ルーホラ・ラメザニ「イラン人はただ普通の国家を望んでいる」(2026年1月14日)

現在の蜂起の背景には、複雑で過激なイデオロギーが存在している。
イギリス、ロンドンにあるレザ・パフラヴィーを描いた看板。(写真:マーティン・ポープ/SOPA Images/LightRocket via Getty Images)

イラン政府はその権威に対するかつてない挑戦を受けている。イラン政府が完全な情緒遮断を実施した数日後にイランから出国したジャーナリスト兼哲学者のルーホラ・ラメザニによるこの記事を掲載できることを、我々編集部は喜ばしく思う。イラン国内で起きている蜂起を直接目撃したルーホラによる、街頭で広まっている新しい抵抗イデオロギーを分析したものだ。
編集部


何十年ものあいだ、世界はイランを、ステロタイプ、つまり非常に時代遅れになりつつある色眼鏡を通して見てきた。「文明の衝突」、「改革のための闘い」、感動的な修辞「女性・生命・自由」といったものだ。欧米の観察者たちは、自らの政治的分法に当てはまるナラティブをイランに求めてきた。

しかし今、イスラム共和国が、(光ファイバーと携帯通信を遮断し)自国を完全なデジタルの暗闇へと陥れたことで、イランでは沈黙の中での新しい現実が固まりつつある。スターリンクや秘密通信で漏れてくるイランの国内情報から、多くの欧米国民の先入観と矛盾している根本的な変化が起こっていることが明らかだ。イラン国民はもはや、テーブルにつくための席〔既存の政治体制の中での発言権や政治参加〕を求めていない。完全に別のテーブル〔新しい政治体制〕を要求している。

12月28日以来イランを揺るがしている今回の運動は、神学的枠組みの中での人権の訴えでもなければ、世界的なアイデンティティ・ポリティクスの一部でもない。それは、世俗的ナショナリズムへの、深遠で実用的、かつ強まる急進的な回帰である。抗議活動はバザールから始まり、最も保守的な地方にまで広まっている。この拡散過程で、抗議活動は欧米リベラル・メディアを20年間魅了してきた〔現行体制を維持したままの〕曖昧な改革を踏み越えたのである。今回の行動は、イデオロギー的消耗の運動だ。経済的破滅と国際的な孤立しかもたらさなかった「イスラーム革命」からほぼ50年が経過し、イランの街頭は、生々しいリアリズムを受け入れることになった。

今回の新しい政治的想像力の中心では、「復古主義」が驚嘆するほど広がっている。欧米の論者たちは、フェミニストの蜂起と見ているが、現地の人々はパフラヴィー君主制の復帰を声高に要求している。これは、絶対的専制への回帰ではなく、聖職者による「共和制」を失敗とみなし、それへの象徴的・制度的な防壁として要求しているのである。イランの人々が望んでいるのは、特異なイデオロギー的プロジェクトをやめ、ついに「普通」の国になることだ。

〔ヒジャブ着用を咎められた〕マフサ・アミニの死を受けて、イラン全土での抗議活動と、そこで掲げられた「女性、生命、自由」というスローガンが世界的に受け入れれらたことは、欧米メディアによるイラン消費の典型例だった。ヒゲを生やした中世家父長制に立ち向かってスカーフを燃やす勇敢な女性たちという分かりやすいナラティブを提供したからだ。こうしたフェミニズム的核心が、政権への不満の重要なきっかけであった(そして今もそうである)ことに変わりはないが、欧米の注目はしばしば色眼鏡として作用し、この運動が持つ、欧米にとって居心地の悪い、体制全体を問う要求を見えなくしてしまった。

〔地方の〕エスファハーン州の商店主やフーゼスターン州の労働者にとって、ヒジャブは単に抑圧的な衣服ではない。それは、国家経済を窒息させてきたイデオロギー統治という巨大な織物のなかの、目立つが一本の糸にすぎない。多くのイラン国民にとって、この闘いを特権的に「権利に基づく」闘争として描くことは、単純化に感じられるのだ。女性の髪を露出する権利の支持には熱心である一方、モスクの焼き討ちや聖職者国家の完全解体を求める明確な呼びかけを報じるのを躊躇する、欧米メディアの姿勢をイラン国民は冷めて見ている。

こうした乖離は、イラン人の願望と、欧米の進歩的感性との間に潜む深い緊張を露呈している。今起こっている運動は、体制を内部から修正できるという「改革」の希望を超え、現体制そのものを完全に「打倒」(バーランタージ)し、国家を占領しているイデオロギー勢力から国家を奪還したいという願望へと移行したのである。

おそらくだが、欧米の知識人にとって今回の運動でもっとも理解しがたい側面は、王政復古主義の高まりだろう。テヘランの広場や、伝統的に宗教色が強い地方都市の路上では、「これが最後の戦いだ。パフラヴィーが戻ってくる」との呼びかけが定番になっている。これは、1979年のイスラム革命で追放された国王(シャー)の息子レザ・パフラヴィーのことだが、イラン人が王政時代のことを忘れ去ってしまっているわけではない。これは、中東において、イスラム原理主義や軍事独裁と同義語になってしまっている「共和主義」という失敗に対する、計算された現実的な反応なのだ。

