「よい」制度(“good” institution)はどうすれば手に入れられるのだろうか? この問いは私の最近の研究テーマだ(ここを参照)。さらにディシリー・ディシエルト(Desiree Desierto)とジェイコブ・ホール(Jacob Hall)との共著で、マグナ・カルタに関する新しい論文の原稿を書き上げたところで、非常に興奮している。
さて、ダロン・アセモグル、サイモン・ジョンソン、ジェームズ・ロビンソン(以下AJR)が制度研究の業績でノーベル経済学賞を受賞した。今こそ「よい」制度やマグナ・カルタというテーマに再訪する絶好の機会だ。
「制度の影響」と「制度の発生」
AJRの研究が当初注目を浴びた際、その関心は「制度の影響(effects of institutions)」というテーマに集中していた。ノーベル賞授賞にあわせて公開された「学術的背景(scientific background)」ではこの点が明確に書かれている。
アセモグル、ジョンソン、ロビンソンは2000年代初頭、2つの独創的な論文で、植民地期の状況がその地域の長期的繁栄に及ぼした深刻な影響について、説得的なエビデンスを提示した。彼らはまた、植民地期の状況によってヨーロッパの植民者の採用する制度のタイプが左右され、その制度のタイプが長期的な繁栄に影響を及ぼした可能性があると説得的な形で示した。
多くの人が論じているように、この2つの論文は非常に影響力が大きかった。ノーベル賞委員会の言を引いておこう。
これら2つの論文は、多くの面で後続の実証研究のアジェンダを形成した。第1に彼らの研究は、〔実証研究の焦点を〕経済成長の直接的な相関物(例えば貯蓄率、生産性、人的資本)の検討から、経済成長の根本的決定因(制度など)の検討へと移行させた。第2に、彼らは様々なマクロ経済的問題に関する因果関係を特定する上で、明確な実証研究のリサーチデザインの力を示して、新基準を導入した。第3に、準実験的なリサーチデザインを用いて、現代の制度の質、生産性、イノベーション、経済成長の歴史的決定因に関する新しい研究領域を創始した。
近年の研究はAJRの個々の論文での発見を超え出るものだが、AJRの影響は否定できない。AJRによって可能となった後続の研究としては例えば、ネイサン・ナン(Nathan Nunn)の奴隷制の研究や、メリッサ・デル(Melissa Dell)のペルーにおけるミタ制の研究がある。ナンとデルの研究は、低開発状態の持続という現象の理解を深めてくれた2つの重要な貢献だ。
しかし、研究者の多くは制度の影響(effects of institutions)に焦点を当てるようになった一方、制度の変化(institutional change)の問題への関心は薄れてきている。なぜだろう? 私の考えでは、答えは単純だ。制度の影響に研究が集中したのは、1990年代から2000年代初頭に発展した因果推論の新しいツールを利用できたからだ。IV(操作変数法)、DID(差分の差分法)、RDD(回帰不連続デザイン)は、制度の影響を他の様々な要因(人的資本、地理、文化など)から切り離すための効果的なツールとして利用できた。クロスカントリー・データを用いた経済成長研究が1990年代に低迷した主たる理由は、内生性の問題のためだった。信頼性革命(特に、国家内の変動の利用)の応用によって、制度研究者は応用経済学者たちの多くが辿った道を進めるようになった。
ほとんどのメディアはAJRの受賞を報道する際に上記の研究テーマに焦点を当てているが、ノーベル賞委員会はAJRの他の貢献にも注目している。委員会が特に注目しているのはアセモグルとロビンソンによる民主化の研究で、これは政治学において非常に影響力を持っている。
メインのアイデアは、ノーベル賞委員会の丁寧な図で示されている。下からの革命のプレッシャーは既成エリートへの脅威となる。エリートは、単純に資源を再分配すると約束するだけではこの脅威を回避できない。その約束は信頼可能ではないからだ。それゆえ、エリートは再分配に信頼可能な形でコミットするために、権力を民衆に分け与えなければならなくなる。つまり、参政権を拡張して、最終的には民主化しなければならないのだ。
