モントリオールに住んでいた頃を思い返すと、犬に対して奇妙な抵抗感を持つ女性たちが近所に十数人はいた。彼女たちは明らかに、最近カナダへやって来た移民だった。私が犬を散歩しに出かけると、彼女らはいつもわざわざ私を避け、向こう側の歩道へ行くため車道を横切ることさえあった。曲がり角でばったり遭遇してしまったときなどは、女性は私の犬を見て驚き、文字通り叫んで逃げ出してしまった。また別のときには、子どもを連れて歩いている女性が、子どもの目を塞いで私の連れている犬と目が合わないようにしていることもあった。
犬とともに生活することが驚くほど嫌悪される文化が存在することは知っている。だがこれは嫌悪感を超えており、ほとんど恐怖心に近い怯え方であるように思えた。そこでこの方面の研究を行っている友人に、いったいどういうことなのかと尋ねてみた。友人の話によると、彼女たち移民の出身地域では、犬は不潔と思われてるだけでなく、実は悪魔だと考えられているのだという。これなら、女性が子どもの目を塞いだことにも説明がつく。彼女は子どもたちの魂を守っていたのだ。
私は根っからの犬好き人間として、彼女たちに特に同情的になれないことを認めざるを得ない。実際、この状況は意地悪な世間話のタネとなったかもしれない(彼女たちが故郷の実家に電話をかける場面を想像してみよう。「カナダでの生活はどう?」「悪くないよ、冬の寒さも一度慣れればそうでもない。でも1つだけ問題があって……。カナダの人は悪魔と一緒に暮らしてるんだよ」。これはかなり重大な見落としである。新しい国へと旅立ち、新生活をスタートして初めて、通りには悪魔がいっぱいで、公園にはペットの悪魔が紐なしで遊べるゾーンがあり……、といったことを知るのだ。これは新しい国に到着する前に尋ねておきたいことのように思える。「カナダはすごくよさそうな国ですが、1つだけ質問させてください。カナダの人々は悪魔と一緒に暮らしていたりしませんよね?」)。
もちろん、どんな迷信を受け入れようが個人の自由である。だが、子どもを悪魔から守ろうとする彼女たちの姿を見ると胸が痛んだ。私は心の中でこう問いかけたくなった。「あなたの子どもたちがカナダで育ち、その地域の学校に通い、地域の子どもたちと遊び、友達の家でお泊り会をし、そして犬は悪魔であると信じ続ける可能性はどれくらいあるでしょう?」。つまり、自分自身があることを信じ続けるのはよいとしても、その信念が(ほとんど誰もそのことを信じていない社会で)世代を超えて保持されると想像するのはちょっと哀れに思えるのだ。そのような期待は社会学的にナイーブであるだけでなく、失望の種にもなる。
オンタリオ州で最近起こっている性教育カリキュラムへの反対運動は、そのときのエピソードや当時抱いた感情を思い起こさせる。まず、反対運動の参加者の構成を見て大変驚いたと告白しておかねばならない。最初にニュースを聞いたとき、私は(5年前の前回、政府が性教育カリキュラムを変更しようとしたときと同じように)古参の福音派キリスト教徒が反対運動を起こしているのだと考えてしまっていた。だがその後、今回の反対運動はほぼ完全に新規の移民が主導していたことが判明した。メディアはこのことに注目を寄せるのをためらっていたが、これは非常に興味深い展開である(私の見た限りで大きな例外はトロント・ライフ誌の記事だ。これは反対運動の主導者数名のプロフィールを取材した公平かつ素晴らしい記事で、反対運動について書かれたものの中では飛びぬけて質が高い)。
カナダの多文化主義の支持者にとって、このニュースは複雑な心情を引き起こす。一方で、移民の政治参加は移民統合の成功を示す重要な指標だ。新規の移民が十分な自信を持ってカナダ社会との繋がっており、反対運動を組織してMPP〔カナダの地方議会の議員〕と接触できるほどであるという事実は、実に驚くべきことであり、カナダの市民社会と政治体制が移民に開かれていることを雄弁に物語っている(この運動で私たちが目にしていることの多くは、トロント郊外における保守派の「ケニー連合」だ。パトリック・ブラウンは最近、このケニー連合を利用してオンタリオ進歩保守党の指導権を握った。移民が保守党へ参加することを誰もが同じように歓迎するわけではないだろうが、なんであれ移民が政党に参加しているというのは移民統合の成功の証である)。
他方で、トロント・ライフ誌の記事がかなり控え目に示唆しているように、運動家の多くは、カナダで育つことが子どもたちに与える影響について全く非現実的な想定を抱いてしまっている。それゆえ今回の反対運動は、カナダにおける移民統合の限界(「失敗」と言うのは躊躇われるが)をも明らかにしている。例えばトロント・ライフ誌の記事には、ある抗議運動の主催者、ファリナ・シッディーキー(Farina Siddiqui)が、地方議会を駆けずり回り、スピーカーに対してホモフォビア的発言を控えるよう注意喚起したという素敵な一幕を報じている。「私たちはカナダの価値観を示さなければなりません」とシッディーキーはスピーカーたちに懇願している。その後抗議運動の主催者たちは、ルールに違反したスピーカーからマイクを奪わなければならない事態に陥った。ここに、運動家たちがいかに難しいかじ取りを行おうとしているかが見て取れる。こうした移民の運動家たちはいったいどのようにして、カナダの主流文化をよく反映した性教育カリキュラム(この点についてはほぼ全員が同意している)に反対しながら、カナダ社会への統合を拒否する移民(あるいはいっそう悪いが、祖国の保守的な宗教的価値観をカナダに押し付けようとする移民)という印象を与えることを回避しているのだろうか?
