マーク・コヤマ「古代ローマで産業革命は起こり得たか?:経済成長の起源に関する3つの議論から検討する」(2024年5月11日)

持続的・近代的な経済成長が近代以前の「成長の開花」の時期に生じなかった理由について理解を深めれば、1800年以後に移行が生じた〔持続的経済成長が可能となった〕理由を説明する上でどの要因が重要なのかをよりよく理解することができる。

本エントリは、私が書いてきた中で最も人気のある記事の再投稿である(元々は2017年にMediumで投稿したもの)。読者の中で既に読んでいた人がいたら申し訳ない。このエントリでは、私がよく人から尋ねられ、また私自身今も再検討し続けている、ある仮想的推論を扱っている。

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古代ローマ帝国で産業革命は起こり得ただろうか? これは、ヘレン・デール(Helen Dale)が新著『邪悪な者の帝国』”Kingdom of the Wicked“〔未邦訳〕で提起している問いだ。本書を読むと、キリストは(私たちの住む世界とそう変わらない)古代ローマ世界における宗教的過激派であったのだと思わされる。デールの小説は、テロリズム、グローバリゼーション、拷問、文化の衝突に対する私たちの態度に、新しい光を投げかけている。非常におすすめだ。

一方でデールは、古代世界において持続的な経済成長は可能だったか、という問いにも間接的に取り組んでいる。この小説の時代設定は紀元1世紀のローマで、ティベリウス〔2代目ローマ皇帝〕の治世、ピラトが〔ユダヤ属州〕総督だった時代だ。だがデールの小説は歴史改変もの(alternative history)である。この小説世界の歴史では、アルキメデスがシラクサ占領後も生き残り、地中海世界で技術的イノベーションがもたらされ、それによって急速な経済成長が生じている。デールが本書の素晴らしいあとがき(ここで公開されている)の中で説明しているように、ローマで産業革命が起こっていたら、それは現実の産業革命と異なっていた可能性が高いだろう。デールは〔この架空シナリオにおいて〕ローマ帝国が産業化へと至った経路を簡単に素描しており、その議論は非常に刺激的だ。これを受けて私は、ローマ帝国で近代的経済成長は生じ得たのか、デールが描くローマ帝国版産業革命への経路はもっともらしいものなのかについて、きちんと考えたくなった。

ローマ帝国の経済的繁栄

古代世界で持続的な経済成長が生じ得た可能性を、歴史学者たちは何十年にもわたり深く懐疑していた。モーゼス・フィンリーとカール・ポランニーの影響で、古代世界と近代世界は文化的にも経済的にも深く断絶している、と歴史学者たちは考えていた。古代世界と近代世界の断絶が生じたのは産業革命の時代であり、その時代以前の人々は、「経済的合理性」を欠いているため利潤最大化の機会を追求せず、経済的目的のために新技術を利用しようとしなかった、とされていた。

この見解はもはや信頼できるものではない。カイル・ハーパー(Kyle Harper)は近著『ローマの運命』”The Fate of Rome“〔未邦訳〕で、ローマ帝国の経済は人口成長や1人あたり所得の増加を可能にしていたと論じている。ローマ経済は不平等が深刻だった(富裕層は超のつくお金持ちだった)とはいえ、中流階級や都市部の貧困層でも、前近代世界の様々な「消費財」を手に入れられた。さらにハーパーによると、これは市場志向のスミス的経済成長を基盤としていた。

平和、法、輸送インフラは、市場を毛細管のように行き渡らせた。共和政後期の地中海における海賊の一掃は、ローマ帝国での商業の爆発的拡張にとって、最も重要な前提条件だったと言えそうだ。危害を被るリスクは大抵、海上交易にとって最も大きな障害だからである。ローマ法の傘は取引費用をいっそう低下させるものだった。所有権が信頼できる形で実効化されており、共有された通貨体制もあったため、起業や貿易が促された。〔…〕ローマの銀行や商業信用のネットワークは金融仲介の装置となり、これは17世紀から18世紀のグローバル経済における最も先進的な地域がようやく追いついたほどのレベルだった。信用は商業の潤滑油であり、ローマ帝国において貿易のギアは加速した。(Harper, 2017, p 37)

ハーパーによるローマ帝国の評価は大胆なものだが、考古学における近年の発見と整合している。産業的に生産された消費財のための密な貿易ネットワークが存在し、そうした財が帝国中のたくさんの地域で所有されていた証拠を、考古学者は発見し続けている。最近刊行された『ケンブリッジシリーズ:資本主義の歴史』”Cambridge History of Capitalism“〔未邦訳〕のウィリアム・ジョングマン(Willem Jongman)のチャプターは、こうした数多くの新しい発見を要約している。