イランでは現在多くの知識人が、何世紀にもわたって宗教制度が深く根付き、この半世紀で宗教制度が過度に武器化されてきたイラン社会においては、いかなる未来の共和国でも必然的に再び「イスラム共和国」へと陥るリスクがあると論じている。知識人たちは、現在の神権政治が共和国を名乗り、共和国のメカニズムを使用して聖職者支配に民衆の委任という額面を与えているという厳然たる事実を指摘している。そのため反体制派の間で広がりつつある合意は、民主主義は君主制と完全に両立しうるというものだ。スウェーデン、日本、英国といった安定した世俗的民主主義国を例に挙げながら、彼らは立憲君主制は脆弱な新興共和国には欠けている中立的なアンカーとして機能し得ると論じている。王座は権力の座としてではなく、世俗的な盾、つまり国益が宗派的利益に優先することを保証する保護殻として再構想されているのだ。

今回の運動は、欧米が理解しているように政治的「右派」に沿うものではない。イランという特殊な状況下では、人権、個人の自律、法の支配といった自由主義的な理念は、欧米人が「保守的」と呼ぶかもしれない立憲君主制という手段によってこそ確立されうると、イランでは論じられている。

その結果、パフラヴィーがこの願望の焦点として浮上している。それは必ずしも伝統的意味における王としてではなく、「普通」・世俗的・親欧米的な国家の象徴なのだ。パフラヴィーの支持者たちは、彼を分裂した諸勢力をまとめ、権力の空白による混乱を回避するための、移行管理ができる唯一の人物と見なしている。


欧米の外交は何十年間も、イラン国民が「強硬派」と「改革派」の間で板挟みになっているという考えに基づいてきた。しかし、今日、その二元論は終焉を迎えている。今起こっている運動は、聖職者体制全体に対する、本能的で、ほぼ実存的な拒絶を特徴としている。

〔イラン国民が神権体制に〕裏切られたという感覚は、最近になって暴露された国家予算内容によってさらに強まっている。国家が驚異的な赤字に直面しているにもかかわらず、非生産的な宗教機関やイデオロギー・プロパガンダ機関への支出が大幅に増加していることが明らかになったのだ。イラン国民は、自国の富が、国民の福祉に全く関心のない「神学的な虚栄プロジェクト」への資金調達として食い物にされているのを目の当たりにしている。

この「新しいイラン主義」は、国際的な進歩主義的運動と直接的に摩擦を起こしている。
「ガザにもレバノンでもない。我が生命はイランのためだけに」というスローガンが顕著になってきているが、これはおそらく最も誤解されている言葉だ。欧米の左派からは、これは狭量主義や、冷酷な孤立主義に聞こえるかもしれない。しかし、イラン人にとって、これは自国政府に対する反植民地的抵抗の叫びなのだ。イランの民衆は、政権が膨大な資源を注ぎ込むパレスチナ問題を、自分たちの貯蓄、インフラ、国際的地位が吸い込むブラックホールと見なしつつある。

これこそが昨年、イスラム共和国(イラン)とイスラエルとの間で起きた12日間の戦争の際、多くのイラン人がイラン政権のインフラへの攻撃を公然と歓迎し、外国の軍事的圧力を解放への潜在的なきっかけと見なした理由である。これは伝統的な意味での「好戦的」感情ではない。それは囚われの民の絶望なのである。

同様に、今の抗議活動の参加者の間で広く共有されている見解は、現在の政権構造では経済改革が根本的に不可能だというものだ。なぜならその現体制の存続そのものが、孤立を必然とする反欧米、反米のイデオロギーに依存しているからである。こうした認識は、イランの政治的想像力において論争を巻き起こす転換をもたらした。そして、外国からの圧力の受け入れ論が強まっている。リベラルや元左派も含むイランの知識人の一部が、欧米の指導者宛てに、「最大限の圧力」や「標的を絞った攻撃」を求める書簡に署名するのは、自国の主権を放棄しているわけではない。彼らは、デジタル遮断と準軍事的暴力によって国内からの変革メカニズムが完全に破壊されたため、国外からの衝撃のみがこの膠着状態を破れるのだという確信を表明しているのである。


イラン国民が望んでいるのは、イスラム共和国の改良版でも、ユートピア革命でもない。イラン国民は、イラン史において異常な時代が終わることを望んでいる。イラン国民は、イデオロギー的な「フロンティア」よりも国教を、「殉教者」よりも市民を、7世紀の怨恨よりも未来を優先する、普通の国民国家に戻りたいのだ。

イランでは苛烈な世俗的リアリズムが台頭しつつある。この抗議運動は、欧米に対する「グローバル・サウス」の闘争という色眼鏡ではなく、欧米の政治・経済圏に再び加わるための闘争のために、イランのアイデンティティを再定義するものだ。これは反帝国主義やアイデンティティ・ポリティクスとして単純に定義できない運動である。しかしそれでもなお、これは我々の時代においておそらく最も真正な民主主義プロジェクトなのだ。

著者紹介:ルーホラ・ラメザニ氏は、哲学博士号を持つイラン人ジャーナリスト兼作家。イデオロギー、政治的言説、中東政治について主に執筆している。

[Roohola Ramezani, Iranians Just Want a Normal Country, Persuasion, Jan 14, 2026.]
〔訳注:本記事は、ルーホラ・ラメザニ氏と掲載元のPersuasion誌の許可に基づいて翻訳・公開している。著作権等全ての権利はルーホラ・ラメザニ氏とPersuasion誌に帰属している。〕

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