ジョセフ・ヒース「病気は社会的構築物である」(2025年7月26日)

何が病気であると見なされるか、病気であることによってどんな義務を負わされるか、病気である場合にどんな行為を期待されるか、といったことは、社会的に決定されている。

社会構築主義は近年、評判が良くない。その大きな理由は、セックスとジェンダー・アイデンティティを巡る議論で社会構築主義が利用(そして誤用)されてきたためだろう。これは残念なことだと私は思っている。なぜなら、構築主義的な分析は、適切になされるならば、世界に関する重要な洞察を与えてくれるものだからだ。どんな人間も、社会環境の「自然らしさ(naturalness)」をひどく高く見積もり、実際には社会的な取り決めでしかないものを実体化(reify)して、客観的に存在するもののように扱ってしまう傾向を基本的に持っている。構築主義の古典的な仕事の多くは、私たちが自然なものとナイーブに受け止めがちな社会的世界のある側面を取り上げて、それがいかに、特定の時期の特定の文化的文脈において形成されたものであるかを示すものだ。思想史や他文化の研究に真剣に関心を持っている人なら誰でも、学びを深めるほどに社会構築主義者になっていきがちである。時代や地域が異なれば、暮らしている社会的世界も全く異なるという事実から目を背けられなくなるからだ。

もちろん、進歩派の研究者の多くも、社会構築主義を熱心に支持している。それは、彼ら彼女らがこの社会の様々な側面を不愉快に思っており、同時に、変化させられないものを批判しても益がないと認識しているからだ。ある取り決めが社会的構築物ならば、その取り決めは変化させることが可能であり、批判する意義もあるというものだ(もちろん、一部の社会批判家たちは、ある現象が社会的に構築されたものだと指摘するだけで、変革を導けるだろうと楽観的にも考えている。人々がそのようなこの世界の不正義を許容しているのは、変革が可能だと認識できていないからでしかない、と想定しているからだ)。その結果、一部の研究者はありがちな願望思考に陥り、「変わってほしいから」という理由だけで、様々な事象を社会的構築物だと思い込むようになる。

だが、願望思考に陥ってなんでもかんでも社会的構築物にしてしまう論者がいるからといって、より冷静な証拠の吟味に基づく構築主義的分析を貶すべきではない。このことを説明するために、構築主義的分析の古典的な例の1つを取り上げたい。それは、アメリカの社会学者、タルコット・パーソンズが行った病気(illness)に関する議論である(これは1951年の著書『社会体系論』で最初に論じられた)。パーソンズの観察によれば、ほとんどの人は、「病気である」ことが自然な事態、つまり人体組織の生理学的状態である、とナイーブに捉えている。だが、この現象をより注意深く考察すると、病気であることは社会的役割であり、非常に具体的な資格と義務を特定する一群の社会規範に統制されていることが分かる。言い換えれば、病気は社会的構築物なのである。

もちろん、パーソンズがこうした分析を行ったのは、病気の患者が自身の身体状態によって苦しんでいたり、なんらかの意味で健康を妨げられていたりするといったことを否定するためではなかった。パーソンズの目的は、「病気」がそうした身体状態よりもはるかに多くの構成要素を持つと示すことだった。身体状態が重要なのは、それが病人役割を引き受ける際に得られる資格の基盤となるからだ(その資格付与は、直接的になされる場合もあるし、医療専門職者によってなされる場合もある)。その個人のその後の行動の大部分は、身体組織の状態ではなく、社会的役割によって規定される(社会学者が両者を区別して考えようとするのはこのためだ)。例えば、仕事を休んだり、試験を延期したりする資格が与えられるのは、その人が病人として占める社会的役割によるものであって、根底にある生理学的状態によるものではない。

私はこの分析を非常に有益だと思っている。現在、この分析は恐らく、これまで以上に有益なものとなっている。なぜならこの分析は、セックスとジェンダーの関係を巡ってなされてきた論争の多く(そして、ジェンダーは社会的構築物であるという主張)に対して、よいアナロジーを提供するからだ。これは特に、生理学的事実と、社会的に構築された役割との関係を考える良いモデルとなる。だがその話に入る前に、この種の真剣な構築主義的分析(重要な社会学的論点を指摘しようとするもの)と、評判の悪い類似見解とを区別しておくのが有益だろう。

