近年、アメリカのポップカルチャーは停滞しているとの話題を頻繁に見かける。こうした主張はまず疑ってかかるべきで、こうした不満は特に目新しいものじゃない。ドワイト・マクドナルドは、20世紀半ば、何十年間も大衆文化を激しく批判していた。マクドナルドは、大衆文化(マスカルチャー)は、ハイカルチャーを汚染し、吸い上げていると考えていた。1980年には、ポーリン・ケイルがニューヨーカー誌に「なぜ映画はこんなに駄目なのか? あるいは数字について」と題した論説を書いて、映画スタジオの資本主義的インセンティブが、派生的な駄作を生み出している原因になっていると主張した。 [1]原注:これらの例を僕はAI(ChatGPT … Continue reading
なので、「なぜアメリカのポップカルチャーは停滞しているのか?」という疑問に答えようとすると、そもそも問題になっていない問題について適当な説明をしてしまう危険性が常につきまとう。たとえば、「近頃の子供は親を尊敬しない」とか「科学者は発見すべきものを全て発見してしまった」みたいな定型句に陥ってしまっているしまってるかもしれない。でももっと問題なのが、「文化の停滞」には客観的な定義がないことだ。新奇性や娯楽性は、純粋に個人の意見でしかない。でもそれが故に論じていて楽しいわけ。
といっても、アメリカのポップカルチャー――音楽、映画、ビデオゲーム、小説やコミック・ブック――の多くが、少なくとも大衆消費の面では、停滞してることを示す証拠はいくつかあると思う。例えば、アメリカ人の消費しているコンテンツで、フランチャイズ作品、続編、リメイク、安パイなクリエーターの割合が増えていることを示したアダム・マストロヤンニの2020年の優れた記事がある。以下が彼の作った映画についてのチャートだ。

ほかには、「文化停滞」論の一番有名な提唱者テッド・ジョイアはもっと沢山の証拠を挙げている。
私は、音楽ファンが新曲ではなくて昔の曲を選んでることを繰り返し指摘してきた。しかも、この傾向は、最初に話題にしてから、もっと極端になっている。最近の数字では、ストリーミングの曲のうち、新曲や最近の曲はわずか27%しかない。(…)。150億ドルのコミックブック市場は、1960年代と1970年代に主流だったのと同じブランドのフランチャイズが牽引している。(…)。2023年に一番収益を挙げて公演は、前世紀の公演の再演だ。『オペラ座の怪人』と『ライオンキング』は、今年になっても最高の週間興行収入を誇っている。(…)。現在、ハリウッドの収益の83%は、過去のお馴染みのキャラクターを登場させるフランチャイズ映画によるものだ。
アメリカ人の多くも、映画、音楽、テレビについてこの衰退感を共有している。そして、世論調査ではこれらジャンルは1970年代から2000年代のどこかでピークに達したと答えている。もっともこれは、調査回答者の大半が自分の青春を懐かしむ中年層だからかもしれない。でも、ジョイアが指摘しているように、最近の若者は親世代の音楽を聴いている――これは単なるノスタルジーでは説明できない。
僕個人も、こうした停滞を多くの分野で感じている。例えば映画だ。今や、スマホでインディーズ映画を撮れるようになったにもかかわらず、僕が若かった頃ほど面白くもなく、芸術形式としても瑞々しさを感じない。良質の音楽はそれなりに出てきているが、ベストな音楽の多くは、過去の作品を洗練させたように感じる。
これについてちょっとした一例を挙げるなら、若者は、シューゲイザーをまた聴くようになっている。シューゲイザーとは、僕が若かった2000年代に楽しんだ、夢心地で、音を多層的に重ねたロック音楽内の極小ジャンルだ。僕は、このリバイバルを好事にしている。最近、圧倒的に素晴らしいと思ったシューゲイザーを2曲紹介しよう。
正直なところ、上で挙げた曲は、My Bloody Valentineや、東京酒吐座や、Oeilみたいな昔のお気に入りと同じくらい好きだ。でも、昔と明らかにそっくりだ。僕のような中年男が、若い頃に好きだった音楽と同じようなサウンドを好むのは自然だ。でも、本当に興味深いのが、若い子らも、これに夢中になってることだ。