アセモグルとロビンソンの民主化の研究は、主に19世紀と20世紀の事例に適用されている。彼らの理論を理解する上で格好のケーススタディとなるのがイギリスだ。イギリスでは、エリートが革命のプレッシャーに反応して、参政権を漸次的に拡張した(経験的証拠に関してはここを参照)。
彼らの仕事は偉大だと思うが、私自身の関心は彼らよりももっと前の時期にある。私は学部生の頃、ブライアン・ウォード=パーキンス(Bryan Ward-Perkins) [1]原注:パーキンスは『ローマの帝国の崩壊』という著書でよく知られている。 の下で古代後期を研究しており、また私の研究のほとんどは中世から近世のヨーロッパに焦点を当てている。私の視点からすると、全ての基礎は19世紀以前に据えられていた。近代、そしてリベラル・デモクラシーの起源は、イギリスの1832年改革法やフランス革命よりもはるかに深い。歴史をもっと遡って検討する必要がある。
包括的制度の中世的起源
もちろんAJRは、〔19世紀より〕もっと前の時期のヨーロッパ史の事例も研究している。AJRは、大西洋貿易が北西ヨーロッパにおける議会の勃興に及ぼした影響について論文を書いており、これは新制度派の研究者であるダグラス・ノースとバリー・ワインガストの初期の研究、そしてロバート・ブルーナーのようなマルクス主義歴史学者にも依拠している。だが、議会やそれに類する制度の起源は中世ヨーロッパまで遡る。
AJRは、あるハンドブックに寄稿した「長期的成長の根本的要因としての制度」“Institutions as a Fundamental Cause of Long-Run Growth”〔未邦訳〕というチャプターでこの点に触れている。
最初の例は、ヨーロッパにおける立憲君主制の成立だ。中世においてヨーロッパのほとんどの国家は世襲の君主に統治されていた。だが封建世界が変容したことで、様々な集団が政治的権利を獲得するために争い、君主の専制権力を削いだ。イングランドでは、このプロセスは早くも1214年には始まっていた。1214年、ジョン王は貴族たちからマグナ・カルタに署名するよう迫られた。マグナ・カルタは、貴族の力を大きくし、法の下の平等という概念を導入し、後続の王に対して貴族への諮問を強制するものだった。(p. 452)
実際、アセモグルとロビンソンの著書『国家はなぜ衰退するのか』でマグナ・カルタは11回も言及されている。同じくアセモグルとロビンソンの著書『自由の命運』でも、マグナ・カルタは「イングランドの政治制度の基礎」(p. 174)であり、「重要な政治原理の一部を提示したもの」で、「後続の王と議会によって繰り返し再確認された」(p. 176)と述べられている。だが彼らは、マグナ・カルタがどのようにして生まれたのかを分析していない。実際、マグナ・カルタ [2]原注:厳密に言うと“Magna Carta”ではなく“the Magna Carta”とすべきだが、このエントリや上に挙げた論文では便宜上、“the”を省略している。 、そしてイギリス議会の誕生におけるその役割を、社会科学者たちは真剣に探究してこなかった。私たちが上の論文で着手したのはこの仕事である。
立憲的契約としてのマグナ・カルタ
マグナ・カルタ、あるいは「大憲章」(この「大(great)」というのは物理的にボリュームが大きいということであって、その重要性を指すものではない)は、下からの革命の脅威に対する応答として生まれたのではなかった。マグナ・カルタを理解するには、近代の立憲制への動きを説明するのに提案されてきたのとは根本的に異なるモデルが必要だ。すなわち、エリート主導の制度変化というモデルである。
私たちが関心を持った主たる問題はこうだ。マグナ・カルタのような合意はいかにして可能となったのか? どのようなエリートたちがこの制度変化プロセスを駆動したのか?
