「新スタートレック(Star Trek: TNG)」の中でも私のお気に入りのエピソードの1つは、不吉なシーンで幕を開ける。宇宙船エンタープライズ号が別の連合の宇宙船と衝突し、大爆発を起こして全員が死亡してしまうのだ。だが幸運なことに、両船の衝突は異常時空の境界で発生していたため、エンタープライズ号はほぼ1日前に時間を遡ることとなった。こうして、クルーたちが日々の活動を送り続け、同じ選択パターンを繰り返して大惨事に至り、それを何度も何度も繰り返し続けるという「因果ループ」が生じた。
この繰り返しは永遠に続くことになったかもしれない。だが、クルーのメンバーの一部がデジャブを覚え始めた。そして、ループが繰り返されるほどにその感覚は強くなっていった。こうしてクルーたちはついに、自分たちが因果ループの中に閉じ込められていることを突き止めた。残念ながら、それを知ったところで因果ループから抜け出す方法は分からない。クルーたちは、自分たちのどんな選択が船の衝突を引き起こしたのか、全く分かっていなかったからだ。
クルーたちはついに解決策を見つけ出した。そのためには、自分たちのどの選択が大惨事を引き起こしたのかを突き止めた後、〔次のループに入った〕自分たちにメッセージを送る方法を見つけなければならない。だがクルーたちは、極めて短いメッセージしか送ることができない(その理由はあまり筋が通ったものとは言えないが、ここでは無視してよい)。この計画は成功し、データ少佐は自分自身に向けて、大惨事の数秒前に、「3」というメッセージを送信した。次のループでそのメッセージを受け取ったデータ少佐は、必要な情報を得て、衝突を回避しクルーを救うことができた。
このエピソードには、SF的なバカバカしさが詰まっている。それでも私にとってこのエピソードは、文化の力、そして生物としての生命の哀愁を描く力強いメタファーに思える。複雑な生命体の多くは、その生を通じてたくさんのことを学習するが、やがて死が訪れ、学んだことも全て消え去ってしまう。こうして、永遠のリセット現象が生じる。例えば、新世代の犬は、旧世代の犬から全く何も学ぶことができない。世代が変わるたびにゼロから始めなければならないのだ。結果、犬の社会には進歩というものが存在せず、永遠に人間の庇護下に置かれ続けている。
だが最近になって、このスタートレックの因果ループのエピソードは、私が若い人たちにものを教える際に感じていることを表現する便利なメタファーを提供しているように思えてきた。私が若い頃に信じていたあらゆるバカげた考えを、ほとんどそっくりそのまま信じている学生でいっぱいの教室に向かうというのは、気が滅入るものだ。年をとるにつれ、私は、自分や自分と同世代の人々が賢くなっていくだけでなく、文化全体で、少なくとも何らかの学習プロセスが進行していると考えるようになった。これは間違いだった。今や、世代ごとにリセット現象が生じることは明白となり、この幻想を抱き続けるのは困難となった。
新世代に向けてメッセージを送ることができたら、どんなによかっただろう。だがもちろん、ことはそれほど単純ではない。こちらからメッセージを送るだけではダメで、メッセージを受け取ろうとする人もいないといけないのだから。
以上の話は、若き哲学者、斎藤幸平の近著『人新世の「資本論」』(日本で大ベストセラーとなった本で、最近“Slow Down”という題で英訳が出た)を読んで、私が大変な絶望を感じた理由を説明する。この本は、過去1世紀の間に左派にまとわりついてきたあらゆるバカげた考えのほぼ全てのカタログとなっているだけでなく、1970年代にまだ子どもだった私が触れていたような「エコトピア」幻想をほとんどそっくりそのまま繰り返している。斎藤の著書がこれほど広く受容されているという事実は、左派の認識的生態系の機能不全に関する、極めて厄介な問題を提起する。進歩を支持しているはずの進歩派が、進歩的アイデアを定式化することに関して、いかなる進歩も成し遂げることができないのは、なぜなのだろう? なぜ、新しい、もっとマシな考え方を受け入れず、ダメな考え方をリサイクルしてしまうのだろう?
