ジョセフ・ヒース「戦争好きの諸類型」(2014年12月5日)

「西部戦線異状なし」や「ジョニーは戦場に行った」、「ブリキの太鼓」を読んで、「これはその通りだろうけど、それでも全般的に見ると戦争は良いものに思える」と考えるのはどんなタイプの若者なのだろう?

カナダの首相〔当時〕、スティーブン・ハーパーは戦争好き(warmonger)だ。読み間違いではない。うっかりrabble.ca〔カナダの左派系メディア〕に迷い込んでしまったのでもない。私はつまらないことを指摘してハーパーを貶めようとしているのではなく、単に事実を述べているだけだ。スティーブン・ハーパーは戦争支持者である。ハーパーは、戦争を実行に値するものだと考えている。戦争にはその害悪を埋め合わせる多くの長所がある、と彼は考えているのだ。

たくさんの論者がこのことを指摘してきた。なんだかんだ言っても、第一次世界大戦の開戦をわざわざ祝った政治家がどれくらいいただろうか? 「権利と自由に関するカナダ憲章」の採択よりも、米英戦争の方が記念すべき出来事だと考える人などいるだろうか? ハーパー政権は、誰も聞いたことがない交戦や戦闘の記念日を祝福する奇妙なプレスリリースをしょっちゅう出している(この方面でハーパー政権がとってきた突拍子もない政策の数々は、イアン・マッケイとジェイミー・スウィフトの著書『戦士の国:不安の時代にカナダを再ブランディングする』”Warrior Nation: Rebranding Canada in an Age of Anxiety“〔未邦訳〕で詳細に述べられている)。

アメリカ主導による対ISISの連合軍に参加するか否かを巡る最近の投票で、このことは前景化してきた。カナダは2003年、アメリカのイラク侵攻に協力しないことを選択した。ハーパーが今回の投票を、2003年の決定を「やり直す」待望の機会と捉えているのは明らかだ。ハーパーが2003年の時点で首相だったら、カナダがイラク侵攻に参加していたことは間違いない。いっそう驚かされるのは、イラク侵攻がどんなものだったのか明らかになっている現在ですら、ハーパーは依然として、カナダは侵攻軍に参加すべきだったと考えているようにしか見えないことだ。

とはいえハーパーはこれまでのところ、捉えどころのない行動をとり続けている。あるレベルでは、ハーパーは明らかに戦争好きで、カナダはもっと戦争に参加した方がいいと思っている。それでもハーパーは、なんとしてでもそれを現実にしたいと思っているようには見えない。この点で彼は奇妙なタイプの戦争好きだ。例えば、アメリカ共和党の右翼はウラジーミル・プーチンのような人間を不本意ながら尊敬しているが、ハーパーはそうした尊敬心を持っているように見えない。ウクライナ危機に対するハーパーの反応は、「これこそ巧みなゲームのやり方だ。見習わなくてはならない」というより、「オーマイガー、どうしてそんなことができるんだ?」というのに近い。

こうしたことを受けて私は、世の中にいる様々なタイプの戦争好きについて考えたくなった。つまり、「西部戦線異状なし」や「ジョニーは戦場に行った」、「ブリキの太鼓」を読んで、「これはその通りだろうけど、それでも全般的に見ると戦争は良いものに思える」と考えるのはどんなタイプの若者なのだろう? (個人的なことを言うと、アナンド・ゴパルの『生者の中に善人なし』”No Good Men Among the Living“〔未邦訳〕というとんでもない本をちょうど読み終えたところだ。この本を読んで、戦争はたくさんの人が殺される、ほとんど間違いなく最低最悪な状況(shitshow)だという全般的印象が強まった。ゴパルはアフガニスタンでのアメリカ兵の様子を描写している。アメリカ兵たちは、圧倒的な武力を持ちながら、その武力をどう利用すべきかについて信頼できる情報をほぼ全く持っていなかった。ゴパルの見解では、その後のタリバンの復活は本質的にアメリカのオウンゴールであった)。

