に強く影響される。最も一般的な理由は、欲求が命題的態度であり、それゆえ人の持てる欲求の範囲は、そうした欲求が表現される語彙と本質的に結びついているというものだ [22]原注:Charles Taylor, “Interpretation and the Sciences of Man,” Philosophy and the Human Sciences: Philosophical Papers 2 (Cambridge: Cambridge University Press, 1985), 15-57.を参照。 。同様に、私たちが実現可能だと想像する成果の範囲は、文化によって与えられる理想、役割、シナリオによって構成されている。文化は、私たちの立てる人生計画の外枠を設定する。そのため、私たちが欲するものの種類は、周りの人々が欲したり、自身に欲するように促したりするものに強く影響される。

こうした選好の「社会的構築」が、インタラクションによってある主体が不適切な影響力を行使できる状況を作り出してしまうと考えられることがある。例えば批評家はよく、広告産業が消費者に「本物でない」欲求を植え付けることで、企業は消費者に「本当は欲していない」商品を売りつけられるのだ、という批判を行う。しかし、この種の批判は慎重に行うべきだ。この議論は、本質的にパターナリスティックな構造(人は、自身のニーズの最適な判断者ではないという暗黙の主張)を持っていることは別にしても、「ほんものの欲求」と「偽物の欲求」という全く不明瞭な区別を根拠としている。最も原始的な身体的衝動を超えたあらゆる欲求は社会的に構築されたものであり、よって特定の欲求を「ほんもの」でないとすることはできない。シングル・モルトのスコッチを飲んで19世紀のロシア文学を読みたいという欲求は、バドワイザーを飲んでナイキのシューズを履きたいという欲求と全く同じくらい人工的である。こうした「文化批評」を名乗って流布している議論のほとんどは、単なる階級差異化の表現でしかない [23]原注:ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン』を参照。 。批判的社会理論が選好に関心を寄せるなら、選好をもっと理論的に洗練されたレベルで扱わねばならない。

「適応的選好」への懸念で指摘されているのは、選好は文化に内在的なだけでなく、意思にも左右される(ambition-sensitive)という端的な事実である。人は、後でガッカリしないために、大抵「穏当な」あるいは「現実的な」期待を抱こうとする。特に、親は子どもに、実現する可能性のあるような欲求を育むよう(つまり、目線は高く、しかし高すぎないように)促す。そのため、人の欲求や目標は、当人や他者がその状況において達成可能、あるいは合理的に考えて達成可能と期待できると見なすものに制約されるのが普通だ。結果、不利な境遇の出身者の多くは、期待を下方に適応させる [24]原注:Jon Elster, Ulysses and the Sirens (Cambridge: Cambridge University Press, 1979).を参照。 G. A. Cohen, “Equality of What? On Welfare, Goods, and Capabili ties,” in The Quality of … Continue reading 。そうした人々は、合理的に考えて多くを期待できないために、多くを望まない。

この種の〔不利な境遇の出身者による下方適応的〕選好の問題は、不平等や差別の影響を(〔社会階層の〕上昇を阻む制度的障壁が取り除かれた後でさえ)再生産してしまうことだ。特定の社会集団の第一世代が、特定の役割を担ったり、特定の活動に従事するように強制されていたとする。すると後続世代は、単純に第一世代が担った役割を好むようになり、その役割を担い続けるかもしれない。特に、親は子どものロールモデルになりがちなので、子どもは自らの意欲や期待を、親が送ってきたような人生に基づいて決めるかもしれない。自身の母親への尊敬の念や、人生における価値は伝統的なジェンダーロールの遂行と結びついているとの認識から、家父長的な家族構造を再生産しようとする女性、といった事例にもこれは当てはまる。

