●Paul Krugman, “Debt, deleveraging, and the liquidity trap”(VOX, November 18, 2010)
先進国で交わされている政策論議で主役を演じているのが「債務」である。不況やデフレーションを避けるために拡張的な財政政策を試みよと主張する論者がいる一方で、債務(家計による借り過ぎ)によって引き起こされた問題を債務(政府債務)をさらに増やして解決できるわけがないと主張する論者もいる。本稿では、債務ショックとそれへの政策対応について理論的に分析を加えることが可能な新たなモデルの核となるロジックを説明する。異質なエージェント(主体)を導入することによって、「貯蓄のパラドックス」だけでなく、サプライサイドにおける新たなパラドックス――「精励のパラドックス」&「伸縮性のパラドックス」――も成り立つことが見出されている。大半の経済学者が考え違いをしていて、そのせいでアメリカやEUにおいて政策が間違った方向に誘導されてしまう可能性があるのだ。
アメリカやヨーロッパを悩ましている経済問題をめぐる議論で一番頻繁に登場する単語と言えば、「債務」(“debt”)で間違いないだろう。2000年から2008年までの間に、アメリカでは家計債務の対可処分所得比が96%から128%に上昇した。イギリスの場合は、105%から160%に上昇。スペインの場合は、69%から130%に上昇。急速に累積した債務が危機のお膳立てをしたとも言われているし、過剰な債務が景気の足を引っ張り続けているとも言われている。
フォーマルなモデルはいずこに?
「債務」に対して熱い注目が寄せられている昨今だが、経済学の世界における長い伝統を想起せずにはいられない。フィッシャー(Irving Fisher)のデット・デフレ理論(1931年)から、再注目されているミンスキー(Hyman Minsky)の金融不安定性仮説(1986年)を経て、クー(Richard Koo)のバランスシート不況論(2008年)へと至る伝統だ。世の中で繰り広げられている経済談義の中で「債務」に注目が寄せられていて、景気を落ち込ませる重要な要因として「債務」に着目する長い伝統があるにもかかわらず、どうしたことか見当たらないのだ。政策の現場では「債務」におびただしい関心が寄せられているというのに、「債務」と絡めて経済政策――とりわけ、財政政策および金融政策――について理論的な分析を加えられるモデルが見当たらないのだ。多くの分析(僕のも含めて)は、未だに代表的個人モデル(representative-agent model)を使っている。債務者もいれば債権者もいるという事実がどういう結果をもたらすかを扱いようがないというのに。
エガートソン(Gauti Eggertsson)と一緒に進めている研究(Eggertsson and Krugman 2010)で、そのあたりの欠陥を修正するシンプルなモデルを提供しようと試みている。徹底的にシンプルなモデルだが、世の中が今まさに直面している問題について重要な洞察を与えてくれるに違いないと思っている。そのモデルによると、現実の政策を支えている通念の多くは今みたいな状況では間違っていることが示唆されるのだ。
モデルの核となるロジック
我々のモデルは、標準的なニューケインジアンモデルと構造をほぼ共有しているが、代表的個人の代わりに、「気長な」(“patient”)タイプと「気短な」(“impatient”)タイプの2タイプの主体がいると想定している。「気短な」タイプが「気長な」タイプからお金を借りるのだ。ただし、借り入れ可能な額には上限がある。これくらいなら貸しても安全だろうという暗黙の認識によって上限が決まってくるのだ。
「デレバレッジ・ショック」の結果として、今まさに世の中が直面しているのとそっくりの危機が起こる。具体的な理由はどうであれ、借り入れ可能な額の上限が突如として引き下げられる――「ミンスキー・モーメント」(“Minsky moment”)の到来――。すると、過剰な(借り入れ可能な額の上限を超える)債務を負っている債務者は、支出の急激な切り詰めを強いられる。不況に陥るのを防ぐためには、別の主体が支出を増やさないといけない。そうなるように、例えば金利を下げないといけない。でも、デレバレッジ・ショックがあまりにも強烈なようだと、金利をゼロ%にまで下げても足りないかもしれない。デレバレッジ・ショックが強烈だと、いとも容易く「流動性の罠」に陥ってしまう可能性があるのだ。