例えば、なぜ私たちは相も変わらずモンドラゴン〔スペイン・バスク地方の大規模な協同組合の連合〕について語り続けているのだろう? それも、50年前の人々と全く同じような観点で。モンドラゴンのモデルを別の場所で再現しようとする試みは世界中でなされてきたが、それらが全て失敗してきたという事実は、私たちに何かを教えてくれてはいないだろうか? 歴史的経験から何も学べないなんていうことがあるだろうか?
斎藤の著書を自分が気に入るだろうとはそもそも思っていなかったが、それでも、英語圏の書評は本書に非常に好意的だったので、読んでみてそのひどさに愕然とした。例外的に、マルクス主義者たちの書評は本書に対して好意的ではなかった。マルクス主義者たちは明らかに、斎藤の著書における真に新規性のある貢献部分に反応していた。斎藤は、研究の世界では、マルクスに関する論争的な主張を行った人物として知られている。マルクスは晩年の未公刊の著作において、「コミュニズムへの移行が生産力のさらなる発展によって可能となる」という主張を放棄した、というのが斎藤の主張だ。これは、経済成長が進歩を生み出す力になるという見解をマルクスが捨て、「脱成長」を支持するようになった証拠だ、と斎藤は解釈している。そうなれば、マルクスの見解は、現代のエコロジー左派に受け入れられやすいものとなる。それゆえ斎藤は、自身の「脱成長コミュニズム」への支持が、マルクスが晩年に熟慮の末至った見解と一致していると主張する。
以上の議論は全て、マルクスを預言者と見なす人々以外にとっては、どうでもいい話に思われる。結局のところ、斎藤が自身のマルクス解釈の根拠としているテクストは、実際には送られることのなかった私信の草稿であり、1世紀の間ほぼ誰にも読まれず、後続の議論に何の影響も及ぼしていないのだ。その草稿が何を語っていようと、マルクスの晩年の未公刊の見解がどんなものであろうと、「だから何?」という話である。それは、デイヴィッド・ヒュームが死の間際に改宗したという噂話のようなものだ。それが事実だとして、だから何だというのか?
にもかかわらず、マルクス主義者が斎藤の読解に〔否定的に〕反応したのは驚くべきことではない。斎藤の研究がこの分野でこれほど論争的なものとなっているのは、彼がテクスト解釈の最も基本的な原則の1つを破っているからだ。ある著者の著作を読んでいると、その著者が別の場所で擁護している見解と整合しなさそうな、奇妙な文章に出くわすというのはよくあることだ。こうした場合、標準的な対応は、全体を可能な限り整合させるよう、食い違いを最小化する仕方で、その奇妙な文章を解釈することだ。チャリタブル〔寛容〕な解釈とはこういうことである。斎藤のマルクス解釈の問題は、それがひどくチャリティに欠けることだ。斎藤は、マルクスの遺稿の中にある、一見して奇妙に見えるいくつかの文章を取り上げて、それを、史的唯物論の完全な否定の証拠と見なしている。まるで晩年のマルクスが、自身の名と結び付けられているあらゆる見解(歴史的進歩の説明、革命の理論、上部構造-下部構造のモデルなど)へのコミットメントを放棄した、とでも言うように。そのため、従来的なマルクス主義者が本書を読んでパニックに陥ったのは全く驚くべきことではない。
だが、マルクスの晩年の思想にカルト的な執着を持っていない私たちにとって、斎藤の著書は何を提示してくれるのだろう? もっと具体的に言うと、なぜ本書はこれほど多くの人にウケているのだろう? 私は明らかにこれをきちんと判断できる立場にないが、1つ気づいたのは、多くの書評が、斎藤のスタンスのラディカルさと彼の気取らない性格とを対比し、彼の行う提案の、ほとんど無邪気とすら言える愛嬌に触れていることだ。斎藤の訴求力を知る手がかりの一端はこのあたりにあるのかもしれない。