下方に適応した選好の2つ目の重要な帰結は、不利なグループのメンバーが〔交渉において〕あまりに簡単に満足してしまうようになるかもしれないことである。人は一般に、交渉の場において、交渉を通じて初期の要求を低下させなくてはならなくなるだろうと予測し、最初の時点では高い要求を提示する。最初の時点で非常に高い要求を行うことは、譲歩の余地を広くする得策なのである。しかし、最初の要求を不当なほど高くしてはいけないというのも非常に重要である。不当なほど高い要求はほとんどの場合、自分に誠実さや真剣さが欠けていることのシグナルとなるからだ。結果、もともと低い期待しか持っていない人は、他の人が受け入れるであろうよりはるかに低いレベルの要求から交渉を始めるかもしれない(例えば、ほとんど就労経験のない人は、非常に低い給料しか要求しない)。そうした人は結局、最初からもっと高い期待を持っていた人が獲得できた利得よりはるかに低い利得を受け取ることになる。また、自らの要求をあまりに簡単に諦めてしまうかもしれない。並外れた特権意識は、上流階級の特徴の1つとして広く知られている。例えば、富裕層がハイレベルなサービスを受けることが多いのは、それを要求するほどの厚かましさを持っているのが富裕層だけだからである。結果、社会的不平等は、人々が過去のそうした不平等に対応して期待を適応させるだけで、将来も継続していってしまうかもしれない。

適応的選好のもう1つの大きな問題は、個人が特定の社会的役割から抜け出そうとする際に、その役割から付随的に派生した選好パターンの一部を捨てるつもりがなかったり、捨てるのが困難だったりするときに生じる。これは、部分的な適応的選好の問題と言えるだろう。典型的なのは、個人が特定の社会的役割を担いたくないと決心しているが、その社会的役割に付随的に派生した選好は保持しているケースである。軽度のケースでは、個人に厚生損失がもたらされるだけかもしれない。極端なケースでは、実際に個人を、当人が望んでもいない社会的役割に引きずり戻す効果を持つだろう。

女性が労働市場に参加するために行わなければならない様々な調整は、この例である。働く女性の「セカンドシフト」〔共働き夫婦の妻が家事や育児という「第2の勤務」に追われている状態〕には、大きな関心が寄せられてきた [25]原注:アーリー・ホックシールド『セカンドシフト』を参照。 。「セカンドシフト」は、伝統的なジェンダー規範によって特定の仕事が「女性の仕事」と定められたことで、家庭内労働の多くが女性の役割と規定された事実によって説明されると、多くの場合考えられている。しかしこの説明は、カップルが盲目に、文化によって割り当てられた役割に「従って行為する」ことを前提にしている。しかし、ほとんどのカップルの関係において、家事労働の分担は大きな対立の原因である。カップルは、ある標準的なルールに「従って行為する」というより、戦略的行為と交渉の組み合わせを通じて長期的な均衡を作り上げていくのが普通だ。近年のフェミニズム理論家の中には、セカンドシフトを説明する要因の一部は、女性自身の選好が、交渉プロセスにおいて自らを不利にすることがあることにある、と論じてきた者もいる [26]原注:Rhona Mahoney, Kidding Ourselves (New York: Basic Books, 1995). を参照。

例えば、家の清潔さの問題を考えよう。理由はどうあれ、男性は不潔なものに対して女性よりもはるかに許容度が高いことが多い。そして、最も長く「我慢」できるプレイヤーが、他のプレイヤーに対して戦略的優位性を持つというのは、交渉状況の一般的な特徴である。

部屋が散らかっていて掃除しなければならず、誰が掃除すべきかについて安定した合意がないとき、必然的に利害の対立が生じる。1人が掃除を全て行えば、結果両者がキレイな家に住める満足を享受するとしよう。このフリーライダーのインセンティブのために、どちらも掃除は相手が行うだろうと期待するから、即座に掃除を行おうとはしないだろう。しかし、家がますます散らかっていくにつれて、〔相手が掃除するのを待つという〕交渉スタンスをとるコストも高まっていく。最終的に、どちらかが「折れて」、掃除を行うだろう。先に折れるのは一般に、部屋の散らかりからより大きな厚生損失を被る方だろう。これは大抵女性であるため、男性はヘテロセクシュアルな関係において、掃除になると強い交渉ポジションに立つことが多い。どちらも、消耗戦になれば、男性の方が〔部屋の散らかりによる〕心理的コストが低く、長く持ちこたえられるだろうと知っているからだ。

