1982年から2001年までの多くの期間を通じて、西洋世界の前途は洋々たるものに思えた。アジアの大半にしても同じくそうだった。意気揚々としていられてストレスもそんなに感じないで済む未来が待っているというのが西洋の知識人や評論家の見立てだった。
しかしながら、9/11(同時多発テロ)が起き、金融危機が起き、Brexit(イギリスのEUからの離脱)が起き、トランプが躍進し、ポピュリズムやナショナリズムが台頭するに及んで、意気揚々としてはいられなくなった。社会にのしかかっているストレスの水準も今ではだいぶ高まっている。これまでの反動という面もあるだろう。ちょっと前までのストレスの水準が低すぎたのだ。この高低差を受け入れるのは容易ではない。リチャード・ニクソンが大統領だった時代だとかアンドリュー・ジャクソンが大統領だった時代だとかと今を比べてみたところで、大して助けになりはしない。
戦後を振り返ると、1980年代までの社会にのしかかっていたストレスの客観的な水準は今よりもずっと高かった。核戦争が起きるリスクなんて今よりもずっと高かったし、公然たる人種差別も今よりもずっと蔓延(はびこ)っていたし、セーフティーネットも今よりもずっと手薄だった。経済的な豊かさや民主主義がこんなにも世界のあちこちに広まるなんて、当時は思いもよらなかった。そうであった(当時のストレスの客観的な水準は今よりもずっと高かった)にもかかわらず、当時は安らぎを感じていられた。第二次世界大戦の記憶がまだ生々しかったせいだ。記憶に残っている第二次世界大戦のストレスと比べると、しのぎやすく感じられたのだ。
第二次世界大戦の記憶が薄れるのとタイミングを合わせるかのようにして、ストレスの緩和につながるような出来事がうまい具合に矢継ぎ早に起こった。その結果として、ストレスが前例のないほどの低さに抑えられた時期がここアメリカで長らく続くことになったのだ。
我々アメリカ人は、今のようにこんなにもストレスを感じるのには慣れていない。しかしながら、今後について私なりに合理性を欠かない範囲で楽観的なシナリオを描いたとしても、今後数十年の間にのしかかってきそうなストレスと比べると、今の我々にのしかかっているストレスの水準はこれでもまだ低い方なのだ。
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「水面下のストレス」(background stress)というのは生理学ないしは生物学上の概念だが、他の分野でも何らかの役割を果たすかもしれない。(「水面下のストレス」という)この概念が経済学の分野で前面に出てくることは滅多にないが、レジーム転換を理解する上では重要になってくる概念なんじゃないかと個人的に思う。
NAIRU(インフレを加速させない失業率/自然失業率)の値をはじめとして、「定常状態」における数多くの経済変数の値というのは、「水面下のストレス」の水準に応じて変わってくるのではなかろうか。感染症があちこちで流行する「パンデミック」に見舞われた社会では、「水面下のストレス」の水準もかなりの高さに達するかもしれない。そうなる原因の多くは、 感染症の流行それ自体のせいだけでなく、感染症の流行に対する政府の対応にも求められるのは疑いない。
言うまでもないが、2022年のアメリカにおける「水面下のストレス」の水準が「恒久的」なものだとは思わない。かといって、1998年だとか2018年だとかの(「水面下のストレス」の)水準こそが「恒久的」なものだとも「自然」なものだとも思わない。むしろ、今よりも「水面下のストレス」の水準が低かった1998年だとか2018年だとかの方が歴史的に見て異例だったかもしれないのだ。
「水面下のストレス」の行く末について私なりにあれこれと考えてはいるが、どうなりそうかについてはっきりとしたことは言えないというのが正直なところだ。「水面下のストレス」の水準が今後物凄く高くなるのを見越している論者(例. 気候危機論者)も大勢いるかと思えば、反対にかなり低くなるという前提にそれとはなしに立っている論者も大勢いるようだ。
「水面下のストレス」という概念は、真っ当に思える予測の多くが外れてしまうのは何故(なにゆえ)なのかを理解するのを助けてくれるに違いないということだけは少なくとも言えそうだ。
〔原文:“A simple theory of baseline mood”(Marginal Revolution, October 14, 2017)/“The background level of stress”(Marginal Revolution, January 8, 2022)〕