進歩的な社会変革を実現するのが難しい理由の1つは、社会の仕組みがよく分かっていないことである。私たちは、エイリアンのテクノロジーの断片を、内部機構もよく分からないままいじくっているようなものだ。私たちに観察できるのは、その内部機構へのインプットと、それが生み出すアウトプットだけである。実際、マルクスの仕事が未だに魅力を持ち続けている理由の1つは、歴史的発展の基本法則を発見したと謳っていることだ。そうすることでマルクスは、社会主義に「科学的」地位を与えようとした。もう、過去の「空想的」社会主義者たちのようにあてずっぽうで行動を起こす必要はない、というわけだ。マルクスの理論によって、人間に課された制約が正確に突き止められ、どんな介入を行えば解放的な帰結がもたらされるか(あるいはもたらされないか)を事前に知ることができる、とされた。
マルクスの提示した具体的な理論は間違っていることが明らかとなった。それでも、彼の切った約束手形は尽きることのない魅力を放ち続けている。批判理論家たちが、今日に至るまで社会理論の構築に取り組み続けているのはそのためだ。啓蒙思想の根底にあるのは、体系的かつ規律づけられた人間理性の行使によって、人間の置かれた条件を改善できる、という約束であった。歴史を振り返ると、人間社会の大きな発展はいずれも、〔理性の行使ではなく〕試行錯誤を通じて生じ、戦争によって広められていくことが多かった。だが啓蒙思想は、社会の仕組みを正確に理解することで、まぐれや文化進化に頼ることなく、意図的に社会変革を生み出せる、という信念にコミットしてきた。
残念ながら、人間社会を維持することは、文法に則って発話することに似ている。つまり、私たちはどうやればいいかを知っているのだが、実際に自分たちがそれをどうやっているのか説明することができないのだ。そして、いくつかの側面はひどく謎に満ちている。この謎の中核にあるのは、かつてイマヌエル・カントが刺激的なフレーズで呼びならわした人間の特徴、すなわち「非社会的社会性(unsocial sociability)」である [1]訳注:「社交性」と訳されることも多いが、ここでは社会科学や進化論の文脈と違和感なく接続するために「社会性」という訳語を選択した。 。一方で、人間が生まれつき、協力的な社会生活に適応していることは明らかだ。人間は他人に依存して生きている(生存に関わる様々な場面においてだけでなく、知的達成の面に関しても)。他方で、人間は顕著に反社会的な性質をそなえてもいる。これは、暴力や犯罪、天邪鬼な反応、他者と上手くやっていくことの拒否などに明白に見て取れる。
カントは続けて、やや挑発的な主張を行っている。すなわち、この人間本性の2つの側面の間の緊張関係こそが、人間社会における進歩の要因になっている、と言うのである。人間本性に「非社会的」側面が含まれていなければ、社会はすぐに望ましい定常状態へ至れるはずだ。そして、「社会的」側面が含まれていなければ、革命的な洞察に基づいて社会的な便益を実現することはできなくなる〔そのため、どちらが欠けていても社会の進歩は生じない〕。(これは認識論における難問とアナロジーになっている。全員が完璧なベイズ推論者であれば、科学者共同体が拒否するような奇抜な理論をわざわざ追究する人は存在しないだろう。それでも、奇抜な理論はときに正しいことが判明し、科学的進歩をもたらす要因の1つとなっている。そのため、集合的達成としての科学的進歩が生じるためには、一定数の人々が非合理にふるまう必要がある。)