複数の重要なパフォーマンス指標によると、ローマ経済における生産と消費は、紀元前3世紀(あるいはもう少し後の時期)から、総計レベルで見ても1人あたりで見ても劇的に増大した。これは紀元前1世紀から紀元後1世紀にかけて驚異的なピークに達し、恐らく紀元後2世紀の中盤まで続いた。(Jongman, 2015, 81)

ジョングマンのチャプターでは、石炭消費、汚染、建物の建造、動物消費が増大した証拠が示されている。ここではその中から図を1つ載せておこう。下の図は、この時期にネットゥーロ(ローマから約50km南に離れた都市)で陶器片が急速に増加したことを示している。

こうしたたくさんの証拠を見ると、古代世界ではジャック・ゴールドストーン(Jack Goldstone)の言う「成長の開花(growth efflorescence)」が生じていたことが分かる。

とはいえ、マルクス・アウレリウスの治世で繁栄のピークに達していた時期のローマ帝国ですら、近代的経済成長を実現する寸前であったようには見えない。ローマ帝国には、産業革命前夜のイギリスが持っていたいくつかの決定的特徴が欠けていた。ローマ帝国には発明や発見の文化がなく、技能を持った鋳掛屋や機械製造者が大量にいたわけでもなく、労働力が希少だった(これは労働節約的な発明を促しただろう)という証拠もない。

架空シナリオ:ローマ帝国で産業革命が起こったら

だが、ローマ帝国に産業革命は起こり得なかったと結論づける前に、いくつか注意しなければならないことがある。多くの点で、イギリスの経済成長はたくさんの要因を持っていた(overdetermined)。ニック・クラフツ(Nick Crafts)は約40年前に、イギリスとフランスを比較した議論の中で、このことを巧みな調子で指摘していた。

イギリスで最初に産業革命が起こった事実を説明する「被覆法則(covering laws)」など存在しない。私たちにできるのはせいぜい、説明のために誤差項を用いた一般化を行うことくらいだ。その「出来事」が一回きりのものなら、決定的なイノベーションが生じたタイミングを統計的推論の道具立てで説明するのは不適切である。〔…〕さらに、産業革命が確率的なプロセスの結果と見なせるなら、「なぜイギリスが最初だったのか?」という問いそれ自体が誤解に基づいていることになる。〔産業革命はフランスより先にイギリスで起こったという〕観察された事実が、イギリスの先行条件の方が〔フランスより〕先を行くものだったことを示しているとは限らないからだ。(Crafts, 1978)

クラフツの指摘はこうだ。産業革命の生じたタイミングはランダムに決まった部分がある。さらに、繰り返し実験を行えないなら、18世紀イギリスをフランスや清朝中国、そして古代ローマから隔てた要因について、その影響を厳密に因果推定するのは不可能だ。私たちに言えるのはせいぜい、18世紀ヨーロッパにおける確率のバランスは、中国や古代世界よりもはるかに、経済的ブレークスルーが生じやすい方向に傾いていた、ということくらいである。

しかし、「可能性が高い」は「確実である」と同じではない。また、「可能性が低い」は「不可能である」や「あり得ない」と同じではない。少なくとも近年の考古学的発見は、古代世界の創造性や繁栄の度合いについて評価を上げるよう私たちに促すはずだ。となると、古代ローマで産業革命が生じることも、あり得なかったわけではないかもしれない。これを認めるなら、デールは古代ローマの経済発展に関して、興味深いオルタナティブな経路を提示していることになる。

歴史学者は長らく、奴隷制の遍在こそが、労働節約的な技術の導入への大きな障害となったと論じてきた。デールはこの議論を踏まえ、架空の古代ローマ版産業革命を紀元前2世紀の初頭から中盤に位置づけている。この時期のローマにはまだ、ギリシャ、カルタゴ、ガリアの征服地から大量の奴隷が流入していなかった。共和政中期は、機械ベースの文化の定着をちゃんとした形で想像できる時期だとデールは論じている。デールの架空世界において、ローマ帝国は産業化した後、アウグストゥスの治世でイギリス式の立憲君主制への道を辿っていく。

デールの描く技術発展の経路では、ローマ人は医学や生物学を発展させていく。この架空シナリオでは、人体解剖を禁じるキリスト教が存在せず、そのような状況下で生じた技術発展はローマに便益をもたらしている。この小説で緊張が走るポイントは、ローマの人々がエルサレムに妊娠中絶クリニックを建設する場面だ。なぜ妊娠中絶クリニックを建てたのかというと、ローマ人にとってはそれが普通だからである。ローマ人は中絶を間違ったこととは考えていない(考えていなかった)。さて、ここで私が問いたいのは次のことだ。こうした考察は、前近代世界で経済成長が生じた可能性について、私たちに何を教えてくれるのだろうか?