こうした男女差が生じる理由の一端は、女性自身の価値観に関係している。女性がフルタイムの家事労働に従事することを期待されていた時代、女性の社会的ステータスは、家庭をいかに切り盛りするか(特に、どれだけ清潔に保っているか)と密接につながっていた。汚い家は、夫ではなく妻の不名誉となった。今や女性の多くが明示的にこの〔家事への〕社会的役割の放棄を宣言しているにもかかわらず、このことは多くの女性に家事への責任を感じさせている。例えば、フルタイムで働く女性の多くは掃除サービスを利用している。にもかかわらず、掃除サービスが到着する前に女性が家を「あらかじめ掃除する」ことは珍しくない(この義務感は大抵の男性を当惑させる)。これは、個人が、はっきりと特定の社会的役割を放棄すると宣言したにもかかわらず、その放棄に完全には適応してないかもしれない例である。

不適切な適応的選好は、予期せぬ結果をもたらすことがある。例えば、伝統的な家父長制的「結婚市場」では、女性の資産はなによりも美しさであり、一方男性にとっての資産は富であった。多くの人は、結婚を自らの社会的ステータスを上げる手段と見なしている。これは、男性の間では美しい女性を巡る激しい競争を、女性の間では、たくさんの富を持っていたり、たくさん稼ぐポテンシャルを持っていたりする男性を巡る競争を意味してきた。多くの女性が労働力に参入しているにもかかわらず、この選好パターンが残存していることを示すエビデンスがある。例えば、スタンフォード大学のMBA取得者を対象にした調査では、男性のMBA取得者は平均で144,461ドルの給料を稼いでいる一方、女性のMBA取得者は101,204ドルしか稼いでいないことが明らかになっている。ここに、典型的な所得の「ジェンダーギャップ」が見て取れる。しかし、更に驚くべきは、配偶者の所得におけるギャップである。女性のMBA取得者の夫は、平均120,124ドル稼いでいるが、男性のMBA取得者の妻は、平均30,323ドルしか稼いでいない [27]原注:更なる議論については、Mahoney, 143-145.を参照。 。ここから読み取れるメッセージはかなり明白である。調査対象となった女性のMBA取得者のほとんどは、非常に高い給料を稼いでいるにもかかわらず、依然として、自身の稼ぎよりも多くの収入を稼いでいる男性との結婚を選択しているのだ。

このタイプの結婚パターンを完全に説明するには、当然ながら込み入った複雑な要因(ジェンダーギャップや、女性が自分よりも年齢の高い男性と結婚しがちであるという事実も含むだろう)を考慮しなければならない。しかし、ローナ・マホニーによると、考慮しなければならない重要な要因の1つは、単純に女性自身の選好である。

私は、意欲に満ちた女性の多くが、働きがいのある分野で一生懸命働くことの価値を強く信じているために、もっとゆるい働き方をする男性が二流に見えるのではないかと疑っている。所得の少ない男性は、コミュニティー・オーガナイザーだったり売れない作家だったりするために、怠惰で信用ならないとすら思われているかもしれない。例えば、63人の女性のキャリアと結婚についての意思決定を調査したある研究では、ほとんどの女性が、主夫と結婚することに興味はないと語っている。賃労働に身をささげていた女性は、同じように賃労働に身をささげていた男性を欲するのだ。 [28]原注:Ibid., 146. 言及されている研究は、Kathleen Gerson, Hard Choices: How Women Decide about Work, Career, and Motherhood (Berkeley: University of California Press, 1985). から。

この選好構造が生じると、予期せざる帰結が生み出される可能性がある。キャリアを持った女性は、主婦となるのを避けるためになんらかの回避行動をとらなければならないが、家事労働を低く見積もる価値観から逃れるのは難しい。結果、彼女らは、自分が尊敬できる人生を選択した人と結婚するのを望むため、主夫と結婚したがらない。しかし、自分よりもお金を稼いでいる人と結婚するというのは、自分より力を持った人と結婚することに等しい。この種の力の非対称性は、関係性が何年か進展するまで、明らかにならないかもしれない。例えば、子育てが家事の時間を圧迫し始めると、労働時間を減らす可能性が高いのは、給料が低い方である。結果、「責任の重い」キャリアを持つ男性への選好を示す女性は、しばしば自身の意欲に完全に適応してない選好構造を持つことになる。