ほとんどの学部生は、かなり早い時期から社会構築主義と出会う。だがそこで出会うようなタイプの社会構築主義は、実のところ真剣な社会学的仮説ではなく、議論のトリックといった方がよいものだ。どんなカテゴリ化も言語に依存しており、あらゆる自然言語は重要な点で恣意的(conventional)な要素を含んでいる。そのため、私たちが対象を指し示すために用いる語と、対象それ自体との間に存在する曖昧さを利用して、「あらゆるものは社会的構築物だ」と主張するのは容易い。例えば、20世紀以前は「敗血症(sepsis)」にあたる医学的状態のカテゴリが存在しなかったから、敗血症は社会的構築物だ、と論じることができる(最も近いのは「血腐れ(blood rot)」だが、これは敗血症と重なっていない。この語は、私たちが現在では敗血症と呼ばない状況の一部を指すのにも用いられ、また現在は敗血症と分類される状況の一部を排除していたからだ)。そうして、大袈裟なハッタリとともに、「20世紀以前、敗血症で死んだ人は存在しなかった」という言葉のトリックが使われる。確かに、「敗血症」という記述の下で死んだ人はいなかったという点でこの言明は正しい。だがこの言明は、人類史を通じて、人々が、敗血症と現在なら記述できる状況によって死んできたという点で、明らかに誤っている [1]原注:もう少し専門的な言葉を使うなら、この議論は事象(de re)と言表(de dicto)の曖昧さを利用していると言える。 。にもかかわらず、こうした言葉のトリックが使われると、無防備な人々は「近代になって人類を脅かす静かな殺戮者が新たに現れた」と信じ込んでしまうかもしれない。

このような言葉遊びはあまりにもバレバレなので、真剣に受け取る人間などいるはずがないと考える人もいるかもしれないが、現実にたくさんの人々がこうしたトリックによって混乱し、誤った考えを抱いてしまっている。ミシェル・フーコーはこの点で最も罪が重いかもしれない。フーコーの言語論は、対象と、それを指すために私たちが用いる言葉(つまり「言葉と物」)との間の直観的区別を曖昧にするものだった。さらにフーコーは大袈裟な言い回しを好んで用いていた。そのため、「セックスはヴィクトリア朝時代の発明だ」とか「古代世界にはホモセクシュアルが存在しなかった」といったようなことを述べている。もちろん、人類史を通じて人間はセックスを行ってきたし、ゲイもストレートも存在してきたというのは明白な事実だ。ジュディス・バトラーなど、現代のフーコーの信奉者たちの多くは、同様の議論のスタイルを好んでいる。例えばバトラーは『ジェンダー・トラブル』で、たくさんのページを割いて、ジェンダーだけでなくセックスもまた社会的構築物であると示そうとしている。バトラーが提示している議論は、構築主義の言葉遊びの一種に過ぎない。バトラーは、自身の主張を支持するための経験的事実や観察を一切挙げず、言語に関する一般的仮説から自身の主張を導いているだけだ(さらにその言語に関する仮説は、フーコーの権威から導いている)。

この種の、「ポストモダン」哲学と結び付けられがちなタイプの社会構築主義は、ラディカルな見かけを持つ一方で、実のところ社会構築主義をトリヴィアルな(取るに足らない)ものにしてしまっている。この種の構築主義的な主張は、言語と認知の普遍的な特徴から導かれているため、「全ては社会的構築物である」ということを含意しているからだ。そして、「全ては社会的構築物である」というのは、「社会的に構築されたものなどない」と言うのとほとんど同じだ。こうした主張は、あるものが他のものよりもはるかに強く構築されているということ、そして、そうした違いを区別するのが重要であり得ることを見落としている。「セックス」が社会的構築物であることを示そうとするバトラーの議論(例えばp. 117)は、「花崗岩」が社会的構築物である(「採石場で割り当てられた」ラベルに過ぎない)ことを示すのにも同じくらい容易に用いることができる。

以上の議論は、私が別の場所で、ウォークの「研究所からの漏出」理論と呼んだもの [2]訳注:次を参照。ジョセフ・ヒース「反自由主義的リベラリズム」(2024年7月30日) に一定の支持を与える(この理論によれば、専門家だけが扱うべきある種の危険な議論が、インターネットに流れ出て、ヴァルネラブルな人々の心に計り知れないほどの混乱をもたらしている)。社会構築主義は恐らく、その一例だ。例えば、その悪影響は、人種のステータスを巡る議論に見て取れる。こうした議論では、時代や社会が異なれば、用いられる分類枠組みも異なるという観察から、人種は「実在しない」とか、生物学的現実ではないという結論が導かれることがある。パーソンズを読む際にも同様の誤解が生じがちだ。つまり、病気が社会的構築物であるなら、人々は実際には病気にはかかっていないとか、病気のふりをしているだけのはずだ、と考えてしまうのである。パーソンズが言いたかったのはそういうことではない。

