ジョナサン・ホプキン(Jonathan Hopkin)&ベン・ロザモンド(Ben Rosamond)の二人――ホプキンはLSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)に籍を置く政治学者で、ロザモンドはコペンハーゲン大学に籍を置く政治学者――が一連のエントリー(こちらとこちら)で、「政論版ウンコ」をテーマに興味深い議論を展開している。「ウンコ(な議論)」というのは、プリンストン大学の哲学者であるハリー・フランクファート(Harry Frankfurt)の用法に従うれっきとした専門用語〔邦訳『ウンコな議論』〕だ。嘘つきもウンコ吐きも(結果的に)間違いを語る点は同じだが、ウンコ吐きが嘘つきと異なるのは真実なんかには目もくれないところだ。ウンコ吐きの語る話は、世間の常識だったりタイラー・コーエンが「常識道徳」(common sense morality)と呼ぶものに強く訴える力を持っている。テレビのニュース用に短く編集されたフレーズ(サウンドバイト)みたいな素朴なウンコもあれば、ポール・クルーグマンが皮肉を込めて命名しているところの「生真面目な諸君」(“Very Serious People”)好みの手の込んだウンコもある。
ウンコ吐きは「真実の法廷」の住人じゃない(真実なんかには目もくれない)ので、事実だったり専門知識だったりを振りかざして論破しようとしても、効き目がそんなにない可能性がある。事実だったり専門知識だったりが無効になるのはどういう状況で、そのことに情報技術の発展がどう関わってくるのかというのは魅力的な論点だし、ホプキン&ロザモンドの二人も軽く論じている。そのあたりの話も興味深いが、ホプキン&ロザモンドの二人の議論の中で個人的にそれ以上に興味を覚えたのが(彼らが命名するところの)「赤字フェティシズム」 [1] 訳注;「赤字フェティシズム」(deficit fetishism)という言い回しは、スティグリッツ(Joseph Stiglitz)から借りてきているようだ。 ――財政赤字(および、国債残高)を削減することへの異常なまでの執着――の分析であり、具体的には前回の選挙前にイギリス政府の高官の口から語られたウンコの分析だ。
財政政策絡みの「ウンコとしての赤字フェティシズム」は、政府を家計になぞらえたり、わかりやすい道徳――「借りたお金を返すのは当然だ」――を持ち出してきたりする。そのため、「常識」に強く訴える力を持っている。どうして「ウンコ」――もちろん、フランクファートが言うところの専門用語としてのウンコだ――と言えるのかというと、事実だったり専門知識だったりを持ち出して論破しようとしても――例えば、「政府と家計は別物だ」と訴えたとしても――、効き目があんまりないからだ。事実だったり専門知識だったりを持ち出すよりも、「ウンコ」には「ウンコ」で応じる方が見込みがあるかもしれない。「投資するためには借り入れをする必要があるんです」とか、「成長して借金を返すのがベストな手なんです」とかって応じる方が見込みがあるかもしれない――「成長して借金を返す」というのを聞いてナンセンスに感じる人は、間違った法廷にいる。真実の法廷から抜け出せていないのだ。私が時に「半端な真実」(“half-truth”)と呼ぶものが含まれているフレーズは、訴求力のあるウンコになれる可能性を秘めているのだ――。
ところで、赤字フェティシズムはどんな時でも強力なウンコなんだろうか? それとも、ある特定の時期に限ってその力を発揮するに過ぎないんだろうか? ある特定の時期に限ってその力を発揮するに過ぎないんだとしたら、今はもうその時期を過ぎたんだろうか? この問いに取り組むのは、財政政策のテクニカルな面について論じるよりも、大事かもしれない。政府に不必要な緊縮策から手を引いてほしいと願っているヨーロッパのあらゆる民のためにも、何よりも先んじて論じる必要がある問いかもしれない――アメリカでは、赤字フェティシズムも緊縮策それ自体も一息ついているようだ。近々ある大統領選挙の結果次第では、長めの休息になるかもしれない――。誤解のないように言っておくと、 ウンコ全般を問題にするのではなく、赤字フェティシズムというウンコの一つに的を絞ってその訴求力の性質について考えてみたいと思う。
