タイラー・コーエン 「追い詰められたら人質に ~中世の戦闘に埋め込まれた安全装置~」(2021年10月4日)

中世のイングランドの戦闘では、相手の貴族の命を奪うのが目的ではなく、相手の貴族を捕まえる――そして、身代金を要求する――のが目的だったらしい。
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「ノルマン・コンクエスト」によってノルマン朝が成立して以降のイングランドでは、政治的な緊張が高まりを見せた。とは言え、そこまで血なまぐさくはなかった。1106年から1264年までの間にアングロ=ノルマン人貴族とイングランド人貴族が剣を交えてぶつかり合った争いにおいてもそうだし、その他諸々の領地争いにおいてもそうだが、戦闘で命を落とした貴族の数が非常に少なかったのである。オーデリック・ヴィタリス(Orderic Vitalis)も強調しているように、甲冑(かっちゅう)のおかげで命を救われたというのはその通りだが、敵に取り囲まれて兜なり鎧なりを脱がされる可能性だってあったのだ。それにもかかわらず、戦闘で命を落とした貴族の数が非常に少なかったのはなぜかというと、追い詰められたら降伏して人質として連れ去られたからである。この時期の貴族同士の戦闘には、「追い詰められたら人質になる」という制度が安全装置として埋め込まれていたのだ。相手の貴族の命を奪うのが戦闘の目的だったのではなく、相手の貴族を捕まえる――そして、身代金を要求する――のが目的だったのだ。血なまぐさくなかったのは、戦闘だけに限られない。政治そのものが流血と無縁に近かったのだ。中世に対して抱かれている通常のイメージを裏切る驚くべき事実がある。1076年にヴァルトホフ伯爵(ノーサンブリア伯)が処刑されてから、1312年にギャヴィストン伯爵(コーンウォール伯)が私刑によって殺害されるまでの間に、イングランドの地で政治的な理由で処刑された(あるいは、殺害された)伯爵(earl)ないし男爵(baron)はどのくらいの数に上(のぼ)るかというと、一人もいないのだ。

デビッド・カーペンター(David Carpenter)の『The Struggle for Mastery:The Penguin History of Britain, 1066-1284』より引用。中身が物凄く濃くて素晴らしい出来の一冊だ。そう言えば、JEL誌(Journal of Economic Literature)にこの辺の話題を扱った論文が掲載されてなかったっけ?


〔原文:“Medieval Coasean warfare?”(Marginal Revolution, October 14, 2021)〕

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