こうした問題を考える際のもっと良いやり方は、他の条件が等しい場合、自然的性質は「ある社会的ステータスへの入場券(admission ticket)」、あるいは「ある社会的役割を占めるための資格」のようなものを提供する、と考えることだ。人種の例で言うと、ある人がある人種カテゴリのメンバーと認められるには、特定の生物学的性質(つまり特定の祖先)を持たなければならないが、そのカテゴリのメンバーであることによって生じる帰結は全て、その生物学的性質から単純に導かれるものではない(そうした帰結の多くは、社会的で偶然的なものだ)。同様に、パーソンズによる病気の分析では、ある人が病気と分類されるためには一定の生物学的性質を持つ必要があるが、病気であることから生じる帰結はその生物学的性質から導かれるものではない。例えば、病気になるとベッドから出なくてよくなるのは、病人がベッドから出られないからではなく、ベッドから出る義務をもはや負っていないからだ(つまり、病人は健康な人に課される義務を免除されているのである)。

だが、もし自然的性質と社会的ステータスがこれほど密接に関係しているなら、両者を区別することの利点とはなんだろう? 両者を区別する1つの理由は、そうしたステータスを取り巻く複雑な社会行動のパターンがよりよく理解できることだ。例えば、パーソンズによる病人役割の議論の鋭い点の1つは、病人役割を統制する交換(quid pro quo)の構造を明晰化していることだ。病気は一般的には嘆かわしい状態と見なされるが、それは日常的な社会的義務からの免除という、一定の利点も持っている。学校や仕事に行かず家で寝ていてよい、という許可がおりるだけではない。病気であれば、あらゆる社会的かかわりを取りやめることでき、元気に振る舞ったり人に礼儀正しく接したりする義務を負わされず、世話してもらう資格を得る、などなどの利点があるのだ。そのための交換条件として、病人は、「良くなる」ための誠実な努力を行い、病人役割から脱そうとしているということを他人に示す義務を負っている。そのまずもっての手段は、医者の指示に従うこと(痛み、不快感、欠乏を伴うものも含め)、適切な休養をとること、回復したいという意欲を表明することなどだ(病と「闘う」という比喩は、病院がサービスを促進するためによく用いるものだが、同時に、患者にとっての適切な行動の見本を見せるという規範化の機能も果たしている)。

SickKids VS: Undeniable – Youtube

「医者は余命6ヵ月と宣告したが、患者は4ヵ月で力尽きてしまった」などという訃報記事を書く記者はいない。予測された余命は恐らく、6ヵ月を中心に正規分布していると思われるにもかかわず、だ。平均〔余命〕より長く生きたケースに注目が集まるのは、私たちが命にしがみつくことを価値ある性格特性だと考えているからではない。その人が、病人役割の積極的な義務を果たした模範例であると称賛するためだ。

病人役割を引き受けることには利点もあるので、一定数の人々は、仮病をしたり、病気を長引かせたりするなど、病人役割から離れるのを遅らせようとするだろう [3] … Continue reading。極端な場合は、虚偽性障害など、病人というステータスを獲得したり維持したりするために、症状を偽る人もいる。そのため、病人役割の境界線は常に、社会的コントロールに服している。実際、医師という職業の主要な責務の1つは、病気の根底にある生理学的状態を処置するだけでなく、病気と健康状態の境界線を取り締まることだ。事実、多くの人が医師に対して複雑な感情を向ける理由の1つは、医師が病を癒すと同時に、社会的コントロールを行使する主体としてもふるまうためだ [4] … Continue reading (医師の仕事には、患者を入院させることだけでなく、退院させることも含まれている。そしてしばしば、患者から抵抗を受ける)。

もちろん、生理学的状態を改善させることと、病状の改善に向けて患者にプレッシャーをかけることの境目は、明確ではない。医学部の学生が、病気は「生物-心理-社会」的な現象だと教わるのはこのためだ(私はかつてこの言葉をヘンテコだと考えていたが、今では適切な言葉だと思っている)。例えば、仮病は病人役割のルールに違反しているが、それは本人の健康にとっても良いことではない。ベッドで長い時間を過ごしすぎたり、いつもの活動水準に戻るのが遅れすぎたりすると、生理学的なレベルでも悪い状態になるからだ。結果、「よくなること」は、身体的な回復と社会的なプレッシャーの組合せを通じて実現することが多い。