それに続いてフィッシャー流のデット・デフレーションのメカニズムも発動するかもしれない。返さないといけない債務の額が名目単位(貨幣単位)で決められていて、デレバレッジ・ショックのせいで物価が下落するようなら、債務の実質的な負担が増すことになる。その結果として債務者はさらに支出を切り詰めないといけなくなって、そのせいで当初のショックが増幅されることになるのだ。フィッシャー流のデット・デフレーションのメカニズムが発動するようだと、総需要曲線は右下がりではなくて右上がりになる可能性がある。物価が下落すると、総需要が減る可能性があるのだ。
デレバレッジ・ショックが強烈なようだと、通常のルールの多くが通用しなくなる「真っ逆さまの世界」に誘われるというのが我々のモデルから得られる一般的なメッセージである。その名は知られているものの、長らく無視されてきた「貯蓄のパラドックス」が成り立つようになるのだ。一人ひとりが貯蓄を増やそうとすると、全体としての総貯蓄が減ってしまうのだ。それだけじゃない。潜在GDPが高まると現実のGDPが減ってしまうという「精励のパラドックス」(“paradox of toil”)も成り立つようになるし、労働者が名目賃金の引き下げをすんなり受け入れるようになると失業が増えてしまうという「伸縮性のパラドックス」(“paradox of flexibility”)も成り立つようになるのだ。
しかしながら、我々のモデルのおかげで靄(もや)が晴れるようになるのは、財政政策の分析においてこそだと思われるのだ。
財政政策に対するインプリケーション
失業を減らすために拡張的な財政政策を試みよと主張すると、債務のことを持ち出して反論してくる人がいる。債務によって引き起こされた問題を債務をさらに増やして解決できるわけがないというのだ。家計が借金し過ぎたのが問題の元凶だというのに、政府にもっと借金しろとでも?
どこが間違っているかというと、どの債務も同じと暗に想定しているところだ。お金を借りるのが誰かというのは重要じゃないと想定しているのだ。でも、そんなことはあり得ない。誰がお金を借りようが関係ないとしたら、そもそも債務が問題を引き起こすことはないだろう。マクロで見ると、債務というのは、我々が自分から借りているお金みたいなものだ。アメリカは中国だとかからお金を借りてるじゃないかというのはその通りだが、そのことは肝心じゃない。海外からの借り入れを無視するか、世界経済をひっくるめて考えれば、債務の総計は純資産の総計に何の影響も及ぼさない。誰かの債務は、他の誰かの資産だからだ。
債務の総計が重要になるとしたら、その理由はただ一つだけだ。誰が債務を負っているかによって違いが出てくるからだ。高額の債務を負っている主体が直面する制約と、低額の債務を負っている主体が直面する制約が違っているからだ。どの債務も同じじゃないのだ。だからこそ、誰かが過去に借り過ぎたのが原因で生じた問題を他の誰かが今から借り入れを増やして解決できる可能性があるのだ。我々のモデルでそのことが明瞭に示されているのだ。我々のモデルによると、高額の債務を負っている民間の主体がバランスシートの改善(デレバレッジ/債務の圧縮)に励んでいても、政府が国債を発行して歳出を増やすと、失業やデフレーションを避けることが少なくとも理論的に可能になるのだ。さらには、デレバレッジ・ショックが原因で起きた危機が過ぎ去ると、国債を償還する余裕が生まれることも示されているのだ。
つまりは、債務の役割と債務者が直面する制約を真摯に受け止めると、世の中が今まさに直面している問題についてだけでなく、あり得る解決策についても見晴らしがずっとよくなるのだ。最後にもう一つ。我々のモデルによると、政策当局者に何をすべきかを勧告している通念は、ひどく間違っている可能性があるのだ。
<参考文献>
●Eggertsson, Gauti and Krugman, Paul (2010), “Debt, Deleveraging, and the Liquidity Trap(pdf)”, mimeo
●Fisher, Irving, (1933), “The Debt-Deflation Theory of Great Depressions(pdf)”, Econometrica, Vol. 1, no. 4.
●Koo, Richard (2008), The Holy Grail of Macroeconomics: Lessons from Japan’s Great Recession, Wiley.
●Minsky, Hyman (1986), Stabilizing an Unstable Economy, New Haven: Yale University Press.