マーク・コヤマ「ジョエル・モキイアと経済成長の起源:2025年ノーベル経済学賞に寄せて」(2025年10月16日)

イノヴェーションが様々な政治的大義の下で抑圧されようとしている今日において、モキイアは私たちに、思想の自由交換と競争市場がどれほど多くのものをもたらしてくれるかを思い出させてくれる。

このエントリは、Fusionで公開した記事の転載である。コメントをくれたサム・ゴールドマンに感謝する。

2025年のノーベル経済学賞は、イノヴェーション駆動型の経済成長の説明という業績に対して与えられた。フィリップ・アギヨンとピーター・ホーウィットは、内生的経済成長理論のパイオニアである。2018年にポール・ローマーがノーベル賞を受賞した際、彼らはノーベル賞を逃したと見られていた。だが今回、彼らの経済成長理論への先駆的貢献が、経済成長の歴史的プロセスとイノヴェーションに関するジョエル・モキイアの研究とともに賞を与えられた。このエントリで焦点を当てたいのは、そのモキイアの研究である。

モキイアの最初期の研究(1976年にExplorations in Economic History誌に掲載されたフォーマル・モデルなど)は、経済成長の問題に焦点を当てていた。だが、1990年に『富のてこ(The Lever of Riches)』を出版した当時のモキイアは、経済成長よりもむしろ、19世紀中盤に起こったアイルランド飢饉の研究者としてよく知られていた。しかし、『富のてこ』は大成功を収めた。本書が今日でも大学生向けのリーディング・リストの多く(私のも含む)に載り続けていることは、その影響力と息の長さを証し立ててている。

『富のてこ』以降、モキイアの研究の焦点は、経済成長だけでなく、イノヴェーションの問題に向かうようになった。イノヴェーションには2つの構成要素がある。第1の要素は、純粋な発見だ。これは伝統的には科学史の研究テーマである。第2の要素は、その発見を市場に届けて、稼げる事業に変換するプロセスだ。モキイアの研究は、ヨーロッパが1500年頃から発見の知的ハブとなったのはなぜか、そして、これが19世紀以降、いかにして近代的経済成長へと繋がったのか、を説明しようとするものだ。

『富のてこ』においてモキイアは、マクロ発明とミクロ発明を区別している。マクロ発明とは、印刷機やインターネットのような、汎用技術と呼ばれるものを指す。マクロ発明は世界を一変させるような可能性を持っているが、その影響が完全に感じられるまでには数十年かかることも珍しくない。さらに、マクロ発明は、無数のミクロ発明によって補完されるまで、世界になんの影響を及ぼさないこともある。ミクロ発明とは、マクロ発明によって生み出された技術をちょっとずつ改善したり、費用節約的にしたりして、その技術の広範な普及を可能にするような発明を指す。例えば、内燃機関と自動車というマクロ発明が、20世紀初頭に交通輸送を変革させるに至るまでには、たくさんの補完的な技術改善(例えばゴムタイヤなど)が必要であった。

モキイアの洞察は、レオナルド・ダ・ヴィンチのような孤独な天才発明家が、自分1人の力でテクノロジーの歴史や経済成長に影響を及ぼすことはなかった、というものだった。ここで私が思い出すのは、2000年代にイギリスで放映されていたドキュメンタリー番組だ。そこでは、ダ・ヴィンチの無数の発明(パラシュートやヘリコプター)が、〔当時から〕デザイン的には実現可能であったということを科学者たちが検証していた。だが、そうしたアイデアを支えるようなミクロ発明が出てこず、それを実現できる職人や技術者たちもいなかったため、ダ・ヴィンチの洞察は同時代人から無視されてしまったのだ。

『富のてこ』以降、モキイアが刊行している一連の著作は、このトピックについて繰り返し論じており、イノヴェーションのプロセスに関する斬新な洞察を提示している。こうしたトピックに関するモキイアの研究と、多くの歴史学者たちの研究との違いは、モキイアが一貫して、科学における発見や技術的ブレークスルーを、経済成長という一般的問題と結びつけていることだ。モキイアの関心は、産業革命以前、長きにわたって経済成長が停滞していた理由を説明することにあった。