さて、戦争好きの話に戻ろう。戦争を好むようになる動機はいくつか思い浮かぶ。少なくとも4つのカテゴリに分類できるだろう。

1. マッチョ。戦争好きの一番よくあるステレオタイプは、マッチョタイプだ。マッチョは基本的に、人間関係をドミナンス・ヒエラルキー〔順位制〕の観点で考える。典型的なマッチョは、若いころから暴力や威嚇を用いてドミナンス・ヒエラルキーを上っていき、それを自分の世界観にしてしまう(「尊敬」とか「名誉」といった言葉が使われがち)。マッチョの戦争観は基本的に、人間関係から学んだ教訓を国民国家に投影したものだ。誰がボスなのか知らしめなければならない、常に警戒を解いてはならない、怖がってない奴は何か仕掛けてくるはずだ、などなど。「ウィー・アー・ナンバーワン」の詠唱に深く感動するのはこういうタイプだ。(例:ジョン・マケイン

2. リアリスト。リアリストは、マッチョな戦争好きと比べると全然感情的ではない。実際リアリストは、「理論に囚われている」と言った方が適切な場合が多い。リアリストが囚われている「理論」は大抵、人間関係についてのいささか還元主義的な見解だ。この還元主義的見解によると、「いざというときには」、あるいは「物事の本質を見れば」、暴力こそが社会秩序を維持している。それゆえリアリストの見解では、国際法や国際的交渉・熟議が有益であるとすれば、それは暴力の行使に裏づけられている場合だけだ。だが人々はこのことを忘れがちである。だから、物事が実際にどう動いているかを人々に思い出させるために、折に触れて戦争を行う必要があるというのだ。(例:ロバート・ケーガン)

3. ネーション構築(Nation-building)。戦争をもっと道具的に捉える人々もいる。こうした人からすると、戦争とは、より広範なネーション構築のプロジェクトの一環である。共通の敵を持つことほど人々を団結させるものはない。カール・シュミットが教えてくれたように、ネーションは本質的に友と敵の線引きに関わるものだ。ネーション構築タイプの戦争好きは、国内の難しい問題から人々の注意を逸らすためだけでなく、社会的連帯を高めてナショナルな目的意識を生み出すために、戦争を始める。(例:ウラジーミル・プーチン

4. ロマンチスト。ロマンチストの軍国主義者は、昔はたくさんいたが、このご時世ではちょっとした変わり者だ。トルストイの『戦争と平和』にある次の文章を読めば、長らく失われてしまった世界を狭い窓から垣間見るような経験ができるだろう。

ニコライは皇帝が真っ先に近づいたクトゥーゾフ軍の前列に立っていたが、この軍隊のすべての者が感じたのと同じような気持ちを感じていた。それは、自分のことを忘れ、力強さを誇らかに意識し、この厳粛な歓喜の原因になっている人物に激しく惹きつけられる気持だった。
彼はこの一言しだいで、この大軍が(そして、それに結びついている自分も——取るに足りない砂粒の一つとして)火のなか、水のなかにも、犯罪にも、死にも、あるいは、このうえもなく偉大な英雄的行為にも突き進みかねないことを感じた。そして、彼はそのことばが近づくのを目のあたりにしながら、胸をときめかせ、身体をこわばらせずにはいられなかった。
(…)
皇帝は将校たちにも声をかけた。
「諸君、みんなに(一語一語がニコライには天来の音のように聞こえた)心から感謝する」
今皇帝のために死ぬことができたら、ニコライはどれほど幸せだっただろうか!
「諸君は聖ゲオルギウス旗に値する軍功を上げ、今後ものその名に恥じぬものと思う」
《ともかく死ぬんだ、死ぬんだ、この人のために!》ニコライは思った。
皇帝はまた何か言い、ニコライにはよく聞こえなかったが、兵士たちは胸も張り裂けんばかりに「ウラー!」と叫んだ。
ニコライも鞍にかがみ込むようにして、ありったけの力で、叫んだ。その叫びで自分の身が傷ついてもいい、ともかく、皇帝に対する感激を残らず表したかった。
(トルストイ『戦争と平和 2』、藤沼貴訳、岩波文庫、pp. 123-133)

この種のロマン主義は大部分、第一次世界大戦によって終止符が打たれた。とはいえ、非常に愛国主義的だったり、「犠牲」の美徳を称えたり(そこでの犠牲とは常に「死」のことであって、例えば税金の支払いではないようだが)、戦争は「倫理的に高潔な」国家の実現に資すると考えていたりする人々を見れば、ロマン主義の残響が聞き取れるだろう。

