ジョセフ・ヒース「哲学における敵対的な論争文化を擁護する」(2016年12月19日)

私は、哲学を世界に繋ぎ止めているのはその〔敵対的な〕学問文化〔…〕にあると、本気でそう考えている。

Adversarialism in Philosophy: A Defence
Posted by Joseph Heath on December 19, 2016 | academia, philosophy
http://induecourse.ca/adversarialism-in-philosophy-a-defence/

近年、学生らの間で何か奇妙なことが起こっており、彼・彼女らは自分たちの扱われ方についてかなり非現実的な期待をもって哲学の世界にやってきているのではないかという見解を、私は徐々に受け入れつつある。先日、私は初めて、哲学研究の議論の場は「セーフスペース」であるべきであり、議論のオーディエンスには「厳しくも協調的」であることが望ましい、との意見に出会った(この意見を述べたのは大学院生だった)。(はっきりいって、これはかなり意味不明な提案に思える。ある人が完全に間違ったことを言ったとしたら、協調的な態度を保ちながら間違いを指摘するのはちょっと難しい。「あなたは大変素敵な人のように思えます、しかしその意見は完全に間違っています」とか、あるいは、「いやぁ、根拠薄弱ですよ。でもこれからも頑張ってください。次こそはよりよい考察を思いつけるはずだと信じています!」とでも言えというのだろうか?)

とにかく、哲学という学問がどのように営まれているかをご存知の人からすれば自明な通り、こうした〔セーフスペースを求めるような〕提案は現在の哲学のやり方ではない。哲学を最もよく特徴づけているのは、敵対的な学問文化であり、それが最も明確に表れているのは、研究発表の後の質疑応答のあり方である。そこでは基本的に、自らの哲学的見解を発表した後で、オーディエンスはそれをこき下ろそうとする。そこでなされる質問は全て、「なぜあなたが間違っていると思うかというと…」という発言のバリエーションである。これは協調的な態度ではない。また、哲学においてはこうした期待が存在しているために、哲学者は「示唆に富む議論をありがとうございます」というような愛想のよい言い回し(例えば、政治理論の分野の研究発表ではこのような前置きがある)で前置きをせずに、コメントを始めがちである。哲学者は、いきなり「なぜあなたが間違っていると思うかというと…」の部分に入ってしまうのだ。

哲学におけるこうした作法は保持されるべきだとのもっともな理由があると私は考えているので、ここではまず「敵対的」という言葉で何を言おうとしているのか説明し、次にそうした慣行を擁護したいと思う。(議論の流れ上、こうした学問上の慣行の結果、女性の哲学者が少なくなっており、敵対的文化はよくないとする大量に寄せらている批判にも言及しておく。私としてはこうした〔敵対的な文化を無くせば哲学に参入する女性が増えるとの〕議論に今のところ同意していない。法学は哲学と同様に非常に敵対的な文化を持っているが、それが多くの女性の法学への参入を妨げているようには思えないからだ。しかし、この件については深く立ち入らない。)

また、私は「敵対的であること」と、「ゲス野郎であること」や「対立的であること」は区別したいと考えている。多くの哲学者はゲス野郎だが、それは〔敵対的であることとは〕はっきりと異なる現象である。この区別を説明するために、哲学と医学の対照性を示したいと思う(妻がアカデミアの医学者なので、私はたまたま医学については詳しいのだ)。医学者はゲス野郎として名高いが、その傾向は明らかに学問文化によって助長されている。医学者はまた非常に対立的でもあり、(私からすると)ビックリするほどその態度は激烈である。例えば、彼・彼女らはカッとなると互いに怒鳴りあう。妻の部署の部長は、妻のオフィスによくやってきて、文字通り10~15分間ぶっ続けで妻を怒鳴りつけるらしい。医学者はまた、いつも悪態をついている。しかし同時に、研究発表において、医学の学問文化は概して(私からは)対立的に見えない。これは実際に、医学の研究発表時にはほとんどいつも、「交絡因子はどうやって排除したのでしょうか?」とか「xの原因についてあなたが考えていることをもう少しお聞かせ願えますか?」といったくだらない質問がなされることを意味している。そして、医学者らは廊下に出た途端に、「いやぁ、なんてごみくずみたいな研究なんだ」とか「なんてこった、奴らは病院で片っ端から患者を殺してるんだ」といった調子になるのだ。にも関わらず、医学者らはそれを発表者には言わないのである! 私は、医学者が酷い研究や最低な発表について悪口を言うのを何度聞いたか分からないが、「それをその発表者に言ったんですか?」と聞くと、答えは決まって、「いえいえ、もちろん言ってないですよ」なのだ。