テレビは、過去10年間だと黄金時代っぽく見えるし、これはノスタルジーでは説明できない。子供の頃には『スタートレック:ディープ・スペース・ナイン』や『となりのサインフェルド』が大好きだったけど、『ゲーム・オブ・スローンズ』や『キャシアン・アンドー』や『ONE PIECE』に匹敵するようなドラマはなかった。1984年の映画『ベスト・キッド』は素晴らしかったけど [2]原注:まあ少なくとも、映画の一作目は良作だった。 、2018年の続編テレビドラマ『コブラ会』とは比較するまでもない。
なので、個人的には中年になっても、ポップカルチャーの新奇性や向上性を認識できる。でも、今の大半のポップカルチャーは、テレビと違って革新的で限界に挑戦しているようには見えない。
ということで、ひとまずは多くの分野でポップカルチャーの停滞が現実に起こっていると仮定してみよう。停滞はなぜ起こったのだろう?
最初に変化するのはテクノロジーだ
文化について語っている多くの人は、文化を自律的なもの――草の根で勝手に生えてくるものか、権力者がトップダウンで押し付けるものだと考えがちだ。この暗黙の前提では、ブロガーや批評家、流行・文化発信者が集まって声高に叫べば、文化は単純に変容するとされている。なので、現代アメリカのポップカルチャーは「停滞」していると指摘し続ければ、アーティスト達は恥じ入ってなにか新しいものを作り出すだろうと、と。
実はこうした世界観を僕は苦手にしている。本能的に、文化の変化とは経済の変化であり、究極的にはテクノロジーの変化に起因しているといつも考えてしまう。テクノロジーは「可能性の空間」を形作る——自然そのものと一緒に、テクノロジーは人間が何をできるのかの限界を定めるんだ。テクノロジーが形作った「可能性の空間」は、人間の独創性と制度が埋めていくが、やがて限界に突き当たる。
「文化は全てに先んじて変化する」という有名なセリフを話したにもかかわらず、テッド・ジョイアは文化的停滞の根源はテクノロジーにあると基本的に考えている。彼は、スマートフォンの出現と、SNSフィードをスクロール化によって、若者は短期的なドーパミン快楽中毒以外に関心を払うことが困難となり、長く洗練された芸術作品の観客が減ってしまったと考えている。彼は以下のように書いている。
20年前、文化はフラット(平坦)だった。今やフラット(押し潰)されてしまった。(…)私は今でも多くのウェブ・プラットフォームに参加している。(…)でも、それらから息苦しさを感じている。(…)世界中の人々と繋がる代わりに、24時間265日「配信コンテンツ」を受け取っている。(…)Facebookははもう、海外の友人や元クラスメートや遠くの親戚と繋がることを望んでおらず、代わりにミームやくだらないショート動画を提供してくる。(…)TikTok、Instagram、Twitter、Threads、Bluesky、YouTubeショートなんかでノンストップで再生されてる、まったく同じミームや動画だ。(…)評論家レベッカ・ニコルソンは「我々は皆して同じ嗜好になりつつあるのか?」と問題提起して、音楽、TV番組、映画などあらゆるものに蔓延している、反復と類似性の免れない感覚について不満を表明している。
ほとんど皆と同じく、ジョイアも、魂のないアルゴリズムによるフィードを人々に提供しているSNS企業を、悪者だと特定して非難している。でも、SNS企業は、単にお金を稼ぐために市場インセンティブに従って行動してるだけだ。もし、SNS企業が何もしなくても、他の誰かが同じことをやって、最終的に同じ結果になるだろう。
誰もがポケットに入るインターネットに繋がるスーパーコンピュータを持てるなら、誰もが持つだろう。みんな持ってるスマホに、延々繰り返される短い動画コンテンツを、スムーズかつシームレスに配信できるようになれば、誰かがやるようになるだろう。人々がそれをタップしたりスワイプし続ければ、そうしたサービスが提供されるようになるだろう。 [3] … Continue reading
市場の働きを止める法律や政府権力がないなら、市場は人々が求めるものを提供することになる。