このジレンマを解く鍵は実は、移民の運動家たちとキリスト教社会保守主義との提携にある。様々な移民集団が「ほら、性教育カリキュラムに不満があるのは移民である私たちだけじゃない。カナダで生まれ育った人も反対運動に参加している。移民である私たちと同じように反対しているカナダ人がいるのだ」と主張できるのは、この提携関係があるからだ。「ケニー連合」の重要性はここにある(「ケニー連合」については今後のエントリで論じていく)。このエントリでは単に、こうした反対運動によって明るみに出た懸念について論じたい。すなわち、リベラルな西洋社会で暮らすとはどういうことであり、その環境で育つことが子どもにどんな影響をもたらすのかという現実について十分に理解しないままカナダに来た移民があまりにも多すぎるのではないか、という懸念だ。
移民の知り合いがたくさんいる人なら、親が子ども(特に娘)に対して保てる影響力を著しく過大に見積もっている人が信じられないほどたくさんいることに、間違いなく気づいているだろう。例えば、男子は走り回るのもデートやパーティに行くのも自由だが、女子は家から出さずデートもパーティも禁止することができる(そうしても一生ものの苦い憤りを生み出すことはない)、というある種の男性が抱きがちな考えは、ほぼ完全に幻想である。家父長制やジェンダー不平等(ここでは本来の意味で、つまり、父親が全ての判断を行い、男性と女性があからさまに不平等に見られている状況を指す言葉として用いている)の問題は、差別を維持することは、その差別を支えるような社会環境なしには難しく、正反対のメッセージを常に送り続けているような文化においてはなおさら難しいということだ。
こうした議論の背景にあるのは、子どもの社会化の話になると、親の子どもに対する影響力がひどく過大評価されてしまうという問題だ。カナダに来た移民1世と、カナダで生まれたその子どもの会話のアクセントの違いを聞きさえすれば、社会的行動において〔親・家庭の外の〕環境がどれほど大きく影響しているかが分かるはずだ。実際、子どもに自分の価値観を共有させようとするのは、子どもに自分と同じアクセントを共有させようとするようなものだ。つまり、他の多くの人が自分と同じ価値観/アクセントを共有している社会環境にいるのでなければ、その望みが叶う可能性はほとんどない。7歳前後になると、子どもの行動を形作るにあたって、同年代の仲間集団が最大の影響力を持つという証拠は大量にある。そのため、様々な背景の子どもを同じ教室に入れれば、子どもたちはいたって普通の(plain-vanilla)カナダ人の子どもとなっていく(面白い余談だが、親が子供に対する影響力を過大評価する一因は、子どもが成長するにつれて様々な点で親と似てくることだ。これは遺伝によるものだが、社会化の影響と誤認されがちなのである)。
親は子どもに対して大きな影響力を及ぼせるという誤った考えは、多文化主義に対して保守派が抱く不安や反対論の主要な源泉の1つだ。保守派は、多文化主義によって「主流が主流でなくなる(the centre cannot hold)」こと、社会統合が危機に陥ることを心配している。保守派がこうした懸念を抱いてしまうのは、家族生活の重要性を過大評価しており、主流から大きく逸脱した文化を〔子どもに〕伝達することがいかに困難かを理解し損ねているからだ。家庭環境が主流文化と大きく異なっているだけでは不十分である。子どもたちとその仲間グループが、主流社会のあらゆる要素(学校やメディアを含む)に接触できないよう、広範な社会的隔離状態を作り出さなければならない。宗教セクトが都会から離れた地方部に拠点を移し、ラジオやテレビ、インターネットなどへのアクセスを制限しがちなのはこのためだ。また、進歩派が「社会的排除」やレイシズムを懸念するのもこのためである。社会的排除やレイシズムは広範な隔離状態を生み出せる数少ない強力な要因の1つであり、その隔離の水準は社会統合の成功を損ない得るほどだからだ。こうした要因が働かなければ、カナダの郊外は「ジェネリック・カナダ人」を大量生産する巨大な機械のようなものであり、それに対して家族ができることはほとんどない。