哲学における意見交換が敵対的であるのは、哲学者の多くがゲス野郎だという事実の単なる帰結ではないということを示している点で、医学者の例は示唆に富んでいる。医学の例が示すように、ゲス野郎が大量にいる学問でも、敵対的でない議論が維持されている学問分野は確実に存在し得る。もっと言うなら、哲学では因果関係は逆向きに作用しているのではないかと私は疑っている。つまり、哲学ではゲス野郎であることは積極的に奨励されていないが、敵対的文化の規範のために、ゲス野郎を必要以上に惹きつけてしまう傾向にあるのではないか、と。

この点についてかなり詳細に立ち入って議論しているのは、私がゲス野郎を擁護している人間だと思ってほしくないからだ。哲学者にはたくさんのゲス野郎がいる事実は、私にとって、哲学の最も悪い部分の1つであり、長年にわたって職業哲学者と付き合うことがますます辛くなっていると感じる理由の1つでもある。それでも、私は哲学における敵対的な学問文化を擁護したいのだ(私は、敵対的文化によってゲス野郎が哲学に惹きつけられてしまいがちという事実を考慮しても、敵対的文化にはなお価値があると考えている)。

哲学には、それとは別にもう一つ些細な問題がある。哲学は、その学問文化において、基本的に問題創出的であり、問題解決的な学問ではない。この問題を見出すには、哲学と経済学を比較してみることが有益だろう(経済学は、私がたくさんの関わりを持っているもう1つの学問分野である)。これは、私が思うに、ソクラテスの影響、そしてソクラティック・メソッドの重要視からきている。基本的にソクラテスは、アテネ中に出かけて行って、「正義」といった概念の常識的理解を取り上げ、それが意味をなさないことを示すことで、人々を悩ませた。懐疑主義者もソクラテスと非常によく似たことを行い、パラドクスとパズルの魅力は依然として哲学の中心にあり続けている。哲学者は、新しい問題を発見することで自らのキャリアを築いてきている(パーフィットの「非同一性」問題や、ゲティア、グッドマンなどを考えてみよう)。

哲学におけるこの側面は、特に何かの思索の雛形(モデル)を作るようなかなり素朴な作業をしたいときに、私をいらつかせることの1つである。乱暴に言えば、私の経験では、経済学者は少なくとも場合によっては人の手助けのために、「この方法でやるのがいいかも」といった建設的な提案をするかもしれない。対照的に、哲学者は建設的な提案を全くしない。哲学者が、あなたのコップに飲み物を注いでくれているように見えたとしたら、毒が盛られているのは間違いない。これは批判的思考を促す上では非常に役に立つが、哲学全体を非常にネガティブなものにしている。基本的に、〔哲学において〕同業者はあなたがなぜ間違っているかを指摘するために存在している。

