昔からの友人に、いわゆる「ドラマクイーン(drama queen)」 [1]訳注:芝居がかった大袈裟な言動で過剰に騒ぎ立てる人を指す表現。「悲劇のヒロイン」のニュアンスに近い。 がいる。といっても、泣き叫んだり人を怒鳴りつけたりするといったステレオタイプな意味でのドラマクイーンだったわけではない。彼女は教養と知性のある女性で、その行動は非常に目立ちにくいものだった。実際あんまりにも目立ちにくいので、彼女の問題に何年も気づけなかったほどだ。
彼女は常に、人間関係の複雑な網の目の中心人物だった。その人間関係はいつも不安定で、常に「何か」が起こっており、彼女はそうした問題について熱心に語りたがった。彼女の話に引きずり込まれないようにするのは至難の業だった。知り合ってから最初の10年くらいは、彼女がそうした問題について語る度に、私も熱心にそれを聞いて、様々な視点から問題を検討し、あり得る解決策をいくつか提案したりもした。
時が経つにつれ、彼女が私の提案した解決策を決して聞き入れないことに気づき始めた。実際、彼女の周りの人間関係の問題は解決されたことすらなく、大抵は新しい(ある意味、もっと面白くて重要な)問題が現れて、彼女の興味がそちらに移ってしまうのだ。さらに、たまたま1つの問題が解決されると、どこからともなくもう1つ別の問題が必ず現れ、後を引き継いでしまう。
長い間私はこのことに戸惑っていたが、ある日真相に思い至り、もはやそうとしか思えなくなった。彼女は実は問題を解決することに興味がなく、それどころか問題それ自体にすら関心がなかったのだ。彼女が興味を持っていたのはドラマである。ドラマがあれば、話すネタ、考えるネタができる。それはエンターテインメントであり、刺激なのだ。だから、ドラマそれ自体はある意味で現実のものだとしても、それは彼女の心理的欲求を満たすように誂えられたものでもあったのだ。
このことに気づいてしまったために、私たちは疎遠になっていった。私が彼女の語る問題にそれほど興味を抱けなくなっていったからだ(人間関係で生じるドラマに対して私がとるアプローチは彼女と正反対だ。ドラマが起こると私は大抵、まず1か月か2か月静観して、問題が消え去るかどうかを確かめようとする)。振り返ってみると、私の態度はかなりナイーブだった。問題が発生しているのは悪い状態なのだから、賢明な人なら問題を解決しようとするはずだと単純に思い込んでいたのだ。より具体的に言えば、争いは悪いことだから、人々は可能なら争いを避けようとするはずだし、争いが生じたらそれを解決しようとするはずだと思っていたのだ。
もちろんあるレベルでは、これが正しくないことは私にも分かっていた。リアリティ番組のプロデューサーは、出演者たちが争いごとを起こすようわざわざけしかけることで悪名高い。それは現実が退屈だからだ。それに対して争いごとは面白い。私たちは争いに関心をもってしまう。争いは刺激的なのだ。フィクション作家はこのことを知っているので、争いにしつこく焦点を当てる。現実はいつも争いごとを供給してくれるわけではない。だからこそリアリティ番組の制作者は争いをけしかけようとしがちなのだ。
リアリティ番組を面白くするために争いをけしかけようとする人々がいるのと同様に、人生を面白くするために実生活でも争いを引き起こそうとする人もいる。こんな当たり前のことに気づくまでにかなりの時間がかかってしまった。理解が遅れたのは、少なくとも部分的には、争いを非常に嫌うカナダ人の気質を私も持っているからだろう。
私の書き物をよく知る人からすると、私が争いを嫌っているというのは驚くべき信じがたい発言だと思うかもしれない。確かに、公の場での議論に介入する際、私の発言は物議を醸すことがままある。だが私は、他人と論争することに全く楽しさを感じていない。このブログのコメント欄を閉鎖しているのはそのためだ。私は自分が正しいと思っており、他人にも私と同じ仕方で物事を理解してほしいと思っているが、それについて意見を争うことには全く興味がないのである。
一方で、ジョーダン・ピーターソンのような人の話を聞いていると、飽くなき闘争欲求に驚かざるを得ない。正直に言えば、彼がイラついているのと同じようなことの多くに私もイラついている。今日、大学で働くというのは、でたらめ(bullshit)の集中砲火を浴びるに留まらず、でたらめ検知器がぶっ壊れているとしか思えない人々に囲まれることでもあるのだ。とはいえ、同僚に喧嘩を吹っ掛ける趣味は私にはない(私は賢明な研究者の多くと同様、数年間は完全に静観して事態が終わるかどうかを確かめようとする)。次から次へと蜂の巣を突いて回るピーターソンの熱心ぶりは、感情に関する私の感覚からすると理解できない。そればかりか、善き人生に関して私が持つ最も基本的なビジョンとも整合しないのだ。
残念ながら以上の観察は、カナダ人が争いを避けたがる気質を持つという私の主張といささか食い違ってしまっている〔ピーターソンはカナダ人であるため〕。私はピーターソンを原則ではなく例外として扱いたい。それは、彼がアルバータ州出身で私がサスカチュワン州出身だからかもしれない。あるいは、喧嘩を吹っ掛けるのが好きなカナダ人はアメリカに移り住んでしまうからかもしれない。というのも、アメリカ人について1つ言えることがあるとすれば(繰り返しになるが、このことに気づくまで呆れるほど時間がかかった)、アメリカ人は争いを楽しんでいるということだからである。