ここでの根底にある現象は、社会変革は非常に複雑になることが多いという事実の単なる反映である。社会的慣習は、行動と選好の広大なネットワークに支えられており、ある特定の慣習が再生産されるにあたって、ネットワークがどのような機能的な関係性を持つかを事前に見定めるのは非常に困難かもしれない。これは、慣習を変えるには、人々の想定をはるかに超えた、大規模な個人の選好の改変を伴う可能性があることを意味している。そのため、社会的慣習は、表立ってはほとんど支持されていないにもかかわらず、存続することがある。なぜなら、個人が執着し続けている選好や行動パターンが、その社会的慣習を間接的に下支えしていたり、長期的な観点でないと気づけないような帰結をつうじて慣習を再生産しているかもしれないからだ。

本稿全体の目的は、なぜ個人が自らの利益に反する行為を行うのかを考察することにある。適応的選好の問題は、人が、ある意味で自らの利益に反する利益を持っているときに生じる。しかし、この問題への批判的分析を進めるにあたって、個人の「真の」利益を外部から判定するような概念を提唱してしまう誘惑には抵抗してきた。この種の独断は、認識論的に疑わしいのは言うまでもないが、今では完全に信用を失っている。私は、個人の持つある選好が、個人の持つ他の選好と緊張関係にあるような場合や(部分的な適応)、選好が他者の選好とインタラクトすることで、総体で低いレベルの選好充足となる場合(下方への適応)に焦点を当ててきた。これらの批判的戦略はどちらも、主体による選好の自己理解に見直しを迫らなくてよいし、主体が自身の「真」の利益を認識し損なっているために、ある種の不合理な状態にあるという主張を行う必要もない。

5 結論

本稿の明確な目標は、社会批評家のイデオロギー概念への執着を引きはがすことであった。〔イデオロギー概念に執着することの〕主な懸念は、批判理論家が対象に〔「真の利益」の認識に失敗しているとして〕過剰に手厳しい態度をとることで、自らの見解の信頼性を損なう傾向にあったことだ。しかし、背景にはもう1つの懸念がある。多くの社会批評家は、ある種の暗黙の文化決定論に屈しているのである。これは、「社会的慣習が人々の価値観に直接的に影響を与える」とか、「社会的慣習が、人々のなすべき行為についての信念を映し出している」、といった仮定として広く観察される。もしこの仮定が正しければ、社会制度の変革にとって重要なのは、言うまでもなく人々の価値観や信念を変えることだ。残念ながら、文化システムによって直接的に「パターン化」されている社会的慣習も存在するとはいえ、〔文化的規範による〕制約が非常に緩い戦略的行為を通じて再生産される社会的慣習の方がはるかに多い。こうしたインタラクションは間接的にしか統合されていないので、それがもたらす帰結は特定の価値観や信念をなんら反映していないかもしれない。この場合、社会批判だけでは事態を全く変化させられないだろう。

批判理論にとってより深刻な問題は、次のような形で持ち上がる。批判を提示し、それが社会に広く受容されると、批判家はある種の社会変化が見られることを期待する。そしていかなる社会変化も見られないと、批判家は、望ましい改善の実施を妨げる実践的な問題があるのかもしれないとは考えずに、批判自体があまりに表面的で、問題の根底に至れていなかったのではないかと疑い始めるのだ。「イデオロギーは当初の想定よりも深く浸透していたに違いない。当初の批判は、一般に流通している概念を使っていたため、恐らくイデオロギーのシステムに加担してしまっており、ラディカルさが足りなかったのだ。解決策は、既存の概念を脱構築し、根本的に新しい概念を立ち上げることなのではないか」、と。

この種の考え方が採用されてしまうと、批判理論はますます歪み、ますます曖昧化し、そしてもちろん、ますます何かを変革する見込みはなくなっていく。これは、理論の自己過激化(self-radicalization)の悪循環を生み出すかもしれない。つまり批判家は、理論と現実とが乖離していくのに対処するため、更にラディカルな理論を構築し、使っている概念装置を日常生活での関心や語彙から更にかけ離れたものにしてしまうのだ。本稿の目的は、批判理論家が、理解するのにコストのかかる〔現実から遊離した〕議論を提示して人々から相手にされなくなくなるのを回避し、有益な社会批判を行う1つの方法を示すことにある。社会的インタラクションの構造や、望ましくないインタラクションのパターンが再生産される実践的構造に注意を払えば、より有益な理論的介入を行えるだろう。

Joseph Heath, “Problems in the theory of ideology,” in Plurasim and Pragmatic Turn, ed. William Rehg and James Bohman, MIT press, October 1, 2001.