鍵となる洞察は、マグナ・カルタが封建制の世界で生まれたということである。1215年にジョン王に対抗した貴族たちはそれぞれ、自前の武装集団、つまり自前の軍事力を持っていた。君主は正統な暴力を独占していなかったのである。封建支配者は、エリートの提携を統べていた。封建世界では、貴族は不人気で抑圧的な支配者への支持を取りやめることができた。貴族間の対立、貴族と王の間の対立はありふれており、ジョン王の父ヘンリー2世も、1173年から1174年にかけて貴族の大規模な反乱に直面した。
ジョン王は中世の同時代の基準で見ても非常に収奪的な支配者で、法制度を選別的かつ恣意的に執行して貴族を虐げた。ジョン王が封建制度を濫用したことで主に被害を被ったのはエリートだったが、非エリートの民衆も君主による抑圧を感じていた。悪名高い例は「ユダヤの金庫」と「王室林」だ。
利子付きでの金貸し(高利貸し)が制限されていたため、王室はユダヤ人に金貸しの独占権を与えるよう促された。王は、ユダヤ人の金貸しを保護する見返りに、利潤の分け前を得た。だが王にとって最大の旨みは、すぐ資金が欲しいときにユダヤ人コミュニティに課税できることだった(タリッジ)。この制度はユダヤ教徒だけでなくキリスト教徒も抑圧するもので、マグナ・カルタでも大きな不満として言及されている。
王のもう1つの資金源は王室林だった。王室林は少なくとも、王国の4分の1を占めていた(Roweberry 2016, p. 518)。王室林は名目上、王が自由に狩りするための場所だったが、実際には追加的な歳入源を王に提供することが主たる機能だった。王室林で狩りしたり薪をとったりした者は皆、罰金を科されたり処罰されたりした。王室の役人は、制限を免除するのと引き換えにお金をもらったり、違反を見逃すかわりに賄賂を受け取ったりすることができた。ロビンフッドの伝説は、この制度が不人気であり続けたことを証し立てている。下の図は、ジョン王が王室林から得た歳入を示している。
ジョン王はなぜこんなにお金を必要としていたのだろう? 主たる理由は、フランス王に負けて失ったノルマンディを取り戻すための資金が必要だったからだ。私たちは先の論文で、1214年のブーヴィーヌの戦いでのフランスへの敗北というショックが、いかにして反乱貴族の提携を可能にする起爆剤の役割を果たしたかを説明するモデルを構築した。
貴族は各々、反乱に参加する、あるいは参加しない理由を持っていた。だが重要なのは、提携による反乱が成功する可能性はある、と貴族たちが考えていたはずだということだ。反乱の成功の重要な予測尺度は、反乱貴族の提携が、王に対する防御のために利用できる資源の量であった、と私たちは主張している。私たちはこれを「没収不能(non-appropriable)」資源と呼んでいる [3]訳注:王が貴族から没収できない資源という意味。 。実証のために、反乱貴族の支配下にあった城の数を没収不能資源の主な尺度として用いた。
封建世界において、城は重要な役割を果たしていた。城は領地周辺の防衛を可能にした。城があれば、王の組織する提携から離れ反乱を起こしても、土地を奪われなくて済んだ。城を奪うことはできるとしても、包囲するのはコストが大きかったのだ。
回帰分析はこの仮説を強く支持している。貴族の親族ネットワーク内で、反乱者の持つ城の数の標準偏差が1増えると、その貴族がマグナ・カルタの反乱に参加する確率は63%上昇することが分かった。貴族の城の指標として前世代の城の分布を用いたり、没収不能資源の代理指標として別のものを用いたりしても、同様の結果が得られた。
議論の含意
ノーベル賞の話に戻ろう。AJRは2005年の論文で、制度変化について考えるための有名な図式を提案した。
鍵となる洞察はこうだ。第一に、経済制度は(非常に重要なものとはいえ)政治制度にとって内生的であった。第二に、制度変化には政治権力の分布の大規模な変化が必要なため、経済制度と政治制度はどちらも〔変化せず〕残存する可能性が高かったが、事実上(デファクト)の政治権力に対する「ショック」は劇的な制度変化をもたらし得た。