脱成長の文献に触れている人なら、こうした議論においてちょっとしたペテンが行われがちなことを知っているだろう。脱成長の支持者の中でも、「我慢しろ、みんなで中世の農民のように暮らすしかないんだ」などと言おうとする者はほとんどいない。そのため、言葉遊びに走ることになる。最も分かりやすい例は、ティム・ジャクソンの著書『成長なき繁栄』だ。ジャクソンによれば、経済成長と環境被害のデカップリング(切り離し)は不可能であるため、経済成長を終わらせる必要がある。だが、それでいいのだ、とジャクソンは言う。私たちは経済成長のかわりに「繁栄」を実現できる。これは経済成長とよく似たものに思えるが、違うのは、価格システムに媒介されていない活動を含んでおり、そのため(どういうわけかはよく分からないが)環境に被害をもたらさないだろうという点だ。
斎藤は似たようなペテンを行っている。脱成長しか道はないと読者を脅しながら、急に方向転換して、「ラディカルな潤沢さ」を約束するのだ。では、ラディカルな潤沢さというのは正確にはなんなのか? それは要するに、全員に無料でたくさんのものが与えられるということだ。斎藤が挙げている例は、コペンハーゲン市が「誰もが無料で食べてよい」果樹を市全域に植えることを決めたというエピソードだ(英185: 日294-295) [1]訳注:以下、ページ数は、(英語版: … Continue reading 。こうして彼は、ユートピア的思弁の領域へと誘われていく。もしも1つの都市全体を「都市果樹園(edible city)」に転換させられるとしたら、どうなるだろうか? 「街中での野菜・果実栽培は、飢えた人に食料を供給するだけでなく、住民の農業や自然環境への関心を高める」(186: 295)。都市の食料供給全体が、ローカルに生産され消費されるとしたら、どうなるだろうか?
これは、ある種の愛すべき素朴さの現れと見なすこともできるだろう。通勤途中に果樹園をぶらぶら歩き、近くの木から熟した果実をもいでそれを朝食にする——そんな世界を望まない人などいるだろうか? それでも、斎藤はこうした問い〔都市果樹園が実現したらどうなるか〕をあたかも、完全に思弁的な問いであるかのように、まるで答えが存在しないかのように扱う。残念ながら、答えは存在するし、少し立ち止まって考えれば誰にでも分かる。(斎藤の暮らす東京のような)大都市の人口を支えるのに必要な農地の量を計算するのは難しくない。日本の農家は、全て合わせても、日本の人口の38%を養えるだけの食糧しか生産していない。こんなのはあまりにも明らかなことなので、指摘することすらバカげているように思える。
ある意味でもっと印象的だったのは、斎藤の提案を読んで、デジャブの感覚を強く感じたことだ。以下の文章は、50年前に出版された『緑の国エコトピア』からの引用である(詳しくない人のために言っておくと、『緑の国エコトピア』はユートピア小説で、あるジャーナリストが、アメリカ太平洋北西部に生まれた分離国家での暮らしを取材して書いた旅行記という形式をとっている。要するに、エドワード・ベラミーの『顧みれば』 [2]訳注:19世紀に書かれた社会主義ユートピア小説。社会主義運動に大きな影響を与えた。 のヒッピー版だ)。
新しいサンフランシスコののどかな雰囲気がよく見て取れるのは恐らく、マーケット・ストリートやその他の通りに、小川が流れているという事実だ。かつてこれらの川は、都市ではよくあるように、莫大な費用で、巨大な地下の暗渠に封じ込められていた。エコトピア人は、さらに巨額の費用をかけ、小川を地上に戻したのである。そのため、この大通りでは今や、小さな滝がかわいらしく連なり、水はざぶざぶとしぶきをあげ、岩や木、竹やシダが川の両端に並んでいる。さらには、川の中に小魚の姿さえ見える……。(13)
これは、田園趣味の入ったエコロジー幻想だと言いたくなる。だが、コミュニズムの部分はどうだろう? 資本主義を廃絶すると請け合うなら、資本主義に対するどんなオルタナティブを提示しているのかと聞きたくなるのは自然だ。大きな問題は、市場なしにどうやって生産と交換を組織化しようとしているのかである。多くの場合、ラディカルな見かけをはがしてみれば、実際には「市場によって」というのが答えになる。例えば、企業に対するオルタナティブとして労働者協同組合に期待を寄せる人々は、少なくとも1つの重要な意味で、実際には資本主義の廃絶を考えていない。こうした協同組合は依然として、互いに財を売り買いすると考えているからだ。さらに、協同組合は利潤追求組織なので [3] … Continue reading 、実際には資本主義と何も変わらず、それをブランディングし直しているだけだ。