アーティストやクリエーターは、市場の需要によって制約された空間でしか、創作の選択肢を持てない――少なくとも、芸術で生計を立てたいとか、自分の芸術を大勢の目に触れさせたいと望むなら。確かに、純粋な情熱から趣味としてアートを作る人は多い。周りが流行りのTikTokのジングルを口ずさんでいる中でも、交響曲を作曲している人はたくさんいる。でも、大半のアーティストにとって、お金と人気という二つの欲求は強い。これは、アーティストの作り出す作品は市場に制約されることを意味している。つまり、作品は、選好とテクノロジーの交差によって決定されるのだ。
テクノロジーは消費者の需要を決定するだけじゃない。アーティストが供給できる供給物の種類も決定する。
低いところにあって簡単にもぎ取ることのできる果実
僕が小さかった頃、「オルタナティブ・ロック」と呼ばれる人気の音楽ジャンルがあった。「オルタナティブ・ロック」のメロディーでは歪んだパワコードのシーケンス〔音型の反復〕がよく使われていた。例えば、Collective Soulの『Shine』や、Silverchairの『Freak』や、Bushの『Machinehead』や、Liveの『All Over You』なんかだ。
これは良いサウンドだけど、できることはかなり限られている。パワコードで作れる短いシーケンス〔音型の反復〕は限られているんだ。1990年代中盤から後半にかけて、アメリカ中で郊外に住む若者たちがオルタナティブ・ロックのスターとして大成功を収めようと思っていた頃には、多分だけど、何十万、何百万人ものギターを弾く若者が、ガレージや寝室に座って揃いも揃って使えるシーケンスの探索を行っていた。これは、かなり低次元な空間での、群知能による総当たりのグリッドサーチ・アルゴリズムを実行してるみたいなものだった。
1990年代の若者たちがあらゆるオルタナティブ・ロックの楽曲を見つけ尽くしたとは思わない。作曲されていない素晴らしい楽曲もいくつか残っていた。例えば、2021年のPONYの『Chokecherry』だ。
でも、概して、オルタナ・ロッカーたちは、極小の自ジャンル内の低い枝の果実を採り尽くした。この路線でやれることはもうあまり残ってないし、オルタナ・ロックの聖典(カノン)はもうほとんど完成してしまった。
オルタナ・ロックの例は、特定のエンタメ形式には、有限の低い枝の果実しかなくて、最終的に採り付されてしまうことを示している。
この原理は、もっと広範なカテゴリーでの娯楽――例えば、メロディ(旋律)音楽そのもの――にも当てはまるはずだ。
作曲可能なメロディの数は非常に多いけど有限だ。2020年、二人のプログラマーが、メロディの盗作に関する知的財産訴訟を未然に防ぐために、あらゆる作曲パターンを網羅したMIDI曲をアルゴリズム生成して、無料で公開した。もちろん、このメロディのセットは膨大すぎるので、人間がこの全てに基づいて曲を録音・リリースすることは不可能だ。
もっとも実際、人の琴線に触れるメロディの数は、上の網羅パターンの中でも極めて一部だ。今でも僕はSpotifyやYouTubeで新しいロックを探すけど、大半はつまらない旋律の駄作に聞こえる。音符の連なりは、数学的に単純に定義するならメロディということになるが、僕からすれば音楽ではない。
そして、良いメロディを見つければ見つけるほど、新しいメロディは既存のメロディに似て聴こえるようになる。The Flaming Lipsの『Turn It On』は、Hootie and the Blowfishの『Let Her Cry』とは違うメロディかもしれないけど、片方を口ずさもうとすれば、もう片方を間違えて歌ってしまう程度には似ている。カート・コバーンは、『Smells Like Teen Spirit』が、ピクシーズの『Gouge Away』に似ていると思っていた。メロディのストックを使い果たすにはまだずっと先かもしれないが、新しいメロディと既存のメロディの距離感が縮まり始め、新しさは段々感じられなくなっていくだろう。