私たちのマグナ・カルタの分析は、AJRの提示した大まかな枠組みに上手く位置づけられる。まず、どんな種類の制度変化が可能だったかを理解するには、中世封建制においてマグナ・カルタ以前から存在した制度を理解しなければならない。中世において土地は富の主要な形態であり続けた。人口の大部分は農民で、政治力も経済力も持っていなかった。商業階級は小規模で、ロンドンの外では政治力も政治代表も有していなかった。最も重要なのは、当時の軍事技術が馬に乗った騎士にとって有利だったことかもしれない。以上を踏まえると、有意味な形で制度変化のプレッシャーをかけることができたのは、軍事エリートか経済エリート(つまり貴族)だけだっただろう。
とはいえ、ジョン王が王としてどれだけ搾取的で抑圧的だったとしても、力を持った貴族の大部分が王権の側についていたなら、王の支配に反対する動きは小さかったかもしれない。この状況にショックを与えたのは、1214年のブーヴィーヌの戦いにおける敗戦という(ほぼ)外生的な事実だった。実際、ブーヴィーヌの戦いは決定的な岐路だった。その敗戦は、ノルマンディとアンジューの喪失を確実にし、フィリップ2世のフランス統一を確固たるものにした。イングランド国内を見ると、この敗戦はジョン王の威信と名誉を決定的に失わせ、反乱貴族の提携の形成を促す触媒として働いた。
私たちのモデルを用いれば、マグナ・カルタのような合意を実現可能にしたその他の条件も探求することができる。ジョン王が非常に収奪的だったことに加えて、もう1つ重要な前提条件となっていたのは、貴族間で資源が比較的平等に分配されていたことだった。論文では、前後の時期と比較して、この時代のイングランドでは土地が貴族間でかなり均等に分配されていたという証拠を提示している。王の代わりになると思えるような「大貴族」は存在しなかった。貴族の指導者にできたのはせいぜい、君主の力を削ぐことだけだった。
だがAJRの枠組みが示唆するように、中世イングランドにおける制度変化のプロセスは漸進的なものだった。マグナ・カルタは王の恣意的な権力行使に制限を課したが、イギリスの制度を根底から変革したわけではなかった。マグナ・カルタが普通のイングランドの民衆(男性および女性)に約束した法的保護が実現するまでには数世紀かかったし、包括的制度への移行は断続的に進んだ。ジョン王はマグナ・カルタをすぐに破ったので、マグナ・カルタに示された原理を巡って第一次(1215-1217)および第二次(1264-1267)バロン戦争が生じた(今後のエントリでは、第二次バロン戦争において印象深い軌跡を辿ったシモン・ド・モンフォールについて扱うかもしれない)。この戦争を経てようやく、新しい税を課すには議会を招集しなければならないという原則が確立することとなった。
とはいえ、王権の権力行使に対する制約の前例を確立する上で、マグナ・カルタは決定的に重要だった。中世の後続のイングランド君主たちはマグナ・カルタを尊重した。私のお気に入りは、いろいろな面で野蛮かつ傲慢な君主だったエドワード1世に関するこんなアネクドートだ。トマス・バードルフ(Thomas Bardolf)という若い男が、命じられた相手と結婚するのを拒否したため、エドワード1世の機嫌を損ねてしまった。そこでエドワード1世は
大臣に対して、「トマスをできる限り厳しく処遇すること。ただし、法は犯さぬように」と命令した。
エドワード1世の伝記を書いたマーク・モリス(Marc Morris)は次のように述べている。「この事例で印象的なのは、エドワードは自分勝手な判断を下したとはいえ、大臣に対して法の範囲内に留まるよう念押ししたことだ」(Morris, 2008, 367)。
合法性、そして法の支配を少なくとも見かけだけでも守ろうとするこうした考え方こそ、イギリスののちの制度発展の基礎をなすものだった(その伝統が、テューダー朝の下での中央集権化と王権の肥大化を経た17世紀に、エドワード・コークのような人物たちによって再発見される必要があったとしても)。
[Mark Koyama, Institutional Change and Magna Carta, How the World Became Rich, 2024/10/22.]References
↑1 | 原注:パーキンスは『ローマの帝国の崩壊』という著書でよく知られている。 |
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↑2 | 原注:厳密に言うと“Magna Carta”ではなく“the Magna Carta”とすべきだが、このエントリや上に挙げた論文では便宜上、“the”を省略している。 |
↑3 | 訳注:王が貴族から没収できない資源という意味。 |