前置きが長くなったが、本題に入ろう。カナダ人がアメリカについて考える際に犯しがちな誤りは、自分たちがアメリカを理解していると思い込んでしまうことだ。アメリカに数年でも住めばそんな幻想は打ち砕かれる。アメリカは広大で、混沌としており、分裂を抱えた、非常に不思議な国だ。アメリカに住むことで私が得た最も重要な教訓は、自分がアメリカのことを理解しておらず、今後も恐らくは理解できないだろう、ということだ。カナダ人はある意味で、アメリカを理解しようとする上で不利な立場にある。両国は表面的には似ているため、その内実まで似ているという誤った感覚を抱いてしまうからだ
ともかくも、私がアメリカに関して戸惑ってきたことの1つは、アメリカ人がどんなときも非常に極端であることだ。やることなすこと度を超しているのだ。アメリカの政治システムにこれほど多くのチェック・アンド・バランス(抑制と均衡)が組み込まれている理由の1つは、人々が妥協することを知らないからである(制度が先なのか、行き過ぎた極端さが先なのかはよく分からないが)。これはどんな政治的立場かに関係なく、アメリカ人一般に当てはまる。例えばジョージ・フロイドの死後、アメリカにおける警察の取り締まりをどう改善するかについて賢い人々が賢明な意見を色々述べた。だが、そうした議論が「警察予算を打ち切れ(defund the police)」の大合唱によってかき消されるまで、1週間ほどしかかからなかった。同じように、大量収監(mass incarceration)を減らす試みが話題になると、アメリカの学者たちはそれを、刑務所の廃止を再び訴える好機と捉えた。
アメリカのメディアは、「リベラルを打ち負かす(owning the libs)」ことに熱心な保守派の行き過ぎた行動の例に事欠かない。だがアメリカのリベラル/進歩派も、いつもいつも不必要に保守派を挑発しているということは認識しておくべきだ(例えばハーバード大学は、入学者数の人種格差を取り除くためにアファーマティブ・アクションを用いるだけでは気が済まず、アファーマティブ・アクションが最高裁で争われているまさにその年に、学生全体において黒人が占める比率が過剰代表(overrepresented)であることを誇らしげに発表した)。「警察予算を打ち切れ」がスローガンとして成功を収めたのは大部分、それによって警察の指導者層が(予算を守るために急遽記者会見を開くなど)明らかに目に見える形で慌てふためいたからだった。「警察予算を打ち切れ」という要求は非常識だったが(まるで社会的サービスに予算をちょっと再配分すればアメリカがよく秩序づけられた社会になると言うようなものだ)、そのスローガンが引き起こした反応に人々は心から満足したのである。
右派と左派で違うのは、不必要に挑発的な行動をとる際、左派の場合はその行動に対して高尚な道徳的理由が伴いがちであることだ。そのため私は長い間ナイーブにも、これほど多くのアメリカ人が、考え得る限り最も極端な立場をとる道徳的責任を感じているように見える理由を理解しようと努めてきた。また、アメリカ人が様々な社会問題を批判するのに人生のかなりの部分を費やしながら、問題を解決したり、あるいは解決策がどんなものかを明確にしたりすることにさえ、ほとんど興味を示さないことを不思議に思っていた。アメリカ人がそうした問題について争うことを楽しんでいる(そうした争いは人生に意味を、少なくとも日常生活の気晴らしを与えてくれる)、という可能性は単純に思い浮かばなかったのだ。
最近になって私は、アメリカ人は西洋世界における「ドラマクイーン」なのだと思うようになった。直近の選挙では、退屈な通常運転の政治と、ドラマチックで分極化した政治という2つの選択肢を与えられて、アメリカ人は明確にドラマの方を選んだ(ドラマだけでなく暴力も選ぶのかについては今後の展開を見てみないと分からない)。私にとって、この選挙戦で最も示唆に富んだ瞬間は、ドナルド・トランプが暗殺未遂事件の直後、地面から立ち上がって、やや混乱しながらも「戦え、戦え、戦え!」と叫んだ場面だった(ローガン・ポールはこの場面を「今までの人生で見た中でも最高にかっこいいシーン」と評した)。一方で私が思ったのは、「戦うって、何のために?」ということだった。もちろんこの問いは、カナダ人の御多分に漏れずポイントを外している。戦いには常に外的な目標や目的があるはずだと思い込んでしまっていたのだ。戦いそれ自体が目的であり、人々の喜びの種となっているというのは、私にとっては自然に思い浮かぶ考えではない。トランプが拳を振り上げて「戦え」と叫んだのを見て、私はまたしても、その戦いに外的な目的も目標もないということをすぐに見抜けなかったのである。それは、トランプがアメリカ人に提供したものを完璧に表現するメッセージだったのだ。「戦え、戦え、戦え!」。
[Joseph Heath, Americans enjoy conflict, In Due Course, 2024/11/9.]References
↑1 | 訳注:芝居がかった大袈裟な言動で過剰に騒ぎ立てる人を指す表現。「悲劇のヒロイン」のニュアンスに近い。 |
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