モキイアの一連の著作は、持続的経済成長の起源に関する経済史研究者の考え方を、根本的に変化させた。2016年の著書『成長の文化(A Culture of Growth)』の書評を書いた際、私は次のように述べた。過去の著作において、

モキイアは、18世紀イングランドにおける、発明やイノヴェーターの勃興、さらに、思想家や『改善者』たちで構成された職場の勃興についての、文化的説明と言えるものを展開していた。だがこれらの著書においてモキイアは、そうした実用的イノヴェーションや改善の文化の勃興を促した要因の徹底的な探究を避けていた。

『成長の文化』でモキイアは、明確に文化に焦点を当てている。当時私は、この事実こそ、経済成長の議論において「文化」が重要かつ正統な概念として見なされるようになった証だと述べた。ジャレッド・ルービンと私は、『「経済成長」の起源』において、こうした議論を広範に検討している。

だがここでは、モキイアの議論の重要な要素の1つ(この分野の研究者たちによって取り上げられてきたが、未だ分野外では知られていないように思われる側面)に焦点を当てたい。それは、経済成長に関する制度的説明と文化的説明の補完性だ。

多くの本が、持続的経済成長(デアドラ・マクロスキーの言う「大いなる富裕化(Great Enrichment)」)の起源に関する複数の異なる説明を、二分法的に対立させている。それは地理的条件や完全なる「運」によるものであるとか、搾取によるものだとか、あるいは、全ては制度で決まるとか、文化的価値観で決まるとか、といった具合だ。だがルービンと私は『「経済成長」の起源』において、こうした要因が互いに独立に作用したと論じるのは明らかに誤っていると主張した。持続的な経済成長の起源を巡る説得的な説明は、こうした複数の要因の間の相互作用を考慮しなければならない。

これこそ、モキイアが少なくとも過去20年の間、強調してきた点である。彼は特に、自身が「メタ制度」と称するものに注意するよう促してきた。すなわち、「文芸共和国(Republic of Letters)」である。

モキイアは、「文芸共和国」と称される、国家を超えた(後には宗教も超えた)学究者の共同体について論じている。文芸共和国は、16世紀に発生し、1600年以後本格化した。この研究者サークルには、科学者、医者、哲学者、数学者、そして神学者、天文学者、さらには神秘的・オカルト的著述家といったメンバーも含まれていた。

モキイアは、この教養ある多言語のコミュニティにおいて共有されていた信念や価値観を強調している。これは、文化的価値観の重要性を示す議論だ。文芸共和国の思想家たちは、イノヴェーションを奨励した。彼らは中世の思想家たちと違って、アリストテレスやプトレマイオス、ガレノスの思想を崇めたてず、カール・ベイカーの言う「祖先崇拝」に陥っていなかった。彼らの行動はむしろ、(ときに無節操なほど)競争的なものだった。それは、彼らが自然の秘密を解き明かそうとしていたからだ。

だがこれは、制度の重要性を示す議論でもある。文芸共和国という研究者のグループはそれ自体、インフォーマルな国際的ネットワークとして機能し、同時に、新しい思想や発見を広める装置としても働いた。これは様々な洞察を生み出し、さらなるイノヴェーションへのインセンティブを与えた。

17世紀後半までに、フィロソフィカル・トランザクションズ(Transactions of the Royal Society)などの、「査読つき」の学術誌に類するものが現れ始めた。輸送技術の発展により、本を広めることが容易となった。この仮想的コミュニティを支える物理的インフラには、大学(特に、パドヴァ大学、パリ大学、ライデン大学)も含まれるが、インフォーマルなアカデミーや科学協会の方がずっと重要だった。

制度的インフラは決定的に重要であった。モキイアは、郵便制度の重要性に注目している。ヨーロッパの郵便制度は、タッソ家がイタリアで郵便ネットワークを組織し始めた15世紀にまで遡る。これは16世紀中に神聖ローマ帝国へと広まった。17世紀までには、ヨーロッパ全土が郵便ネットワークで結び付けられ、異なる国に暮らす研究者たちが継続的で安定した手紙のやりとりを行えるようになった。これは、文芸共和国の発生に不可欠の前提条件だった。