これらは全て哲学への批判のように聞こえるかもしれないが、そうではない。哲学研究をこのように行っていくことは実は非常に重要なのだ。その理由を知るために、今しばらく医学の例に立ち返ろう。私がアカデミアの医学者に、なぜ研究発表の場で発表者に挑戦的な質問を突きつけないのですかと聞くと、大抵同じ答えが返ってくる。「批判が論文に載ることはないだろう」とか「問題点は論文査読者がきちんと拾ってくれるだろう」である。つまり、医学者は、挑戦的な質問の必要性を感じていない。特に、医学者が法論的な誤りを犯したり、統計的操作を完全に間違ってしまったりしても(医学者はよくそうしたミスを犯す)、そうしたミスが査読者に目をつけられることは誰もが知っているので、医学者は〔わざわざそのことを指摘して〕研究発表者にとって事態を不愉快なものにする必要性が自分たちにあるとは感じないのだ(対照的に、病院において〔死亡症例や合併症に至った症例を取り上げて〕患者の治療を振り返る「M&Mカンファレンス」においては、議論の質をコントロールする他のやり方が存在しないため、より批判的な議論が交わされやすくなる。)

言い換えれば、医学、あるいはより一般に科学における研究実践は、哲学よりもより厳しい方法論的制約に服している。例えば、確証バイアスのような思考の欠陥について考えてみよう。私たち人間は、「否定的なことについて考える」ことが信じられないほど下手くそだ。理論を検証する際に、仮説を支持するエビデンスにだけ目が行きがちである。私たちは同時に、仮説を反証するエビデンスはなんなのかを特定し、それが存在しないことを証明するために積極的に調査を行わなければならない(これは、ピーター・ウェイソンの、誰もが間違える有名な「2,4,6」テストの要点であり、それについて先週こんな記事を書いた〔本サイトの日本語訳はここで読める〕)。科学方法論には、研究デザインから、統制群の利用、再現性への配慮まで、様々な特徴があるが、それらは全て確証バイアスをコントロールするために用いられている様々な手法である(これは実は、医療と偽医療の間の最も本質的な違いである。医療は統制された実験に基づいているが、偽医療は「お客様の声」に基づいている)。

哲学者は、一般人と同じように、確証バイアスに陥りやすい。実際、確証バイアスについての研究を読み、それが根深くまた広範に見られることを理解した人なら、やがて哲学が「常に全て確証バイアス」なのではないかと疑い始めるはずだ。私はウェイソンの「2,4,6」テストで間違えてから、自分の哲学的見解を反証するために(あるいは自分の考えを変えるために)必要なのは何なのかと思考するのに、また自説の証明において条件がクリアされているかどうかを調べるのに、十分な時間と労力を当ててきたのか、ということについて考えるのを止めた。答えは、「ほとんどない」だ。私は、自分の見解を組み立て、それを裏付ける証拠を集めるという肯定的なタスクには多大な労力を費やしてきたが、それが間違っていると証明するものについて考える努力はほとんどしていない。

では、哲学を(私のかつての教師であるジェームズ・ジョンソンがよく言っていたように)「”データなしの思弁”学部」ではなくアカデミックな学問領域たらしめているものはなんなのだろうか? 私が、自分の見解が間違えているかどうかについて一生懸命考える必要がない理由の1つは、私の見解の間違いを指摘することをこれ以上なく楽しんでいる同業者がいるからだ。言い換えれば、私の推論に明らかな盲点があれば、非協力的で敵対的な質疑応答のやりとりで、同業者がそれを私に指摘してくれるだろうことに相当に信頼を置いているのだ。

ある日の研究発表で、こんなことが起こった。私の優秀な同僚が、「自由と権利に関するカナダ憲章」は、表面的には義務論的な書きぶりだが、実態はその反対の帰結主義的な文書であるという主張をした。彼は続いて、主要な権利全ての帰結主義的な読解と、それらが司法によってどう解釈されてきたかを提示した。質疑応答の時間、私は「あなたの帰結主義的な読解によっては揺らがないような権利を定式化するためには、義務論者には何が求められているのでしょう?」という、私にとっては当然に思えるような質問を行った。言い換えれば、この質問は単に「自身の説が間違っていると想定してみてください。するとそれはどんなものになるのでしょう?」と聞いているだけだ。私にとっては少しビックリすることに(当時の私は確証バイアスについての文献をまだあまり読んでいなかった)、彼は私の質問に困惑してしまい、発表が終わった後で私のところに来て、「実はそんなこと考えたこともなくてね」と言ってきたのだ。