エンタメは形式としての制約が強ければ強いほど――つまりアーティストが新奇性を探求するスペースが小さければ小さいほど、革新性はすぐに新鮮さを失ってしまう。オルタナティブ・ロックの場合、そのスペースは非常に狭かった。メロディアスな音楽はそれより広い。音楽全体ではもっと広大だ。メロディには様々な音楽要素を付け加えることができて、全体的に編曲することで新奇性をもって聴かせることができる。メロディがまったくない曲もある。
でも、音楽全体としても、できることは多分限られている。夢見心地で幽玄な切望感ある音楽を作る方法はたくさんあるかもしれないけど、無限にあるわけじゃない。なので、そうした感情を呼び起こそうとすると、シューゲイザーみたいな音になる可能性が高くなる。
これが、映画がテレビに比べて似たりよったりな作品ばかりになった理由かもしれない。アダム・マストロヤンニのグラフが示すように、映画はわずか20年ほどで、リメイクと続編の割合が25%から80%になった。でも、テレビだと新奇性の減少率はずっと緩やかだ。

出典:アダム・マストロヤンニ
映画は、単純にテレビシリーズより尺が短い。これは、プロットやキャラクター描写の面でかなり厳しい制約になる。アメリカ人は、スクリーンからテレビに移行しているが、これについて話題になると大抵は、テレビ番組のクオリティアップが挙げられる。でも、映画は、ジャンルとして利用可能な新奇性の大部分を使い尽くした一方で、長編テレビシリーズはまだ勢いを保っているかもしれない。 [4]原注:テレビは後発のメディアだ。技術的に安価で見栄えの良い番組を制作できるようになったのはほんの最近だ。
映画のクリエイティビティは斜陽になったのに、テレビが2010年代に黄金時代を迎えたように見えた理由はこれかもしれない。
むろん、もしそうなら解決策は、新しい芸術形式を探求してみることだ。映画が陳腐化してるなら、テレビで何かできるか試してみる。ロックが陳腐化してるなら、エレクトロニカで何かできるか試してみる。
楽観論者の中には、アメリカのポップカルチャーは全く停滞しておらず、単に新しい異なる形式に移行しているだけだと主張する人もいる。去年の記事で、キャサリン・ディーは、文化的アウトプットが、新しいフォーマットに移行したので、書籍・音楽・映画のような旧形式の重要性が単に低下しているだけだと主張している。
私たちは、新しい文化に取り囲まれている。(…)私たちはそれを「文化」を認識していないだけなのだ。(…)これら新しい文化形式が批評家に無視されているのは、重要だと認識されていないからだ。(…)。SNSでのパーソナル(人格)は、新しい文化形式の一例だ。(…)。パフォーマンス・アートとまでは言えないが、それに近いものだ。(…)。TikTokも同様だ。(…)TikTokには多くのイノベーションがある。特にコメディ分野だ(…)。Pinterestでムードボードを作ったり、TikTokで美的感覚をキュレーションすることも、芸術形式の進化だ。画像や音を使って雰囲気、つまり「ヴァイブ」を構築すること自体が、ストーリーテリングの一形態だが、まだ十分に理解されていない。(…)。私たちはこれをまだ完全に説明できる言葉をもっていないが、没入型アートの一種である。
20世紀の偉大なメディア――アート・ポップのアルバム、長編映画、画廊展示、文芸小説は滅亡の危機にあるが、それは即時性として定義できる新しい形態――ショート動画、トークポッドキャスト、ビデオゲーム、ミームと競争しているからだ。旧メディアと同様に、こうした新形態も大量の凡作を生み出す。でも、驚くべき傑作も生み出す。
ポップカルチャーの歴史を見れば、新奇性は常にテクノロジーの進化によってもたらされてきた。ロックは、アンプとピックアップマイクが発明されて初めて可能になった。エレクトロニックダンスミュージックは、シンセサイザー、ミキサー、サンプラーが発明されて初めて可能になった。映画やテレビは、カメラや他の多くのテクノロジーを必要とした。本でさえも、印刷機の登場までは作るのが非常に困難だった。
テクノロジーそのものでさえ、いずれ停滞が訪れるかもしれない。イノベーションはますますコストがかさんでいて、潜在的な研究者の予備軍も縮小している。AIが僕らを救って、技術進歩と文化的新奇性の両方を復活させるかもしれないが、まだ定かでない。
前衛(アヴァンギャルド)芸術はどこにいったのだろう?