カントのこの考察は、現代の科学用語に簡単に翻訳できる。人間進化の理論における近年の最も刺激的なブレークスルーは、「自己家畜化」仮説だ。自己家畜化仮説の出発点は、人類のそなえる生理学的特徴の多くが家畜種にも見られる、という観察である。家畜種に見られる特徴は普通、暴力性を減らすための淘汰プロセスの結果として生じたものだ。人間がオオカミを犬に変える上でどのように淘汰圧をかけたか理解するのは難しくない〔人為的に繁殖を管理したのだ〕。だが、人間が同じことを人間自身に向けても行っていたかもしれないとすると、これは進化理論上の難問となる。この問題に対する説明として最も説得的なのは、遺伝子-文化共進化の理論に訴えかけるものだ。人間の文化(同調的な社会学習によって伝達される)が、集団間競争において向社会的な規範の発展を有利にし、それが攻撃性を不利にするような社会的な淘汰メカニズムとして作用した、と論じるのである。結果、人類は実質的に、リチャード・ランガムの言う「アルファ個体を取り除く(offing the alphas)」プロセスを通じて、人間自身を家畜化した。
この仮説には大きな利点がある。だが、この仮説を提示した人類学者たちは、主として小規模社会を研究しているため、家畜化プロセスの徹底ぶりを過大評価しがちだ。人間はむしろ、「準家畜化」された種と言った方が正確だろう。私たちは、2者間や小規模な集団において協力を促すような心理的適応をそなえている。だが、そうした狭い配慮の輪を超えて集団が拡張していくと、反社会性や攻撃性を制約する力は弱まっていく。
人間の社会性が及ぶ範囲は、時とともに拡張してきた。これは、小規模な協力を支える基礎的な性向の上に、より拡張的な協力のシステムを支える制度的インフラを重ねることで実現されてきた。これにより、おなじみの心理生活上の分裂状態が生じる。すなわち、私たちを取り巻く社会環境は常に、私たちの内なる心理的衝動から引き出される以上の向社会的行動を要求する。だからこそ、私たちは他人と上手くやるため、また社会的な期待に応えるために、多くの思考や欲求を抑制しなければならないのだ。この観点からすると、文明とは、「生得的な心理的性向によって自然と生じる範囲を超えた、より拡張的な協力関係を課す社会構造」として理解できる。文明は、クルージ、すなわち人間本性の限界に対する回避策の集合体によって築かれている。ある意味で、それは巧妙な仕掛けの詰まったごちゃ混ぜの道具箱のようなものだ。それらの仕掛けは、準家畜化された霊長類の大集団を、完全に家畜された種のようにふるまわせる道具として、役に立つことが証明されてきたものである。
こうした仕掛けの中でも最も古くから存在するのが、反社会的行動に対する組織的な処罰だ。反社会的行動をとれば、組織的な処罰がなされると脅しをかけることで、個人が持ち得る向社会的動機づけを補完するのである。あらゆる社会にはルールが存在するが、小規模な社会では、ルールはインフォーマルかつ分散的な仕方で実効化される。だが、法律が発展していくと、こうしたルールは明示的に表現されるようになり、暴力の専門家たちが、その実効化の脅しを信頼可能なものにする。これは、ヒエラルキー的権威の発生をもたらす基本的な構成要素だ。このイノベーションにより、新石器革命と結び付けられる人間社会の規模拡張が可能となった。
もっと最近になって登場した仕掛けとして、競争を利用することで間接的に協力的な結果を達成する、というものがある。個人の自己利益的な動機づけを操作して、競争的なインタラクションに取り組ませることで、(誰も意図していないにもかかわらず)協力的行為によって達成されるのと同じような結果が生み出されるようにするのである。こうした仕掛けは、敵対的制度として知られている。最も有名な例は市場だ。敵対的制度は、適切に構造化されていれば、様々なメリットを持つ。例えば、複雑な協力システムに参加することは、個人の動機づけに負担をもたらすが、敵対的制度によってこうした動機づけの負担は緩和される。敵対的制度は、私たちの反社会的な衝動を飼いならして、その負の効果を中和し、全体にとって有益な結果をもたらすよう仕向けるのだ。