私にとって、これは哲学の学問文化がうまく機能しているときに、どのように機能しているかについての優れた例である。ウィルフリド・セラーズはかつて、「哲学とは、(最も一般的な意味において)物事がいかに組み合わさっているのかについての研究」と定義した。私たち哲学者は非常に抽象的な仕事を行っており、たいていは非常に一般的なレベルで物事がどのように組み合わさっているかを理解しようとしている。私たち哲学者を陰謀論者、あるいはパンの中にイエス・キリストを見出す人々と隔てているのは、なんなのだろうか? あるいは、単にデタラメな作り話をし、それを信じてしまうのを防いでいるのはなんなのだろうか? 私は、哲学を世界に繋ぎ止めているのはその〔敵対的な〕学問文化であり、議論を聞きダメな議論を割り出すのに何十年も費やしてきたような人々でいっぱいの部屋の中で、自分の見解を擁護しなければならないという事実だけにあると、本気でそう考えている。

以下、コメント抜粋

ミーシャ・グローバーマン:
その両極端の中間地点はないんですか? 「厳しくも強調的なセーフスペース」や「医学者たちの対立回避型のカンファレンス」よりも異論に開かれているとか。逆に、「全ての質問が、”なぜあなたが間違っているかというと~”のバリエーションである」ほど敵対的になっていないとか。
哲学者は確かに、確証バイアスに陥る危険性に晒されています。〔しかし〕同時に、態度の極端化(attitude polarizaition)やバックファイア効果(自分の信念と対立する攻撃的な議論に接すると、自分の信念により深く入れ込んでしまう現象です)のリスクにも晒されているのではないでしょうか? もしそうなら、アイデアをよりよく前進させるという目的のために、「どうしてあなたが間違っているかというと」の集中砲火よりも、もっと穏和な形で不同意を表現する方法を見つけて試してみることは有益だと思います。
私は哲学者ではないですが、ダニエル・デネットによる(アナトール・ラパポート [1] … Continue reading の言葉を定式化した)「上手な批判的コメントの作り方」の大ファンです。あなたも目にしたことがあるのではないでしょうか。
上手な批判的コメントを作るには
・相手の立場を、相手に「ありがとう。そんな風に述べてみたかった」と言わせられるほど明確に、鮮やかに、そして公平に、表現し直そうと試みるべし。
・相手の意見で同意できる部分があれば、(特にあまり一般的でないものは)列挙すべし。
・相手から学んだことがあれば、何であっても言及すべし。
・以上を全て達成してはじめて、あなたは反論や批判の言葉を述べることが許される。 [2] … Continue reading
(例えばこちらをご覧ください。)
ヒースさん、私はデネットのルールについてのあなたの考えに興味があります。こうしたルールには価値があるとあなたはお考えですか?