パーソンズの病人役割の議論(例えば『社会体系論』〔原著〕のpp. 436-438に見出される)に、明らかに時代遅れな面があるということは記しておくべきだろう。この本が執筆されたのは1950年代であり、医者の科学的・社会的権威に対して患者が異常なほどの敬意を払うことが前提とされている。だが時代が下るにつれ、医師のゲートキーピング機能は劇的に縮小していった(そして、人々は病人役割にアクセスしやすくなっていった)。これは、社会構築主義の中心的なポイントを示している。何が病気であると見なされるか、病気であることによってどんな義務を負わされるか、病気である場合にどんな行為を期待されるか、といったことは、社会的に決定されている。だからこそこの種の事柄は、様々な社会的プレッシャーに応じて、時代とともに変化し得るのだ。このような社会学的分析の価値は、「病気とは単なる生理学的状態である」という幻想を打ち砕く点にある。こうした幻想によって人々は、病人であることの帰結(生産的労働の義務の免除など)が、病人役割の社会的期待から偶然的に導かれるものではなく、身体状態の自然的性質から必然的に導かれるものだ、と見なすようになってしまう。この幻想を暴くことで、病人であることの帰結や、病人役割の構造、それを変化させようとするプレッシャーにどう応答すべきか、といったことを注意深く真剣に検討できるようになるのだ。

もう1つ、パーソンズの病人役割の議論で記しておくべきは、それが現代の政治的文脈から見ると明らかに「右寄り」であることだろう(これは偶然ではない。パーソンズは政治的には非常に保守的で、この傾向は後期の著作で明確に現れている)。実際、精神疾患・障害の割合の増加を巡る昨今の議論において、精神が健康であるという状態は、部分的には生理学的なものだが、同時に(成功裏になされた)社会的コントロールの結果でもある、という論点を指摘する人が増えていないことに私は驚いている(私は職場で、学生に「対応する(accommodate)」新たな方法を探るための研究に参加させられている。学生に「対応しない」ことが治療プロセスの重要な部分である可能性を指摘する者は1人もいない)。これらは全て、学術文献で繰り返し繰り返し指摘されてきた論点、すなわち、社会構築主義には内在的に左翼的であったり進歩的であったりする点はない、ということを示している。まず、何かが社会的に構築されているという事実だけでは、それが変化可能であるとか、容易に変化させられるということを必ずしも含意しない。宗教も(明らかに)社会的構築物だが、宗教を廃絶しようとする様々な試みが、驚くほど成功せず終わっていった。第二に、変化させることが可能だという事実は、変化させるべきだということを意味しない。例えば、仕事を「病気で休む」という慣習は20世紀初頭に始まったものだが、ほとんどの人はそれを病人の持つ資格として理に適っていると考えているはずだ(特に感染症にかかっている場合は)。何かが社会的に構築されていると示すことは、批判のための重要な助走かもしれないが、批判そのものではない。

私は、病人役割それ自体に関して、大した関心を持っているわけではない。私がパーソンズの分析で最も有益だと思っているのは、病気以外の領域でなされている主張を評価するときである。例えば、ジェンダーや人種の社会的に構築された側面を強調する人々は、その主張からある種の政治的含意が導かれると考えていることが多い。こうした含意が本当に導かれるのか、信念バイアスに陥ってしまっているのではないか、を突き止めるには、異なる感情を引き出しやすそうな別の例で考えてみるのが有益だ。例えば「ジェンダー」を「病気」で置き換えてみることは、この点で特に効果的だろう。そうすることで、様々な構築主義的主張から、何が導かれ何が導かれないのかを、より容易に確認することができる。

[Joseph Heath, Illness is a social construct, In Due Course, 2025/7/26.]

References

References
1 原注:もう少し専門的な言葉を使うなら、この議論は事象(de re)と言表(de dicto)の曖昧さを利用していると言える。
2 訳注:次を参照。ジョセフ・ヒース「反自由主義的リベラリズム」(2024年7月30日)
3 原注:この観察からパーソンズは、病気は一種の社会的逸脱であるとの主張に至った。この主張は、実際にはパーソンズの見解から導かれるものではない。パーソンズ的図式における「逸脱(deviance)」という語は、社会規範に違反する行為を指す(典型例は犯罪行為)。だが病気は、日常的規範の違反ではなく、そうした規範を正統に免除される状態へと入ることだ。仮病は逸脱の一種である。なぜならそれは、病気役割の規範に違反しているからだ。だが、病気であることそれ自体は逸脱ではない。
4 原注:私の妻は医者なので、私自身も医者と交流する機会がたくさんある。会話の中でこうした話題になったときに、この種の社会的コントロール機能が医者の職業役割の重要な一部であるという主張を否定する人に出くわしたことは、これまでで一度もない。
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