近代的経済成長の起源に関する3つの見解

イギリスで産業革命を生じさせた要因について、いくつかの目立った見解を見てみよう。議論をひどく単純化してしまう恐れはあるが、こうした見解は次の3つのグループに大別できる。

第1に、市場の拡大こそが持続的な経済成長の十分条件だと見なす傾向にある人々がいる。これをグループ1と呼ぼう。こうした論者はアダム・スミスの法学講義における次の文章を好んで引用する。「国家を最低の野蛮さから最高の豊かさへと引き上げるための要件は、平和、軽い税、許容できる司法制度であり、ほとんどそれだけだ」。リバタリアン的気質の経済学者の多くはこのカテゴリに入るが、現役の経済史研究者でこの見解をとる者は稀だ。

第2に、植民地帝国や自然資源(石炭など)こそが近代的経済成長にとって決定的に重要だったと論じる人々がいる。これをグループ2と呼ぼう。この見解はイマニュエル・ウォーラーステインの「世界システム」論と結びつけられている。最も洗練された主唱者は『大分岐』(2000)の著者、ケネス・ポメランツだろう。この見解のポップ・バージョンは歴史学者や社会学者の間で大人気だが、経済史研究者でこれを支持する者はほとんどいない。

第3に、近代的経済成長への移行を説明できるのは、究極的にはイノベーションだけだと論じる人々がいる。経済史研究者の大多数はこの立場だ。これをグループ3としよう。だがこのグループ3は2つの陣営に分かれている。イノベーションの増大を純粋に経済的観点から説明しようとする論者(3A)と、そのような説明は不可能であり、答えを別のところ(恐らく、広く「文化」と呼べるようなもの)に求めるべきだとする論者(3B)だ。

〔3Aの議論の代表例として〕18世紀に(フランスやインドではなく)イギリスで、発明家たちがジェニー紡績機のような労働節約的な機械を作った理由は、単純な経済学的推論で説明できる、という見解がある。これはロバート・アレンが展開した議論で、現在のところは経済史研究の主流派の見解と言えるかもしれない。だがアレンの議論は近年、批判を浴びている。18世紀のイギリス経済が高賃金だったという証拠は、従来思われていたよりも弱いと見なされるようになってきたためだ(ジュディ・スティーブンソン(Judy Stephenson)の研究を参照。ここここを見よ)。

3Bの議論の中では傑出している見解が2つある。これらはそれぞれ、デアドラ・マクロスキーとジョエル・モキイアに結びつけられるものだ。マクロスキーとモキイアの議論は異なるものだが、18世紀イギリスの特徴である創造的・冒険的な精神を単純なインセンティブで説明することはできない、と論じる点が共通している。マクロスキーやモキイアによると、こうした創造的・冒険的な精神を説明するには、「ブルジョワの威厳(Bourgeois Dignity)」や「成長の文化(Culture of Growth)」といったものを認識しなければならない。

架空シナリオを現代の議論から検討する

第1の見解(貿易、商業、市場の発展が近代的経済成長の十分条件だったとする議論)の支持者は、ローマ帝国で産業革命が起こったという架空シナリオを非常に魅力的に思うはずだ。ハーパーは次のように論じている。「帝国はその本質からして、貿易の障壁を系統的に打ち壊すものだった」(Harper 2017, 37)。ローマ帝国の法制度が、所有権を尊重し、個人間の取引を促すよう設計されていたことは重要だ(ここを見よ)。実際、ローマ帝国の法制度が驚くほど「近代的」な特徴(例えば、結婚した女性も所有権を有していた)を持っていたことは、デールの小説でも大々的に取り上げられている。こうした法制度はまた、経済取引に安定性を与え、個人間取引やビジネス組織が生み出される枠組みを提供した。帝政期には皇帝が巨大な専制権力を得たが、経済的観点からすると、ローマ帝国の市民は私たちの考える「法の支配」に近いものを享受していた。