スティーブン・ハーパーをこのリストに割り振るなら、ロマンチスト・タイプの軍国主義者に分類できるだろう。主な理由は、ハーパーの軍隊に対する態度が(彼のより一般的な政治的保守主義と同じように)ノスタルジーに基づいているように見えることだ。ハーパーにはホッケーについての著書があるのだが、それを読むと、ノスタルジーが彼の気質の重要な側面であることがよく分かる(基本的に、人間嫌いな人の多くは、普通の人が他の人間に向ける感情を人間以外の領域に向ける。そのため例えば、動物への過剰なまでの愛着を育む。スティーブン・ハーパーは、普通の人が持つ感情の多くを、過去の事物に投影しているように見える)。ハーパーの信念の核にある見解の1つは、「昔の世の中はもっと良かった」というものだろう。昔のカナダ軍に対するハーパーのボンヤリとしたロマン主義は、こうした全般的信念(犠牲、ヒロイズム、などなど)の一部なのである。パッシェンデールの戦い(ロイド・ジョージが、「この戦争の最も悲惨な災厄の1つ……今では、少しでも知性を持った兵士で、この無意味な戦いを擁護する者はいない」と述べた戦闘)を称えたり、古い勲章や制服を復活させようとしたりしているのは、このためだ。

〔先に言及した『戦士の国』の著者〕マッケイおよびスウィフトと違い、こうしたことはほとんど無害だと私は考えている。カナダを「戦士の国」として再ブランディングする試みに関して言えば、保守党は空回りしてきたように思える。その理由は2つある。

第1に、保守党はカナダの軍需品調達の問題を(以前の自由党よりも上手く)解決する方法を見つけられていないという事実がある。そのため、カナダが本当に戦争を行う国になってしまう危険はほとんどない。単純に、戦争を行うためのハードウェアを持っていないからだ。さらに、装備が(あるいは、装備を調達する能力すら)欠如していることは、保守党の言動に根本的に真剣味が欠けていることを示している。そのため、保守党の軍国主義は大部分、お遊びのように見えるのだ。

第2に、カナダは戦争を行う軍事力を持つ必要がないという事実がある。アメリカ人はよく、他の西洋諸国、特にヨーロッパの国の一部が、アメリカの軍事力にフリーライドしていると非難する。この非難が当てはまらない国もあるが、カナダには間違いなく当てはまる。軍事支出に関して言うと、カナダとアメリカの関係は、マンサー・オルソンの言う「小さき者による、大きな者の搾取」の完璧な実例だ。世界で最も長い防衛なしの国境をアメリカと接していることの長所の1つは、他の国がカナダに侵攻すれば、アメリカはそれを絶対に許容しないことだ。そのためカナダは、国境での小規模な戦闘に備える必要があるとはいえ、国全体を他国の攻撃から防衛するのに十分な、完全な軍事力を持つ必要がないのである。

カナダには本質的に軍隊が不要だという事実は、カナダ軍が過去に平和維持活動に熱心だった理由を理解するのに役立つ。平和維持活動は少なくとも、きちんとした軍事力の維持を正当化してくれる。平和維持活動を行わなくなったら、カナダ軍の存在意義はいったいどんなものになるだろう? 保守政権は未だにそれを提示できていない。実際、それを提示する必要があることにすら気づいていないようだ。スティーブン・ハーパー(あるいは例えば、ピーター・マッケイ)に見られる男の子っぽい軍隊へのご執心は基本的に、個人の気質と政治イデオロギーの問題だ。国家的・地政学的にそれを正当化する根拠はない。

言い換えると、カナダに「戦士の国」というイメージを与えようとすることの根本的な問題は(現実と乖離していることを別にすれば)、カナダにおいて軍隊は差し迫った国益に資するものではなく、それゆえカナダは「戦士の国」になる実質的なインセンティブを持っていないことだ。

***

以下コメント

ポール・サンボーン:ハーパーの軍国主義を解剖した、洞察のある有益な記事でした。ですが、ハーパーのロマン主義と、(政治的なオウンゴールとなりつつある)退役軍人へのひどい扱いはどう整合するのでしょうか? 