斎藤の名誉のために言うと、彼の提案は、ある種の市場社会主義を支持するというぬるいものではない。斎藤は実際に資本主義の廃絶を望んでいる。つまり、私的所有と市場交換の廃絶を望んでいるのだ。これは自然、現代経済は非常に複雑な互恵性のシステムであり、そうした仕組みなしに組織化するのは困難である、という異論を招く。だがこれは斎藤にとって問題にはならない。斎藤は、分業の廃絶も望んでいるからだ(194: 307)。これは確かに、社会主義経済計算論争を解決する1つの方法だ! 残念ながら、それはラディカルな潤沢さというよりラディカルな貧困をもたらすように思われる。それでも、斎藤はまるで、私たちの生活はほとんど何も変わらないかのように述べている。人々は依然として、現代の医療、クリーン・エネルギー技術、自転車、コンピューター、などなどにアクセスできる、と。だが、こうした財はいったいどこから来るのか? こうした財を生み出すには、生産における一定の専門特化や、なんらかの交換システムが必要にならないだろうか? これら全てをどう組織化するのだろう?
繰り返すが、こんな論点は指摘することすらバカげているように思われる。それでも斎藤は、この問題について文字通り何も語っていない。もっと正確に言うと、斎藤はこうした問題を解決することが必要だと考えていない。彼がこれを問題と見なしていないのは、ひどく極端なゼロサム思考に陥っているからだ。彼の見解では、資本主義システムは実際にはなんら富を生み出していない。かつては共同で所有されていたものを囲い込んで、私的財産に変換し、希少性を生み出しているというのが資本主義の実態なのだ(161: 243)。斎藤の見解では、経済計算の問題が生じるのは、資本主義が人工的な希少性を生み出しているからに過ぎない。私的所有を廃絶すれば、コモンズの自然な潤沢さを全員が享受できるようになる。
斎藤の環境主義も、基本的に同じ世界観に基づいている。彼の考えでは、過去2世紀の経済成長は幻想であった。何かが良くなっているなら、別の何かが悪くなっているはずである。そのため、誰かが利潤を稼いでいるなら、他の誰かが搾取されているはずだ。ある国が豊かになっているなら、他の国が貧しくなっているはずだ(11: 46)。私的な富が増えているなら、公的な富が減っているはずだ(152: 248)。経済が成長しているなら、自然が破壊されてるはずだ。差し引きで見れば常にゼロとなる。人々がこの事実に気づいていないのは、天秤の片側しか見ていないからだ。
要するに、斎藤の世界観では、人類の状況を改善することは現実には不可能なのだ。過去2世紀の進歩に関する物語は全て誤っている。だがその裏面として、人類の状況を悪化させることもできないのだ。そのため、資本主義を廃絶すれば、何か別のものがその座を埋めるものとして現れるだろうと安心できる。私的所有を廃絶すれば、コモンズが繁栄するだろう。これは結局のところ、人類は共有資源の管理において集合行為問題に陥ったことがない(もし陥ったとしたら、それはほぼ確実に資本主義のせいだ)と言うようなものである。
批判者の側からすると、どこから批判を始めればいいのかすら分からない。1つ言えるのは、これは政治哲学というより形而上学的世界観であり、あまりに現実からかけ離れていて、あるレベルでは反証不可能であるということだ。残念ながらこれは、抽象的に示されれば、深遠な知恵と誤解されてしまう類の世界観である。ある種の宗教的感受性を持つ人にとっては特にそうだ。これは、斎藤の著書が、アメリカの出版界で不思議なほど手放しで受け入れられている理由を一定程度、説明するだろう。実際、私が読んだ書評の多くは、完全に業界の空気に乗っかっているだけのものに思われる。例えば次の、E・タミー・キムによるニューヨーカー誌での書評を見てみよう。