制度は、もっと高次のレベルでも重要となる。以上で述べたような動きは全て、断片化した競争的な国家システムを背景に生じていた。モキイアが主張しているように(またノエル・ジョンソンと私が『迫害と寛容(Persecution and Toleration)』〔未邦訳〕で論じているように)、こうした背景があったことで、1つの国や1人の支配者が、新しい知識・思想を抑圧するということが非常に難しくなった。モキイアによれば、文芸共和国のメンバーたちは、検閲を逃れるために海外の出版社を利用していた。極端な場合、フットワークの軽いメンバーなどは、国から国へと移っていき、一方の国を利用して他方の国に対抗した。政治的断片化と王朝・政体・宗教間の競争が組み合わさることで、反動勢力の結託はほとんど不可能となった。目をつけられた著書が焚書されるということは、西ヨーロッパでも18世紀まで生じ続けていたが、思想家たちが物理的に強制を受けるということはなかった。

この一連の議論は、制度的要因、政治的要因、文化的要因の間の相互作用をうまく捉えており、それらが分かちがたく密接に結びついていることを示している。

また、こうした議論は、経済成長の起源に関して他の要因を強調する説明とも上手く組み合わせられる。そうした要因としては例えば、政治制度や、技能・人的資本などがある(モキイアは、水車大工、より一般に熟練労働者を取り上げた研究で、そうした要因を扱っている)。実際、モキイアは『富のてこ』以来、こうした様々な要因を、持続的経済成長の起源に関する1つの整合的な説明へと織り込む、豊かな枠組みを徐々に構築していった。

モキイアはその研究を通じて、産業革命の生じた地域とタイミングという、経済史研究者を長らく悩ませてきた問題に焦点を当ててきた。より具体的に言うと、産業革命はなぜ、世界の他の地域ではなく、イギリスで生じたのだろうか? そして、なぜそれ以前でもそれ以降でもなく、18世紀に生じたのだろうか?

モキイアの膨大な研究を踏まえると、次のようなストーリーを再構成できる。そのストーリーは、16世紀から17世紀に生じた科学革命の起源と成功を説明するところから始まる。科学革命は、汎ヨーロッパ的現象であり、非常に重要な命題的知識を生み出した。この知識は、それ自体では経済成長をはやめることはなかったが、その後の技術発展の最終的な拠り所となった。

続けてモキイアは、18世紀において、一部の科学原理が産業に適用された経緯を追っている。モキイアの言葉で言えば、「産業的啓蒙(Industrial Enlightenment)」の発展である。科学革命と異なり、これはほぼ完全にイギリスにおける現象だった。この現象は、ティーショップやコーヒーショップを基盤とするもので、そこでは、科学者、企業家、熟練の職人たちが交流し、アイデアを共有した。そしてもちろん、制度的要因も決定的な役割を果たした。政治の安定、統合された市場、宗教的寛容は、産業的啓蒙の前提条件だった。これらは全て、産業革命それ自体の背景条件となった。

だがモキイアのストーリーはここで終わらない。彼の研究は、1850年以降の近代科学の応用も扱っており、現代社会に直接の重要性を持つような洞察に満ちている。世界の様々な地域で、政治スペクトラムの両極が技術進歩に対する反発を強めているように思われる昨今、このノーベル賞は、イノヴェーションと技術の重要性を認めるものと言えるだろう。モキイアの特筆すべき貢献は、イノヴェーションがいかに近世の西ヨーロッパに根づいたかを詳細に論じたことであった。イノヴェーションが様々な政治的大義の下で抑圧されようとしている今日において、モキイアは私たちに、思想の自由交換と競争市場がどれほど多くのものをもたらしてくれるかを思い出させてくれる。ノーベル賞委員会は、アギヨン、ホーウィットとともにモキイアに賞を与えることで、近代の繁栄の深い歴史的起源を示す研究を称えたのである。

[Mark Koyama, Joel Mokyr and the 2025 Nobel Prize, 2025/10/16.]
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