References

References
1 原注:ルートヴィヒ・フォイエルバッハは『キリスト教の本質』で「理性に対するあらゆる制限、あるいは一般に、人間の本質は、間違いや誤りにある」と述べる。カール・マルクスも『ドイツ・イデオロギー』で「あらゆるイデオロギーにおいて、人間とその状況は、カメラ・オブスキュラにおけるように逆さまに見える」と述べている。
2 訳注:ポストコロニアル研究などで用いられる、従属的な立場に置かれた人々を指す用語で、特に先住民や奴隷などを指す。
3 原注:ドナルド・デイヴィッドソン「概念枠という考えそれ自体について」
4 原注:リュシアン・レヴィ=ブリュール『未開社会の思惟』
5 訳注:イデオロギーに訴えない議論は、人々に多くの誤りを帰属させないため、デイヴィッドソン的な観点から見てより妥当ということになる、との意と思われる。
6 原注:例えばジグムント・フロイトは『幻想の未来』で次のように語る。「それゆえ、宗教は人類に普遍的に見られる神経症だろう」。
7 原注:カール・マンハイム『イデオロギーとユートピア』
8 原注:フロイトのサークルでは、理論的論争を行う際、相手が自分の意見に同意しない動機を分析することもしばしばだった。Peter Gay, Freud: A Life for Our Time (New York: W.W. Norton, 1988). を参照。
9 原注:この数値はEdward E. Zajac, The Political Economy of Fairness (Cambridge: MIT Press, 1995), 29.を参考にした。
10 原注:Allen Buchanan, “Revolutionary Motivation and Rationality,” in Marx, Justice and History, ed. M. Cohen , T. Nagel, and T. Scanlon (Princeton: Princeton Univer sity Press, 1979), 264–287. を参照。
11 原注:マンサー・オルソン『集合行為論』
12 原注:ナオミ・ウルフ『美の陰謀』
13 訳注:脳が処理できるよりも多くの情報を受け取ること。
14 原注:Ibid, p. 83.。
15 原注:Ibid, 6.。
16 原注:Ibid, 87. ここでウルフは、他の誰かのせいにするなら、人々を愚かだと言っても構わないという、20世紀の社会批評の奇妙な不文律の1つに従っている。
17 原注:Yael Tamir, “Hands off Clitoridectomy,” Boston Review 21/3 (1996).を参照。
18 原注:この主張は、Joseph Heath, “Foundationalism and Practical Rea son,” Mind 106 (1997): 451–473. で擁護している。
19 原注:Terrence M. Kelly, “Rationality, Reflexivity and Agency in the Critique of Every day Life” (unpublished Ph.D. diss., St. Louis University, 1998). ここでの議論の多くはケリーの分析に負っている。
20 原注:エレン・ファイン、シェリー・シュナイダー『THE RULES 理想の男性と結婚するための35の法則』と、その続編、『THE RULES〈2〉さらに愛されるための33の法則』を参照。
21 原注:映画「アイス・ストーム」はこの状況を印象的な形で表現している。これは、この世代の人間を特徴づける、しばしば顕著な「冷笑的」性格を動機づける要因の1つである。冷笑は、古いルールに対して、支持する態度を取らずに従うことを可能にする。
22 原注:Charles Taylor, “Interpretation and the Sciences of Man,” Philosophy and the Human Sciences: Philosophical Papers 2 (Cambridge: Cambridge University Press, 1985), 15-57.を参照。
23 原注:ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン』を参照。
24 原注:Jon Elster, Ulysses and the Sirens (Cambridge: Cambridge University Press, 1979).を参照。 G. A. Cohen, “Equality of What? On Welfare, Goods, and Capabili ties,” in The Quality of Life, ed. M. Nussbaum and A. Sen (Oxford: Clarendon Press, 1993), 9-29.  も参照。
25 原注:アーリー・ホックシールド『セカンドシフト』を参照。
26 原注:Rhona Mahoney, Kidding Ourselves (New York: Basic Books, 1995). を参照。
27 原注:更なる議論については、Mahoney, 143-145.を参照。
28 原注:Ibid., 146. 言及されている研究は、Kathleen Gerson, Hard Choices: How Women Decide about Work, Career, and Motherhood (Berkeley: University of California Press, 1985). から。
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