ジョーダン・レイモンド:
ヒースさんの代わりに答えることはできませんが、自分の意見を少し書かせてください。急に議論に割って入ってきたと思わないでいただけたらよいのですが…。
ミーシャさん、あなたは”「どうしてあなたが間違っているかというと~」の集中砲火よりも、もっと穏和な形で不同意を表現する方法を見つけて試してみることは有益だと思います。”とおっしゃっていましたね。私はこの点に100%同意しますが、歳を取るごとに、それがかなり困難なことを思い知らされる機会が増えています。私は自分が全くのゲス野郎だったとは思っていませんが、(哲学の学位を持っていない)人と議論しているときに(私は哲学の学位を持っています)、意図せず人を怒らせてしまい、だいぶ後になってから怒らせたことに気づいたことがあります。これは文化的なものかもしれませんが、議論の欠陥を指摘し、反例を見つけ、筋の悪いものだと説得されない限りアイデアへの固執を辞めないのは、哲学の核心(meat and potatoes)なのです。これを普通の議論でやれば、重箱の隅をつついてるとか、ハラスメント的だとか、非常に無礼だとかと思われます。哲学の外からだと、私が同僚と交わした哲学の議論の多くは、(私たちは議論してるうちに興奮して、血が騒ぐため)非専門家的な議論に(実際はそうでなくても)見えるという事実こそが、問題の種となっているのです。少し挑発的に言うと、私個人は、「知的だが実用的な雑談」をするために、哲学外の人と気軽に議論する方法を「学び直す」必要がありました。この種の〔哲学での〕活発な討論に慣れた人に、誤りや間違いの指摘を犠牲にせず、〔敵対的な〕レトリックを控え目にしてもらうようにするためには、どうしたらよいでしょうか。
アナロジーとしては不完全ですが、これは、プロのアスリートに「もっと楽しんで、だけど競争心は減らさずに」プレイしろと言いながら、審判のやり方はそのまま、という状況と似ていると思います(哲学に審判はいませんが)。デネットのルールは素晴らしいですが、私の見たところ、この種の解決策の問題は、個人にだけ、そしてほとんどの場合で(感情ではなく)個人の理性に訴えかけていることにあります。議論の最中に、特に相手が気に入らなかったり、他の人が議論のルールを破っていると感じた場合、そうしたルールは即座に放棄され、元の木阿弥になりがちです。このような議論の「倫理」を周知させることは重要ですが、そこには限界があるのです。
私見となりますが、一つの興味深い解決策が、ジョナサン・ハイトの論じる「アステロイド・クラブ」です。このクラブでは、人々は(友好な関係を築くために)ディナーを共にし、目的は他の人の議論の盲点を指摘にあるのだと相互に理解した上で、自由に議論をします(興味がおありでしたら、こちらの記事で簡単にまとめられています)。相手を説得しようとするのではなく、「議論」の行われている文脈を変えようとするなら、これはかなり有望な解決策だと思います(銀の弾丸ではないにしても)。
長文失礼しました!

ミーシャ・グローバーマン:
ジョーダンさん、アステロイド・クラブについての情報をありがとうございます。私は今、自分とは異なる意見に対して人々がどのように語ることができるかというテーマに興味を持っており(私はコミュニケーション、交渉、対立の処理といったことを授業で教えているのです)、ちょうどそのようなリソースを探していたところでした。アステロイド・クラブについては聞いたことがなかったですが、大変興味深いです。ありがとうございます!

ジョーダン・レイモンド:
どういたしまして、ミーシャさん。ジョナサン・ハイトの『社会はなぜ右と左にわかれるのか』は名著で、政治的な話題についての議論に興味がおありなら大変オススメです。
余談ですが、ミーシャさんの本を調べたところ、大変面白そうです。欲しいものリストに追加しました! 私の大好きなジョン・フェイスフル・ハマーを少し思い起こしました。

ジョセフ・ヒース:
ミーシャさん、私のブログに立ち寄ってくれてありがとう。私はデネットの「上手な批判的コメントの作り方」には詳しいですし、生徒に論文の書き方を教えるときは、このリストと同じような項目(とくに最初の、批判しようとしている立場について、明晰で思いやりある(charitable)説明を与えよ、というステップ)を守らせることに多くの時間を費やしています。しかし、学会発表の質疑応答でそれをしようとすると、あまりにも時間をとってしまいます。また、「あなたの主張は正確に理解しました。あなたの見解は、xである、yである、よってzである。なので~」というところから質問を始めると、発表者を大変怯えさせてしまうでしょう。なぜなら、特に議論全体を別の言い方で述べ直したり、要約したりすれば、発表者は罠にハメられたように思ってしまうからです。なので、こうしたやり方は、哲学における質問の始め方としては、敵対的なやり方ではないにしても、非常に不安を喚起させがちなものなのです。反論だけを述べる方がまだよいのです。
また、チャールズ・テイラーはこの最初のステップの達人であったことも記しておくべきでしょう。テイラーが相手の見解の要約を終えると、それは相手の立場のより「明晰な表現」になっており、相手の間違いが明らかになっていました。