私なりに解釈すれば、理論家である斎藤の提案を実践に移すと、次のようになるだろう。隙間風の入る大きな家ではなく、小さなアパートに住む。バスに乗り、車は買わず、飛行機も滅多に乗らない。オンラインで適当に買い物をしない(斎藤の言う「根本的に無駄なもの」を買わない)。労働時間を減らす。このプロセスで、近所の人たちと知り合い、運動にも励むようになる。こうした活動をブロック単位、都市単位で広げていき、最終的には一産業、一国のレベルに至る。富裕層には課税をする。全ての人にベーシック・インカムを与える。資本は、武器製造ではなく、在宅ケアや介護施設に振り向けられる。補助金と水は、大規模な農業企業ではなく、地域の農場に与えられる。街の密度を高めて歩きやすい空間にし、公共交通機関で暮らせるようにする。GDPや世界貿易機関(WTO)を破壊する(WTOは、自由貿易に反するとして気候変動対策を抑え込んできたためだ)。
これは端的に言って、この本が言っていることではない(最後の、きちんと読めば狂っているとしか言えない文章ですらそうだ)。この書評が全体的に肯定的なトーンなのは、斎藤が自身の主張を本気で述べているとはキムには信じられなかったからだと思われる(なにしろ、斎藤はとても感じの良い若い男性に見えるのだから)。そのためキムは単純に、斎藤が言っていることではなく、理性的な人間なら言うであろうことを書いたのだ。
一方で私は哲学を生業としており、哲学者という部族の習い性として、どれだけ狂っていようと、その見解の含意する論理的帰結を辿ることに慣れている。そのため私は、斎藤の著書を読んで、彼が実際に書いていることに基づいて彼の見解を評価した。彼が著書で言っているのはこういうことだ。私たちは、持続可能でカーボン・ニュートラルな市場経済を作り出す試みを放棄して、(漠然と素描されているだけの)エコロジカル・ユートピアを支持すべきである。そのユートピアでは、人々は魔法にかけられたかのように互いに協力しあい、現代経済の良い部分の全てを保持しながら、悪い部分の全てを捨て去ることができる。
まぁいい、好きにしてくれ。だが、私を悩ませているのは次の点だ。斎藤の提案していることは、もう既に全部聞いたことがあるのだ。私たちは、どう見ても上手くいかないアイデアについて、何度も何度も同じ議論を繰り返さなければならないのだろうか? ひょっとすると私の弱さを曝け出しているだけかもしれないが、この新たな繰り返しを前にして、私は永劫回帰を受け入れるための運命愛(amor fati)をどうにも呼び起こせずにいる。
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このポストは、『資本主義にとって倫理とは何か』の刊行を記念して、経済学101における私の読者全員に捧げるものである。
[Joseph Heath, Kōhei Saitō’s tsunami of confusion, In Due Course, 2025/9/28.]References
↑1 | 訳注:以下、ページ数は、(英語版: 日本語版)という形で表記する。ただし訳者は英語版を持っていないため、内容とページ数から対応する日本語版のページ数を推測している(正確に対応しているかは確認していない)ということを断っておく。日本語版のページ数はあくまで目安と考えてほしい。 |
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↑2 | 訳注:19世紀に書かれた社会主義ユートピア小説。社会主義運動に大きな影響を与えた。 |
↑3 | 訳注:協同組合でも株式会社と同様、所有者グループに対して純利益が分配される。協同組合が株式会社と異なるのは、残余コントロール権と残余請求権がどの所有者グループに帰属されるかの違いでしかない。Joseph Heath “Why Profit Is Not the Problem” in Cooperation and Social Justice、ヘンリー・ハンズマン『企業所有論』を参照。 |