まとめると、自分の娘が「ペニス」という単語を知らずに11歳を迎えるだろうと考えるのは、娘が中年になっても犬を悪魔だと信じ続けるだろうと考えるようなものだ。私が知っている11歳の女子のほとんど(つまり、私の娘とその友達)は、1日に少なくとも10回以上は「マザーファッカー」という言葉を使っている。これは、娘が家で学んだ可能性は確実にないと言い切れる数少ない言葉の1つだ(あるとき、きちんと腰を落ち着けて、この言葉がなぜ、そしてどんな点で、非常に侮辱的な表現なのかを娘に説明しなければならなかった)。それゆえ真の問題は、(ロビン・アーバックが少しいら立った様子でコラムに書いているように)子どもの性教育を教師に任せるか、ニッキー・ミナージュ〔過激な表現で知られるラッパー〕に任せるかである。これは全く不当な議論というわけでもない。今回の反対運動の参加者たちは、親が子どもに性教育を行うべきだと主張しているが、トロント・ライフ誌の記事が強く示唆しているように、彼ら彼女らが本当に求めているのは子どもを性(そして性の多様性)の知識から隔離することだからだ。
同時に私は、カナダに来て「思っていたのと違った……」と感じている移民にも若干の同情を覚える。例えば、さっきまで地下鉄に乗っていたが、私が座っていた席の向かい側にはこんなポスターが貼られていた。
(注意深く見ると、Squirt.orgのポスターのすぐ上に、TTC [1]訳注:Tront Transic Comission(トロントの地下鉄やバスを運営している公共機関)のことだと思われる。 の芸能人数名が、聖書の学習コースの広告を載せているのが分かる。私たちが暮らしているのはこういう世界なのだ。)
私としては、子どもたちが今日私と一緒に地下鉄に乗っていなくて少し安堵した。子どもたちが乗っていれば、質問されることは確実だっただろうからだ。子どもたちは、同性愛に関してはいたって冷静である。私が懸念していたのは、「なんでこれが『ほとばしり(squirt)』って言われるの?」とか、「なんで男の人が2人じゃなくて3人なの?」とか、そういうもっと具体的な疑問である。いずれにせよ、子どもたちも地下鉄に乗る以上、このポスター1つとってみても、オンタリオ州における性教育のカリキュラムをアップデートすべき理由は十分説明できる。
移民統合に関する限りで、私は「オランダ・モデル」に常にシンパシーを抱いてきた。オランダでは政府がビデオを作って、オランダでの生活がどんなものかの手触りをいくらかでも移民に伝えようとするのだ(議論についてはここを見よ)。この長いビデオには基本的に、非常に簡潔にだが、日光浴をするトップレスの女性やキスをする2人のゲイの男性などが映されており、「こうした光景はこの国では普通と考えられています」といったナレーションが流れている。ただしオランダ政府は、このビデオを市民権取得のためのテストの準備のために見る教材としている。これはちょっと遅すぎるように思える。もっと早い段階で、例えば最初の移民申請書類と一緒にこのビデオを送った方がずっと効果的だろう。もっと言えば、ビデオの内容は他にも色々考えられる。私としてはぜひとも、「移住は家族にどんな影響をもたらすか?」というビデオを作ってもらいたい。例えば、移民の親を持つ成人した子どもに、親との関係について語ってもらったインタビューを映すのだ。トロント市役所で、異なる人種同士のカップルが結婚申請のために長い列を作っている映像なんかを入れてもいいだろう。地下鉄に貼られているポスターの写真を入れるのもいいかもしれない。
[Joseph Heath, Sex education and the dilemmas of immigrant integration, In Duce Course, 2015/9/3.]References
↑1 | 訳注:Tront Transic Comission(トロントの地下鉄やバスを運営している公共機関)のことだと思われる。 |
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