同様にグループ2の論者も、ローマ帝国がひとまとまりの資本主義的な「世界システム」であったことを認めるはずだ。ローマ帝国は植民地を持っており、中核地域は周縁地域を搾取していた。最近の考古学的証拠によると、例えば、ローマ経済は従来考えられていたよりもはるかにインド洋貿易と緊密に統合されていた。ローマ帝国の「世界」システムは、大西洋世界ではなく地中海経済を軸としていた。だが、近世の世界システムが経済成長の実現に成功し、ローマの世界システムがそれほど成功しなかったことを説明する本質的理由はほとんどないように思える。

第3の立場の支持者は、ローマ帝国で産業革命が生じた可能性により懐疑的だろう。とはいえ、「イギリスで産業革命が生じたのは労働者の賃金が高かったためだ」というロバート・アレンの高賃金理論を支持する論者なら、デールによる架空のローマ史に少なくとも興味はそそられるはずだ。賃金が高く、エネルギーと資本が相対的に安価だったなら、ローマ人たちは自身の工学的思考を用いて、蒸気機関やジェニー紡績機のようなものの発明へと向かったのではないか? 要素価格(factor price)がイギリスの産業化にとって決定的に重要だったとすると、同様の条件の下でならローマ帝国でも産業革命は起こり得たのではないか?

ここでこの問題に答える術はない。だが、そうしたブレークスルーが生じたとしたらそれは紀元前2世紀のはずだ、というデールの議論は正しいように思われる。この時期、ローマは急激な経済成長、都市化、商業化を経験した。イタリアでは、小規模自作農たちが大規模な商業農業に取って代わられた(ラティフンディウム)。土地を追われた農民たちは、ローマ帝国内で兵士となったり、都市の貧困層となったりした。そうした農民の労働力のかわりに、地主たちは大量の奴隷を持ち込んだ。歴史学者の間で目立っている見解の1つ(「ベロッホ-ブラント」モデル)によると、イタリアにおける自由民〔奴隷でない人々〕の人口は、紀元前225年には約450万人いたのが、紀元前28年には400万人にまで減ったとされる(この見解を巡る議論についてはMorley (2001)を参照)。これが正しいにせよ間違っているにせよ、紀元前200年以後に奴隷の需要が急上昇し、奴隷の供給も首尾よく需要に追いついたため、地主たちが大規模な商業農業を行うよう促されたことは疑いえない。このような経済状況は近代的経済成長には向かなかった。だがポイントは、奴隷労働が供給されなかった架空のローマ世界では、アレンのモデルに則れば、産業革命が生じたと想像できることだ。

一方でマクロスキーやモキイアの議論は、上で示した架空シナリオに対して大きな疑いを投げかける。モキイアによると、18世紀のイギリスを他の時代や他の地域と隔てた要因は、「成長の文化」にあった(この議論に対する私のレビューはここで読める)。競争的な「科学の共和国(Republic of Science)」の重要性を強調するモキイアの議論が説得的であればあるほど、ローマ帝国が科学やイノベーションの基盤となる環境を提供しただろうとの見込みは薄くなる。ローマ帝国が地中海世界で覇権を握れなければ、状況は変わっていたかもしれない。

同様に、マクロスキーが17世紀のオランダや18世紀のイギリスに見出しているような、商業に対する態度の言説的変化についても、そうした変化が古代ローマで生じていた証拠(貿易商や商人が兵士や冒険家よりも尊敬されていた証拠、商業やビジネスへの軽蔑が弱まった証拠)を私は知らない。こうした〔商業を下に見る〕文化的態度が、中世後期や近世のヨーロッパで経済成長のネックとなっていたなら、古代世界にも同じことが言えるだろう。以前のエントリでは、奴隷制やその他のローマ帝国の制度が、商業を基盤とする経済発展に敵対的な文化的エートスを強化したのではないかとの考察を行った(ここを参照)。とはいえ、反証があるならぜひとも知りたい。恐らく専門家なら、この時期ローマ人の商業に対する態度に変化が見られたかについて証拠を知っているのではないだろうか?

以上の議論が示すのは次のことだ。持続的・近代的な経済成長が近代以前の「成長の開花」の時期に生じなかった理由について理解を深めれば、1800年以後に移行が生じた〔持続的経済成長が可能となった〕理由を説明する上でどの要因が重要なのかをよりよく理解することができる。

[Mark Koyama, Could Rome Have Had an Industrial Revolution?, How the World Became Rich, 2024/5/11.]
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