ジョン・フォレスト:ハーパーの立場は「ロマンチスト」よりも「ネーション構築」に分類した方が上手く説明できるのではないかと思いました。ハーパーの立場は、征服を通じた国家の設立という意味では「ネーション構築」ではないですが、ネーションという考えの(再)創造という意味では「ネーション構築」と言えます。
過去数世代にわたり、影響力あるカナダ人たちがカナダのナショナル・アイデンティティの感覚を促進してきました。それは、非常にラフに言うとこんな感じです。カナダの歴史は、カナダには歴史がないということである。カナダのアイデンティティは、カナダにはアイデンティティがないということである。カナダの価値観は、カナダが価値観を何も持っておらず、戦ってでも守るに値するものがないということである。私たちは、コンセンサスについてコンセンサスがある。それ以上具体的に詰める必要はない。私たちは退屈している。カナダのナショナル・アイデンティティの全体は、私たちが確実にアメリカ人ではないということだ。それに加えて、数十年の歴史を持つ社会プログラムがあり、CBCがあることだ。などなど。
米英戦争について語ることは、こうした流れ全体を押し戻すものです [1] … Continue reading 。実際に戦争を行う必要もありません。戦争を行う可能性があるとか、戦争を行う十分に具体的な大義を持っていると思わせればよいのです。あるいは、カナダはピエール・トルドー以前の時代から、立派で刺激的な歴史を持っており、それについて語り論じることには価値がある、と思わせればよいのです [2] … Continue reading 。こうしたことは全て、カナダという国の捉え方に重要な変化をもたらしています。こうした流れによってカナダは、恐らくは「ポスト・ナショナル」な状態ではなく、イギリスやフランスに近い状態になります。

ジョセフ・ヒース:ポールさんへ。それは単にハーパーが無能なだけだと思います。ハーパー政権を理解する上で重要なのは、彼が権威主義的な傾向を持っているだけでなく、バカな取り巻きに囲まれているということです。これについては私も何か書きたいと思っていますが、まずはマイケル・ハリスの本を読み終えなければなりません。説得力があると思える議論を見つけたので共有しておきます。
http://www.theglobeandmail.com/news/politics/why-do-the-conservatives-treat-veterans-so-poorly/article21809664/
ジョンさんへ。ハーパー政権が「ナショナル・アイデンティティ」の見出しの下でしようとしていることは、実に興味深く、一般市民からはほぼ全く理解されておらず、大部分は絶望的だと思っています(つまり、トルドー以前の時代の、イギリス系カナダ人のアイデンティティを取り戻すというものです)。私はこれを「ネーション構築」に分類しませんし、むしろその正反対のものと見なしています。ピエール・トルドーのプロジェクトはネーション構築でした。トルドーは、カナダ連邦の共有された象徴を生み出すことで、国内のイギリス系やフランス系の民族的アイデンティティを置き換え、吸収しようとしていたからです。この流れを逆転させ、国民全体をもっと偏狭なナショナル・アイデンティティへと逆戻りさせる(結局のところ、イギリスのために戦った戦争〔ここでは米英戦争を指す〕について、〔フランス系である〕ケベックの人々にその興奮を共有させる方法はありません)のは、ネーション構築ではありません。単なるノスタルジーと言った方がよいでしょう。

[Joseph Heath, Stephen Harper, warmonger, In Due Course, 2014/12/5.]

References

References
1 訳注:米英戦争は文字通りアメリカとイギリスの戦争であり、当時イギリスの植民地だったカナダはイギリスの側についてアメリカと戦った。そのため米英戦争は、イギリス系カナダ人にとっては関心の対象であっても、フランス系カナダ人にとっては関心の対象でなく、カナダ全体のナショナル・アイデンティティの構築に資するものではない、という意味だと思われる。
2 訳注:ヒースによる返信でも触れられているように、トルドーはイギリス系やフランス系といった垣根を超えたカナダ全体のナショナル・アイデンティティの構築に尽力した人物である。そのため。トルドー以前の時代について語るというのは、カナダ全体のナショナル・アイデンティティではなく、イギリス系やフランス系といった国内での民族アイデンティティを強調する、という意味だと思われる。
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