アメリカのポップカルチャーが似たりよったり繰り返しになっているという批判と並んで、少し争点が異なる芸術性が低下しているという主張もある。アヴァンギャルド・アート(前衛芸術)は消えて、軽薄な消費者向け大衆文化に取って代わった、というものだ。この考えの提唱者の一人が、僕の友人であるデヴィッド・マルクスだ。彼は、キャサリン・ディーの新しい文化形態論に対して、次のように書いている。
TikTokやインスタグラムReelsでの寸劇は、サマーキャンプのタレントショーで子どもたちがする内輪ネタを、磨き上げて、プロっぽく編集したもののようにしか思えない。(…)クリエイターのほとんどは(…)テンプレ化されたフォーマットで仕事をしている芸術志向のないアマチュアだ。(…)「デジタル寄席」という言葉が全てを語っている。「芸術の可能性を拡張する創造的実践」ではない。
そして、『アトランティック』誌に掲載されたスペンサー・コーンハーバーの長文記事への回答として、マルクスは次のように書いている。
文化における「進歩」を定義する唯一の方法は、娯楽(エンターテインメント)と芸術(アート)の間に明確な線を引くことだ。しかし、この定義は非常に不人気になっている。(…)。[2000年代と2010年代の]新しい批評におけるコンセンサスは、クリエイティビティ(創造性)を階層的に考えるのををやめるように要求した。「高い(ハイ)」カルチャーと、「低い(ロー)」カルチャーは存在しない。どれもただの文化だ、と。(…)。このイデオロギーは「ポップティズム」として知られるようになった…。
ポップティズムは、大衆文化を文化の中心に据えたが、これは私たちを失望させた。次に、ポップティズムによる批評は、「クリエイティビティ(創造性)」はいかなる場所でも起こり得るという間違った約束を提供した。これは一部の創造的な試みや形式が、持続的な芸術作品を作り出すある種の文化的発明になるという事実を無視するものだった…。
21世紀のポップティズム世代の批評家は、ハイ・カルチャー(高い芸術)と、ロー・カルチャー(低い芸術)の分離を拒否した。彼らは、マライア・キャリーとカート・コバーンの間に意味のある違いなどないと主張したのだ。(…)。あらゆるクリエイティブな試みが、独創性や形式的の熟練の水準において同等というわけではない。子供のフィンガー・ペインティングは、マーク・ラストとは明らかに別物だ。なんらかの作品が芸術に近づくのは、新しい美的効果を生み出すために既存の慣習に挑戦したり、遊び心を付け加えて新たな美的効果を生み出した時だけだ。エンターテインメントとは(…)、聴衆の注意を一時的に惹きつけ刺激を与えるだけのものであり、これは通常だと使い古された伝統的な定型を利用して作り上げることができるものだ。
観客はそう簡単には騙されない。(…)。観客は、曲が単なる「ノリのいい曲」でしかなく、変革的な芸術ではないことを見抜くことができる。
マルクスは、「アート(芸術)」と「エンターテインメント(娯楽)」を、その質ではなく、クリエイターの意図に基づいて区別している。「アート」とは、クリエイターが、新しい形式やアイデアによってクリエイティブな表現の限界を押し広げようとするものであり、「エンターテインメント」とは、クリエイターがただ大衆を喜ばせようとしているものである、と。クリエイターがアートを作るのをやめて、エンターテインメントだけを作るようになると、新奇性が減少してしまう。限界を押し広げようとする苦闘する人がいなくなり、アヴァンギャルド(前衛)が存在しなくなるからだ、と。