進化的に獲得されたどんな特徴に関しても言えることだが、家畜化と結びついた性向(ドミナンス傾向、攻撃性、同調性、報復性など)の強弱には個人差がある。また、社会がそうした性向をどの程度促進したり抑制したりしているか、社会性を拡張するためにどんな仕掛けを利用しているかも、社会ごとに異なる。過去数世紀の間にリベラルな社会が辿り着いた偉大な発見の1つは、敵対的制度(最も重要なのは市場、だが多党制の競争的デモクラシーも含まれる)を賢く利用すれば、個人の行動に対する社会的コントロールの度合いをかなり緩めても、社会はなんとか機能する、というものだ。
カントはここでも、このプロジェクトの根本にある野心を完璧なまでに明確に述べている。
国家を組織化するという課題は、どれほど困難に思えるとしても、解決可能なものだ。悪魔の種族であっても、知性さえあれば、国家を組織化することができる。問題はこうだ。「合理的存在の集団を考えてみよう。この集団は、普遍的な法がなければ存続できない。だが、集団内の各個人は、自分だけ隠れて普遍的な法から免れようとしがちである。このとき、各人の対立する意図が互いを抑制しあうように仕向け、まるで人々が私的な意図など持たないかのようにふるまうようになる、そんな憲法を制定するにはどうすればよいか」。
以上のような文明の理解は、目下、人間の集合行為の最先端を走る2つの国、すなわちアメリカと中国を理解する上で、最適の枠組みであると私は考えている。ダン・ワン(Dan Wang)は最近の著書『ブレイクネック』〔未邦訳〕で、米中を対照的な国として分析している。本書によると、中国はエンジニアが動かしている国である一方、アメリカは弁護士が動かしている国だという。ワンには最大限の敬意を表したいが、この比較は私には表層的に思える。米中は、人間の社会秩序の2つの極の限界を押し広げようとしていると理解する方が合点がいく。すなわち、中国は向社会的行動の水準を最大化しようとしている(敵対的制度は、必要な場合に渋々受け入れるだけだ)。一方、アメリカは反社会的行動をどこまで許容できるかに挑戦している(協力はときどき必要になった場合に受け入れるだけだ)。どちらの社会実験も、それぞれの仕方でディストピア的である。

両国の対照性は、コロナ対策において劇的な仕方で現れていた。両国のコロナ対策は、それぞれの国の意思決定を特徴づける、根本的な社会のモデルを反映するものだった。中国政府は、社会を巨大な機械として捉え、個人をその構成要素と見なしていた。これは、ハチの巣に社会の理想を見出す昔ながらの考え方だ。個人は、全体にとって最良の結果をもたらすために、自分の役割を果たすべきだとされる。コロナ禍の際には、全員が自らの役割を果たせば、感染の連鎖を断ち切ってウイルスに打ち勝つことができる、と思われていた。こうして中国政府は、市民の行動に対して未曽有の水準の規制を課した(これを象徴するのは、防護服を着て作業に当たる医療従事者、いわゆる「大白」が至るところに現れていたことだ)。
中国が依然として共産主義の建前をとっているのは残念なことだ。というのも、中国がコミットしている理念を最も正確に表現している西洋のイデオロギーは、マルクス主義ではなく功利主義だからだ。中国政府は、他のどんな国よりも容赦なく「最大多数の最大幸福」を追求しており、そのために特定個人の利益が犠牲になることも厭わない。この姿勢は、コロナ対策にも明確に現れていた。そしてまた、これは功利主義の最大の欠陥をよく映し出している。すなわち、人格の個別性を無視し、個人の望みや夢を本質的に交換可能なものとして扱い、集計的な結果にしか目を向けないということだ。
アメリカ政府によるコロナ対策は、中国とは対照的で、完全なる無秩序であった。パンデミックの時期にカナダとアメリカを複数回往復した人間として言うと、両国のコロナ対策の差は衝撃的なものだった。ソーシャル・ディスタンスを保つために店で列に並ぶといった、最も基礎的な集合的達成すら、ほとんどのアメリカ人の協力性のレベルを超えているということが判明したのだ。アメリカでは、ワクチンを打つことは集合的なプロジェクトへの貢献ではなく、病気から自分の身を守る方法として奨励された。あれから数年経ったが、アメリカ人のかなりの割合にとって、当時政府が市民に課したごく些細な要求が、未だにトラウマとなっているように見える。