デイヴィッド:
ヒース先生、好奇心から聞きたいのですが、大学におけるセーフスペース論の発生について、大まかでいいのでその原因を説明できますか? あるいはこれは、もっと大きな現象の帰結の一部なのでしょうか?
私は、トロント大学のジョーダン・ピーターソン教授 [3] … Continue reading が、ノンバイナリーなジェンダーの代名詞〔heやsheではない代名詞〕の使用の強制を拒否した件を追っています。彼の立場にどういう態度をとるべきなのか、また彼の立場を自分が十全に理解できているのかは分かりません。しかし、それ〔ピーターソンの問題提起〕は差別やハラスメントであり、オンタリオ人権憲章の違反だと非難されてきました。そこでお聞きしますが、あなたの見解では、大学教授の議論や立場が、異議申し立てではなく、非難されうる、あるいは潜在的に違法とされうるのは、どのようなレベルに達したときなのでしょうか?

ベンソン・ベア:
1)私は哲学者ではありませんが、過去にトロント大学の哲学の研究発表に何度も訪れたことがあります(ヒース教授を見たことは一度もありませんが)。そして、大抵の場合で、哲学者はヒース教授が言っているような形で議論してはいませんでした。
まず、大まかに言って「素晴らしい話をありがとうございます、大変面白かったです」といった内容の発言はかなりの数ありました。
次に、「あなたが間違っているのはこういう理由です」という発言もたくさんありますが、「これについてはどのように返答しますか?」とか「もう少し詳しく述べてくれませんか」といった質問も同じくらいたくさんあります。ヒース教授の「あなたの帰結主義的な読解によっては揺らがないような権利を定式化するためには、義務論者には何が求められているのでしょう?」という発言は、(エントリではいくらか敵対的な形に直されていますが)実際にはこれらのうちのどれかのバリエーションだったのではないかと思います。つまり、その場にいなければ、そこにフラストレーションや皮肉などがあることは分からないかもしれませんが、こうした文句は、議論の明晰化の要求や、(あるいはもう少し敵対的なものであれ)相手の立場に生じ得るだろう問題の提起であって、全面的に「なぜあなたが間違っているかというと~」と主張することと対極にあることは、容易にわかるはずです。
2)理由は異なりますが、私もデイヴィッドさんと同じように、ジョーダン・ピーターソンについてのヒース教授の見解を聞きたいです。具体的に言えば、性自認(ジェンダー・アイデンティティ)や性表現を根拠とした差別を防ぐことだけを目的とした法律は、グラーグ〔ソ連の収容所〕への道の第一歩であり、そうなるのは「40年間全体主義を研究してきたので、それがどのように始まるかを知り尽くしている」俺だからこそ分かるのであり、こうした法律はマルクス主義の秘密結社(この秘密結社は、どのマルクス主義者とも同じように、ナチスと変わりない人々)のプロジェクトの一部であるといった、率直に言ってイカレた信念を持っていながら、信じられないほど多くのグルーピーたちに囲まれている男についてです。

デイヴィッド:
つまり、ベアさんはヒース教授が(あなたが反対しているであろう)ピーターソン教授の議論の内容についてどう考えているのか聞きたいのですね。私もヒース教授の見解が聞きたいです。しかし、このエントリは哲学における敵対的文化についてのものであり、私の興味はもっと一般的なもので、ヒース教授が、大学における言論の自由の限界はどこにあるのか、あるいはどこにあるべきかについて見解を持っているのかということです。

References

References
1 訳注:アメリカの数理心理学者(1911-2007)。ロバート・アクセルロッドの「囚人のジレンマ」トーナメントにおいてしっぺ返し戦略を提案した人物としても知られる。
2 訳注:ダニエル・デネット『思考の技法』p61-64を参照。同書によると、上のような定式化は、ラパポートとの私信を基にデネットが与えたものであるという。なお訳文は改変してある。
3 訳注:カナダの心理学者で、トロント大学教授(1962-)。『生き抜くための12のルール』がベストセラーになったことでも知られており、ポリティカル・コレクトネス批判などでたびたび議論を呼んでいる。
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