ブランコ・ミラノヴィッチ「公正な賃金システムはどんなものか?:資本主義、ジョン・ローマー、文化大革命」(2022年2月10日)

非常に左翼的なアプローチは、それよりもマイルドな左翼的アプローチに、少しだけ左翼性を足したものではない。実際はその正反対なのだ!

1990年代、ジョン・ローマーは、“Equality of opportunity”『機会の平等』(1999)という著書を発表し、その後の不平等研究で盛んに研究されるようになった「機会の不平等」という分野の土台を作った。ローマーの重要な洞察は、個人の所得に影響する要因を3つに分解したことだ。その3つの要因とは、「環境」(ジェンダー、人種、親の所得、教育など、当該個人にはコントロールできない外的な要因)、努力によるもの、「気まぐれな運」(episodic luck)によるもの、である。「気まぐれな運」というのはローマーの用語で、ようするに私(ミラノヴィッチ)が良い職に就けたのは、その職に募集がかかっていたタイミングでたまたま応じられたからに過ぎない、ということだ。

ローマーはこのアプローチに導かれて、非常にラディカルな賃金システムを提案するようになった。ジェンダーといった外的な特徴で区切られた2つの集団を考えてみよう。一方のグループ(男性)は身体が強い傾向にあり、1日に平均で10個の製品を生産できる。もう1つのグループ(女性)は身体が弱く、1日に平均で5個の製品しか生産できない。素朴すぎる「功績主義」(メリトクラティック)アプローチに従って、全員が自分の生産した製品の数に応じて賃金を受け取るようにすべきだろうか? そうすべきではない、とローマーは言う。賃金は自身の属するグループの平均と比較したときの、自身の寄与分に比例すべきだ、と。男性グループの平均値(10個)を20%上回る12個の製品を生産した男性と、女性グループ平均値(5個)を20%上回る6個の製品を生産した女性は、同じ賃金を受け取るべきだ。それは、両者が自身の努力(の差分)に応じて賃金を受け取るべきだからである。これは、一部の人を有利にしたり不利にしたりする生得的性質をコントロールする(賃金への影響を排除する)試みである。

別の事例を考えてみると、この提案がどれほどラディカルかが分かる。学生の成績評価を同じルールに従って決めるとしよう。例えば裕福な親を持つ学生の成績が、貧しい親を持つ学生よりも平均して高いなら、裕福な親を持つ子どもが12ポイントを得たとしても、貧しい親を持つ子どもが6ポイントを得た場合と同じ成績評価になるべきということになる、などなど…。

ところが最近、フェルプス・ブラウンの“The Inequality of pay”『賃金の不平等』(1977)を読んで、1960年代の文化大革命前後の時期に北京で採用されていた、ローマーの提示したものとはまた違う賃金スキームを知った。このスキームにおいて、男性はみな、男性が生産する製品数の平均値に応じた賃金を受け取り、女性もみな、女性が生産する製品数の平均値に応じた賃金を受け取っていた。ブラウンの文章を引用してみよう。

この話は、西洋の観察者からは矛盾に見えるであろう、中国の賃金体系を浮き彫りにしている。男性は〔身体的に〕強く、より多くの製品を生産するので、女性よりも高い賃金を支払われるのが正しくかつ適切であるとするなら、頑張って他の男性よりもたくさんの製品を生産した男性は、もっと高い賃金を支払われるべきではないのだろうか? 中国の答えは単純で、後者の格差的な賃金システムは自己利益に訴えかけるが、前者のシステムは自己利益に訴えかける可能性がない、というものだ。これは奇妙に見えるが、〔根底にある思考は〕分かりやすい。中国は、なされた仕事量に比例した〔一律の〕賃金を自然的正義の自明な原理と扱っていた一方、仕事量の差を労働者自身にコントロールできるものとは見なさず、差が生じるとしたら、それは労働者の悪意によるものだと見なしていたのだ。(p53。強調は筆者〔ミラノヴィッチ〕による)

読者は、ローマーの提案はなんとラディカルで左翼的なのかと思っていたかもしれないが、史上最もラディカルな左翼的社会実験を突然見せつけられることとなった。両者の賃金システムの根底にある原理は正反対なのだ! 両者にはなんの連続性もないように見える。非常に左翼的なアプローチは、それよりもマイルドな左翼的アプローチに、少しだけ左翼性を足したものではない。実際はその正反対なのだ!

これを理解するために、ローマーの議論を思い出そう。ローマーの議論では、個人が自身の「環境」に応じて賃金を受けることは望ましくなく、自身の努力のみに対して賃金を受け取ることが望ましいとされていた。中国の場合はこれが逆転しており、個人は自身の努力ではなく、環境のみに応じて賃金を受け取ることになる。なぜか? この哲学は、〔ローマーと〕全く異なっている。環境は「自然」であり、個人はそれに応じて賃金を受け取るべきだとされている。しかし、努力に対して賃金を支払うことは、人々が経済的インセンティブに反応することを意味しているから、道徳規範を侵食するものと見なされる。人々が働くのは、(リターンを期待せず)共同体に貢献したいから、あるいは働くのが好きだからでなくてはならない。こうした思想的背景の下では、「インセンティブ付与」(自己利益への訴えかけ)は悪いものと見なされる(〔ローマーの考えたような〕別の思想的背景において、自身が得るに値しない外的に与えられた有利さから個人が賃金を得るのが悪いとされたのと同様に)。

この中国のシステムは最終的に、個人の生産性を無視して、男性も女性も含め全員が平等な賃金を得るというものになった。これは、全員が単純に自分の生産した製品の個数に応じて賃金を受け取る「功績主義」的な報酬システムの反対側の極だろう。

どのやり方がベストなのだろう? 功績主義的な賃金システムは、誰もが自身の貢献に応じて賃金を受けるべきだという私たちの正義の感覚に応えている。このシステムは恐らく、最大のアウトプットをもたらすだろう。ローマーは、(人々が受け取る賃金の基準となるべき)差分的努力だけを取り出す形で、正義を再定義した。どれが「環境」に分類されるべき(つまり、賃金に影響を与えるべきでない)要因かを経験的に特定するのは、常に非常に難しい問題だろう。中国のシステムではそこに道徳的な要素が入っており、賃金によってインセンティブを与えるのは悪いこととされる。このシステムの欠点は、参加者の大多数がほとんど努力をしなくなる可能性が高いことだ。

賃金システムを設計する際、私たちは明らかに、正義や倫理の原理を指針としている。問題は、これらの原理が全て同じ解決策を導き出すわけではないことだ。本エントリで見てきたように、多くの場合、どのような指針的原理に依拠するのかによって、賃金構造は非常に異なるものとなるだろう。加えて私たちは、原則的に、賃金システムによる全体的なアウトプットへの影響も考慮に入れなければならない(もちろん、アウトプットの量を問題としないような哲学的原理を採用するなら話は別だが)。

付記:ジョン・ローマーは親切にもこのエントリにコメントしてくれてた。彼がハッキリさせておきたいと私に頼んだのは以下である。彼が、自身の原理を(本エントリで説明したように)直接に適用することを提唱したことはない(市場経済において実現可能だろうと考えたこともない)。彼が主張してきたのは、アファーマティブ・アクションのような政策は、環境による所得への影響を低減し排除することを目的に設計されるべき、ということである。

[Branko Milanovic, “What is the just pay?” Global Inequality and More 3.0, Feb 10, 2022]
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