ブラッド・デロング 「馬は『いつ・どこで・なぜ・どのようにして』家畜化されたか? ~『ミスター・ラッキー』に賛辞を!~」(2016年9月14日)

馬が家畜化されたのは、幸運な偶然の一致のおかげだったのかもしれない。

Buceのブログエントリーより。

————————————【引用ここから】—————————————–

The Luckiest Horse in the Fifth Millennium BCE” by Buce

2008年に出版されたデイヴィッド・アンソニー(David W. Anthony)の魅力的でワクワクさせられる一冊である『The Horse, the Wheel, and Language』(邦訳『馬・車輪・言語』)に依(よ)りつつ、馬が「いつ・どこで・なぜ・どのようにして」家畜化されたのかを振り返るのが今回の目的だ。それと同時に、紀元前5千年紀に生息していた史上最も幸運な一頭の馬に賛辞を送ることにもなるだろう。

アンソニーによると、馬が家畜として飼われはじめたのは「いつ」かというと、紀元前4800年頃だったという。「どこで」かというと、カスピ海の真上にある「ポントス・カスピ海草原」にて。「なぜ」かというのは、面白い。乗るため(移動手段として)ではなく、食べるため(食用として)だったというのだ。馬は、図体も大きくて、肉もたっぷりだ。寒冷地の冬も乗り切れる頑丈さも持ち合わせている――乗るために利用されるようになったのは、しばらく後になってから――。

「どのようにして」という問いに対する答えには、肩透かしをくわされるかもしれない。「簡単じゃなかった」というのだ。 しかし、ちょっと立ち止まって考えてみると、驚くような話でもないだろう。馬――正確には、去勢されていない牡馬(オスの馬)――は、扱うのが難しいと有名で、 小屋に入れるのも足枷をはめるのも馬具を装着するのも一筋縄ではいかない。大人しくしていてくれないのだ。とは言え、「どのようにして」という問いに対しては、これはという答えの手がかりもなくはない。アンソニーによると、DNAの証拠がその手がかりを与えているという。

「現代の家畜化されている馬の牝系(母方)の血統には、かなりの多様性が見られる。ミトコンドリアDNAは、母から娘へとそっくりそのまま受け継がれる。そうだというのに、現代の家畜化されている牝馬のミトコンドリアDNAの特徴には、かなりの多様性が見られるのだ。その多様性を無理なく説明するためには、出発点(系統図のはじまり)に少なくとも77頭の牝馬がいないといけない――そして、計17の系統樹群に分類される――計算になる。野生の牝馬が家畜化されたのは、あっちこっちの場所で別々の時期においてであったに違いないのだ」(原書 pp. 196)

みんな(現代の家畜化されている馬たち)の母はたくさんいたわけだ。じゃあ、みんなの父は? アンソニーによると、

「その一方で、父から息子へはY染色体がそっくりそのまま受け継がれるわけだが、現代の家畜化されている牡馬のY染色体の特徴を調べてみると、どの馬も驚くほどそっくりなのだ。野生の牡馬で家畜化されたのは、たったの一頭だけに過ぎなかった可能性があるのだ」 (同上)

どういうことか掴(つか)めてきたろうか?  アンソニーの説明によると、標準的な野生の馬の群れは、

「・・・(略)・・・牡馬にとってハーレムみたいだった。1頭の牡馬と2~7頭の牝馬、そして未熟な仔馬たちで構成されていたからである。牝馬は、・・・(略)・・・本能的に他からの支配――ボス的な牝馬による支配、牡馬による支配、人間による支配――を受け入れる傾向にあった。その一方で、牡馬は、反抗的で気性が荒く、本能的に権威に歯向かう――噛みついたり蹴ったりして歯向かう――傾向にあった。・・・(略)・・・比較的従順で扱いやすい牡馬というのは、稀(まれ)な存在だった。そういう牡馬は、野生の世界で子孫を残せる見込みがほとんどなかったのだ。馬が家畜化されたのは、幸運な偶然の一致のおかげだったのかもしれない。馬を家畜として飼おうと企んで種牡馬を探していた人間の近くに、比較的扱いやすくて従順な(野生の)牡馬がたまたまいたおかげかもしれないのだ。その牡馬からすると、人間がいなければ(人間に飼われなければ)妻に巡り合えなかったことになる(そういう意味で幸運だったわけだ)。その一方で、人間からすると、「種牡馬として、こういう馬が欲しい」という要望に合致するのはその牡馬くらいしかいなかったのだ(そういう意味で幸運だったわけだ)」(原書 pp. 197)

みんなの父たる「ミスター・ラッキー」に賛辞を!

読後の感想:アンソニーの『馬・車輪・言語』は、読んで得られるものが多い一冊には違いないが、誰をターゲットにしているのかよくわからないところがある。三冊の本――馬について一冊、車輪について一冊、言語について一冊――が一冊にまとめられている感じがするのだ――あるいは、六冊かもしれない。専門家向けに三冊、素人向けに三冊――。専門家じゃない読者(私もその一人だろう)であれば、この本からたくさんのことを学べるだろうが、あまりに細かすぎるので読み飛ばしたくなる箇所もたくさんあるだろう。それとは対照的に、専門家の読者であれば、・・・どうだろうね? 私の印象だと、考古学の分野では何も解決されちゃいないように思えるので、アンソニーが馬面(馬鹿面)引っ提げて何か言ってるらしいってことを私に説こうとする専門家もたくさんいるかもしれない。


〔原文:““Mr. Lucky”: From the Fifth Millennium BCE: Hoisted from Others’ Archives from Eight Years Ago”(Grasping Reality on TypePad, September 14, 2016)〕

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