マルクスの定義は妥当なもので、仮説としても妥当だ。でも僕的には、物事はそこまで白黒はっきりしていないんじゃないかと思う。エンターテイナーの多くは、大衆を楽しませるため、新たな儲け手段を見つけようと悪戦苦闘し、物凄く創造的に働いている。1977年の映画『スターウォーズ』にどれだけの労力と創意工夫が凝らされたかを知るために『メイキング・オブ・スター・ウォーズ』という本を強くお勧めしたい。 [5]訳注:実際、この本は僕が誰かにオススメしたことがある唯一の「メイキング」本だ。 もっともまあ、新奇性を目的として意図的に新奇性を作り出そうとする人が減れば、新奇性そのものもおそらく減少するということは確かだ。
問題となっているのは、なぜクリエイターは、アートからエンターテインメントに軸足を移したか、ということだ。マルクスは文化を自律的なものだと考えているので、エンターテインメントとアートを同じだと教え込んだ「ポップティズム」の悪影響を批判している。でも僕的には本能として、テクノロジー的な理由を探してしまう。
アバンギャルド(前衛)について考えると、思い浮かべるのは、他のアーティストに向けてアートを作るアーティストの存在だ。もしキミが、キャンバスに色のついた四角形や、絵の具を散りばめただけの絵を描いても、普通の人はキミの作品と、小さい子供の作品と区別できないかもしれないない。でも、アーティストなら、自分たちが取り組んできたパラダイムを覆そうとしている――アートとは何らかの意思表示を作り出すことにあることを理解するだろう。それは、アーティスト仲間にしかわからない種類のものだ。
ある種のアーティストは、常に他のアーティストが見て、反応して、評価されるようなものを作ることを望んでいる。もっとも、昔だと、アーティストの多くは、テクノロジー的な必要性からそれをせざるをえなかったのだと僕は思う。
昔だと、良いアーティストを発掘するのは本当に困難な作業だった。制作会社や出版社は、多くの労力を費やして探し回り、クリエイターの作品が商業にどこまで売れるかを推測しなければならなかった。昔だと、麦ともみ殻を見分ける簡単な方法は、基本的にピアレビューシステムを利用することだった。つまり、クリエイターがアーティスト・コミュニティでどれだけ目立っているかを、大衆に受け入れられるかどうかのバロメーターをして使うわけだ。
なので、アーティストの多くは、他のアーティストを感動させようとした。なぜなら、そうしなければならなかったからだ。他のアーティストたちは、いつも作品の最初のゲートキーパー(門番)だった。アーティスト・コミュニティ内で目立つことが、アーティストの発見と同義だった。ジョージ・ルーカスが映画『フラッシュ・ゴードン』の企画をフォックスに持ち込んだ時、スタジオはアート系映画のフェデリコ・フェリーニじゃないと駄目だと言った(もちろん、これは実現しなかったので、ルーカスは代わりに『スターウォーズ』を作った)。
2020年まで時計の針を進めると、アーティスト・コミュニティはもうほとんど仲介機能をは果たしていない。もしキミが商業的に成功するクリエイターになりないなら、今から始める方法は、閉鎖的でこぢんまりとしたアーティスト・コミュニティで存在証明に奮闘することじゃない。作品をオンラインで公開して、それがバズるかどうかを見ればいいんだ。もしバズれば、キミは成功したということだ。