アメリカは「自由の国」と呼ばれることがあるが、そこでの「自由」とは基本的に、「個人の自由」という政治的価値への一貫したコミットメントではなく、反社会的行動への許容度の高さによって生み出されたものに過ぎない。アメリカの制度は悪魔のような人々の行動でも制約できるとの信念に基づき、アメリカ人は悪魔としてふるまうようになる。その最も象徴的な例として私がいつも思い浮かべるのは、「ローリング・コール」だ。これは、ディーゼル・トラックの運転手が、排気ガス浄化システムをわざと無効化して、大量の黒煙を吐き出せるようにする行為を指す。こうすることで、プリウス(今ならどんな電気自動車でもいい)のそばを通るときに大量の排気ガスを排出して、環境意識の高い運転者の努力を台無しにできるのだ。
あるレベルでは、私はこの心理を完璧に理解できる。私自身も、ある種の道徳的説得に対しては非常にネガティブな反応をしてしまうタイプだからだ。例えば、なんらかの大義への連帯を示すために、全員に同じピンをつけさせたり、全員の襟の色を同じにしたりするキャンペーンは、大嫌いである。11月にポピーを身につけるよう言われただけでも [2]訳注:第一次世界大戦が終戦した月である11月に、戦没者追悼の意を込めてポピーの花を着用するならわしが存在する。 、我が内なるザック・デ・ラ・ロッチャ〔レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのボーカル〕が拒否反応を示したほどだ。

弁明のために言っておくと、私がこうしたキャンペーンを嫌っているのは、個人に対して発言や象徴的な意思表示を強制しようとしてくるからだ。しかし、それに従うべきもっともな理由が示されれば、話は全く違ってくる。そのルールに従うことが、協力を実現する上で不可欠であり、それが全員の状況を改善するならば、私は喜んでルールに従う。ワクチンを打つこと、横断歩道で歩行者のために車を一時停止させること、自宅の前の歩道の雪かきをすること、リサイクルのものとゴミとを分別すること、これらに関しては、私はなんの抵抗もない。だが、多くのアメリカ人は、協力的な行動を求めるどんな要請に対しても、等し並みに「くそったれ、お前に指図されたことなんかやらない」 [3]訳注:原文は“fuck you I won’t do what you tell me”で、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの“Killing In The Name”の歌詞の一節。 という激しい反応をしてしまうようだ。
これは、アメリカ人の心性の大きな部分を占めている(デ・ラ・ロッチャの存在が示しているように、右派だけでなく左派にも共有されている)。トランプ政権を理解する最良の方法は、その主要なアクターたちが国家規模でローリング・コールを行っている、と捉えることだ(明白な例が気候変動だ。トランプ政権は石炭に補助金を出し、再生可能エネルギーのプロジェクトを妨害している)。トランプは、アメリカ人のこの心性を、他のどんな政治家よりも明確かつ徹底的に動員した人物である。ローマ法王の葬儀に青いスーツで出席したり、日食を肉眼で見たり、コロナ禍の時期にマスクを外したり、外国の指導者を暗殺したりといった行動の全てに、「くそったれ」という衝動が働いている。アメリカ人の多くは、「そんなことをしてはいけませんよ」と言われると、その行動をとりたくなってしまうのだ。
こうして見ると、アメリカのリバタリアン党がトランプを党大会に招いたのも筋が通っている。もちろん、哲学的に考えれば、これは奇妙な事態だ。リバタリアンがむきだしの権威主義に反対できないというのなら、彼らには取り柄などない等しいのだから。だが、アメリカの平均的なリバタリアンたちは基本的に、反社会的行動にもっともらしい言い訳を付けているだけだ。そのため、なぜ彼らがトランプにシンパシーを抱いているのかはよく理解できる。