一見すると、赤字フェティシズムというウンコは、どんな時でも強力であるように思える。家計をうまく切り盛りするための教え――支出を収入の範囲内に収めて、借りたお金は返す――を絡めてくるので、一般家計の直感に強く訴えるからだ。でも、家計も投資をする――例えば、マイホームを購入する――ために借り入れをすることがあるし、企業なんかもそうしている(設備投資をしたりするために借り入れをする)というのは大抵誰もが知っている。「借りたお金は返しましょう」と説くウンコは、過去5年の間にとりわけ大きな力(訴求力)を発揮したかもしれない。その理由は、多くの家計もまったく同じことをやっていた――借りたお金をせっせと返していた――からだ。
今回の大不況(Great Recession)のそもそものきっかけは金融危機にあるが、実質金利が低いにもかかわらず景気の低迷が長引いているのは(多くの経済学者が言うところの)「バランスシート不況」のせいではないかという意見が時折聞かれる。個人(家計)にしても企業にしても、借金を返済したり新たに借り入れるのを抑える(あるいは、貯蓄を増やす)のに必死な状態が何年も続いているというのだ。その傾向が顕著なのがアメリカとイギリスであり、どちらの国でもマクロで見た貯蓄率が一貫して上昇している。しかしながら、その傾向もどうやら終わりを迎えたようだ。個人(家計)による借り入れが増え始めている(あるいは、借金残高を減らすのに必死にならなくなっている)のだ。それに伴い、政府が借り入れを増やすことへの抵抗感が和(やわ)らぐことになるかもしれない。自分もやっていることだし、政府が同じことをやっても(借り入れを増やしても)構わないというわけだ。
海外要因も付け加えることができるだろう。2010年からの2年間は、海外での出来事にちらっと目を向けるだけで、赤字フェティシズムというウンコの正しさが裏付けられたように思えた。政府が「借金を負い過ぎた」せいで苦境に陥っている他国のことが毎晩のようにトップニュースになっていたのだ。政府が「借金を負い過ぎた」せいで酷いことになっている事例がニュースでガンガン報じられているのだから、多くの人が「借りたお金は返しましょう」と説くウンコを真に受けたとしても何の不思議もないだろう。
赤字フェティシズムというウンコが一時の連れ合いに過ぎない(ある特定の時期に限ってその力を発揮するに過ぎない)ことを示す最後の証拠は、(経済学者が言うところの)民主主義に備わる財政赤字バイアスだ。大不況よりも前の時期を振り返ると、これという理由もなく、多くの国で政府債務残高の対GDP比が上昇傾向にあった。その傾向を食い止めないといけないというのが主たる理由となって、財政ルールが導入されたり独立財政機関が設置されたりした。このことを踏まえると、赤字フェティシズムというウンコはどんな時でも強力と言い切るのは難しいだろう。
中道左派の立場に立つヨーロッパの多くの政党(とりわけ、イギリスの政党)は、赤字フェティシズムというウンコを依然として渋々ながら受け入れているようだ。赤字フェティシズムというウンコに選挙の結果を左右できるだけの力がまだ残っていると考えているのだ。長いものには巻かれろ――加えて、まっとうなマクロ経済学の教えなんて無視しろ――ってわけだ。でも、赤字フェティシズムというウンコに選挙の結果を左右できるだけの力が残っているっていうのは本当だろうか? 議論の余地があるんじゃなかろうかね?
〔原文:“Is deficit fetishism innate or contextual?”(mainly macro, August 3, 2015)〕
References
↑1 | 訳注;「赤字フェティシズム」(deficit fetishism)という言い回しは、スティグリッツ(Joseph Stiglitz)から借りてきているようだ。 |
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