つまり、売れることを目標にしているクリエイターなら、アーティストを感動させるような作品を何年もかけて作らなくとも、売れることができる。もちろん、クリエイターの中には、他のアーティストを感動させたいと本気で考えている人もいる。でも、お金に目がくらんだクリエイターが、アーティスト・コミュニティを離れてしまうと、そのコミュニティには感動をもたらす人が少なくなってしまう。コミュニティは、どんどんニッチでスノッブになっていく。そして、アートの世界から大衆文化へのクロスオーバーは少なくなる。なぜなら、アートの世界に残っているのは、名声や富を得ることにあまり気にしない人ばかりになるからだ。
では、この僕の仮説が正しいとするなら、アバンギャルドを復活させるにはどうすればよいのだろう? 1つのアイデアは、大学をモデルにすることだ。つまり、アーティストの生活領域を、たくさんの公共財で物質的に平等にして、ある程度閉鎖的な空間にすることだ。アーティストの生活水準を引き上げると、アーティストは金持ちになる切迫感を持たなくなる。そして、多くのアーティストが近くにいることで、アーティストは互いを感動させようとして新奇な芸術を生み出すようになるだろう。これはまさに学問の世界で、教授たちが互いを感動させようとしているのと同じだ。
もっとも、こんな新しい制度がこれから生まれるかについては疑問だ。大学モデルそのものが問題を抱えているし、教授たちがクールなアートを作れることだけで、政府がアート・スクールに資金を投じるとは思えない。
それでも、これは基礎的な原理だ。もっと新奇性を求めるなら、アーティスト同士がもっと共同するように仕向けないといけないと思う。テクノロジーによってアーティストがゲートキーパー(門番)としての役割を果たさなくなった世界で、どうやってそれを実現するのかについて、僕には具体策は思いつかない。アメリカでは、アートの停滞がこのあともずっと続くだけかもしれない。
まとめると、僕は文化的停滞をある程度まで現実だと思っているが、根本的原因はテクノロジーの変化にあり、それゆえに解消するのは非常に困難だと思っている。
[Noah Smith, “Why has American pop culture stagnated?” Noahpinion, May 14, 2025]
References
↑1 | 原注:これらの例を僕はAI(ChatGPT o3)に見つけてもらった。執筆で僕がAIをどう活用しているか気にしている人に、僕のやり方を教えておこう。たしかに、AIで探したけど、AIは事実誤認をいろいろ吐き出したので、間違えた記事を書いてしまわないように徹底した確認が必要だった。 |
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↑2 | 原注:まあ少なくとも、映画の一作目は良作だった。 |
↑3 | 原注:SNSの有害性が遡上になると、大抵の場合には、ユーザーがなんらかのエコシステムに閉じ込められてしまうネットワーク効果が話題になる。交流しようとしたユーザーが揃ってそこに閉じ込められてしまう、と。TikTokやそれに類似するアルゴリズムは、そうしたものではない。ユーザー間の交流はほとんどない。Instagram Shortsの動画でも、TikTokのものと同じように楽しめるはずだ。なので、SNSの切り替えコストはほとんど存在しない〔「アルゴリズムによって特定のSNSに閉じ込められる」みたいなことはない〕。アルゴリズムによるフィードとは「プッシュ型メディア」であり、これはテレビの一種だ。中毒性はあるかもしれないけど、ネットワークの罠ではない。 |
↑4 | 原注:テレビは後発のメディアだ。技術的に安価で見栄えの良い番組を制作できるようになったのはほんの最近だ。 |
↑5 | 訳注:実際、この本は僕が誰かにオススメしたことがある唯一の「メイキング」本だ。 |