アメリカ人でも中国人でもない平均的な人間からすると、この2つの社会、2つの極を見て、最適解はその中間にある、と結論づけるのは容易い。だが、「黄金の中庸(aurea mediocritas)」がもたらす自己満足や現状肯定の感覚を避けることが肝要だ。両国の市民がそれぞれに極端なプロジェクトを支持していることで、米中以外の国々は多大な恩恵を得ているからだ。アメリカ経済は、様々な理由で、唯一の継続的なイノベーションの源泉であり続けている。一方で中国は、気候変動に対処する上で適切な規模の集合行為を行える、世界でも唯一の国家だろう。混乱(アメリカ)と秩序(中国)のいずれにも、それ固有の利点があるのだ。
残念ながら、アメリカも中国も、文明の未来を示すモデルとしては全く魅力的ではない。中国のモデルが一般化されれば、人類全体が永続的な独裁制の下に置かれるという、真の脅威が突き付けられる。北朝鮮の例が示すように、そうした独裁制は容易に、人々の幸福を促進することに関心を持たなくなるかもしれないが、そうなってもできることは何もないかもしれない。中国は明らかに、ヒエラルキー・システムの大きな欠陥を解決できていない。すなわち、独裁者自身が国家装置を用いて、権力の座に居座り続けようとすることを防げないのだ。習近平が証明したように、憲法に制約を書き込むだけでは明らかに実効性に欠ける。私たちが知っている唯一の解決策は、政治システムに一定の敵対性を持ち込むことだ(例えば、複数政党の競争)。だが、中国はこれに乗り気でない。
アメリカの抱える問題は、多くの点で中国とは正反対だ。アメリカ社会は、異常なほどの遠心力を内に抱えており、それを辛うじて抑え込んでいるだけに見える。外部の観察者から見ると、アメリカは常に分裂の瀬戸際にある。いっそう厄介なことに、アメリカ人は政治制度を改革するために必要な水準の協力行為を動員できた試しがない。その結果、時を経るごとに全てがますます無秩序になっていく(例えば、トランプはアメリカ憲法の欠陥を暴露し、それを物笑いの種にしてしまったが、憲法改正のための真剣な試みはまだ出てきていない)。アメリカ人は、こうした問題を解決するかわりに、極めて複雑かつ不安定な回避策を見つけ出す。その結果、アメリカの政治制度は着実かつ不可逆的に劣化していく。アメリカは、制度を抜本的に改革する能力を示さない限り、世界に悪魔を解き放ち続ける運命にあるように思われる。
カントは、人類の進歩にとって必要なのは、人間本性に含まれる向社会的衝動と反社会的衝動の安定的な妥協ではなく、むしろ両者の間の持続的かつダイナミックな緊張関係だ、という挑発的な主張を行った。この主張は興味深い含意を持っている。例えば、イノベーションによって、薬を飲めば誰もが道徳心に基づいて完璧に自己を律することができるようになったとしよう(つまり、誰でも自分が正しいと考えた通りに行為できるようになるのだ)。このとき、あまりに多くの人がその薬を飲むことは、人類にとって望ましくないだろう。科学的進歩には、ベイズ推論に従わない愚かな推論者が一定数必要である。それと同じように、文明の進歩には、一定数のフリーライダーが必要なのだ。私たちが目指すべきは、人間本性のどちらかの側面が行き過ぎてしまわないようにするためのシステムだ。中国とアメリカが覇権を競い合い、どちらも決定的な優位に立てていない今日の多極的な世界は、そのようなシステムの1つのモデルを提示している。だが、そこには明白なリスクも存在する。より楽観的なシナリオは、大規模な社会性を促進する上で効果的な仕掛けのレパートリーを増やしていき、「ヒエラルキー的権力(中国)」と「暴走する敵対主義(アメリカ)」という陰鬱な選択肢以外のやり方を見つけることだ。
[Joseph Heath, The Outliers, In Due Course, 2026/3/6.]