マーク・ソーマ 「『ミクロの動機』と『マクロの帰結』 ~ホッブズは制度派か?~」(2009年3月29日)

トマス・ホッブズは、合理的選択理論を使って社会現象を説明しようと試みる現代の制度派の先駆者だった?
画像の出典:https://www.photo-ac.com/main/detail/2077417

ダニエル・リトル(Daniel Little)がホッブズに絡めて「社会的・集合的な結果のミクロ的基礎」について論じている。これまでにマクロ経済学の分野におけるモデル作りについて度々(たびたび)取り上げてきたが、いくらか関わりがある内容と言えよう――リトルのエントリーでは、モデルそれ自体の有用性よりも、モデルをどう組み立てるべきかに焦点が当てられている――。

———————————————【引用ここから】—————————————————-

Hobbes an institutionalist?” by Daniel Little:

近代の数ある政治哲学者のうちで、現代の社会科学のロジックや世界観と共鳴する面を最も多く持ち合わせているのはトマス・ホッブズ(Thomas Hobbes)である・・・と言われると驚くだろうか? ホッブズは、1651年に発表した『Leviathan』(邦訳『リヴァイアサン』)で、大勢の人々が寄り集まっている社会を理解するという問題に、現代の制度派や合理的選択論者を彷彿(ほうふつ)させるようなかたちで迫っている。社会を構成する「部分」(構成員)についての理論から出発して、数多くの「部分」(個人)によって形作られている「全体」についての結果(集合的な結果)を導き出すという積み上げ型のアプローチを採用しているのだ。ホッブズは、自分なりの「主体の理論」を提示している。一人ひとりの個人は、理性をいかに働かせているのか? 一人ひとりの個人にとって最も基礎的な動機は何なのか? ホッブズの想定によると、一人ひとりの個人は、合理的で、利己的である。それに加えて、戦略的でもあって、他人がどう行動しそうか予測を立てる。さらには、リスク回避的でもあり、他人の攻撃から我が身を守るために手を尽くす。そして、ホッブズは、制度の面で違いがある二通りの舞台――多くの主体が相互作用し合う舞台――を用意する。一方の「自然状態」と呼ばれる舞台では、国家権力(強制力を備えた政治制度)が不在であり、もう一方の舞台では、国家権力が存在し、単一の主権者が法によって一人ひとり(臣民)の行動を規制できるようになっている。

国家権力が不在の第一の状況(「自然状態」)においては、自己保存を求める主体間の競争が暴力による絶えざる闘争を招く。法が存在する第二の状況においては、自己保存を求める主体間の競争が財産(富)の蓄積と平和的な共存を招く。・・・というのがホッブズの論である。

『リヴァイアサン』の13章で、ホッブズなりの「主体の理論」のいくつかの面が明らかにされている。

人々の間での能力の平等から生じるのが、誰もが己の目的を達成できるやもしれぬという希望の平等である。それゆえに、誰か二人が同一の対象を欲するなんてことも起きかねない。万一そういうことになり、どちらか一方しかその対象を享受できないようであれば、彼らは敵同士となる。そして、己の目的――自己保存が主たる目的であろうが、単なる享楽が目的ということも時にはあろう――を達成するために、お互いに相手を滅ぼすか屈服させようと試みる。かくして、次のような次第になる。先占者一人の抵抗だけしか恐れるべきものがないようであれば、その地に侵入者がやってきて略奪される。その侵入者がその地に作物を植え、種をまき、家を建て、快適な椅子を据え付けると、その侵入者を追い出して彼から何もかも――彼の労働の成果(果実)だけでなく、彼の自由あるいは命までをも――を奪い取るために、何人かの人々が手を携えてやってくるかもしれない。侵入者もまた、前の先占者と同じような危険に遭遇する(侵入される)おそれがあるのである。

・・・(中略)・・・

それゆえ、我々は、人間の本性の中に諍(いさか)いの主要な三つの原因を見出す。第一は競争心、第二は不信(他人への不信)、第三は名誉欲である。競争心は、他人からの略奪を招く。不信は、身の安全を追い求めさせる。名誉欲は、評判を追い求めさせる。競争心は、他人の人格、他人の妻子、他人の家畜を奪い取るために、人に暴力を使わせる。不信は、我が身を守るために、人に暴力を使わせる。名誉欲は、ちょっとした言葉によってか、笑われるというかたちによってか、意見の食い違いによってかして、自分自身が過小評価されたと感じると、あるいは、自分自身を通して親戚や友人、祖国、職業、一族の名までもが過小評価されたと感じると、どんなに些細なことであっても、人に暴力を使わせる。

・・・(中略)・・・

人々を平和に向かわせる情念は、いくつかある。死への恐れがそれであり、快適に暮らすために必要な一切を手に入れたいという欲がそれであり、勤労によって快適な暮らしを手に入れんとする希望がそれである。そして、理性は、平和を確保するのに都合のいい条項を示唆する。万人の合意を得られるかもしれない条項を。自然法とも呼ばれているそのような条項の詳細については、続く二つの章で述べるであろう。

「自然状態」において一人ひとりが上記のような動機に突き動かされて振る舞う結果として、いかなる集合的な帰結が予測されるかというと、・・・「万人の万人に対する戦い(闘争)」が帰結するという。

それゆえ、誰もがお互いに敵同士であるような「戦争状態」においては、自らの強さと自らの創意工夫以外には何も頼れるものがない時と同一の帰結が生じる。戦争状態においては、勤労の余地はない。勤労の果実(労働の成果)がもしかすると誰かに奪われてしまうかもしれないからである。その結果として、土地も耕作されず、航海も行われず、海外から輸入される財貨が使われることもなく、快適な建物も建てられず、動かすのに大きな力を要する物体をあちこちに移動させるための道具も作られず、 土地についての知識も蓄えらず、時間が測られることもなく、文芸も文字も社会も発達しない。そして何よりも悪いことに、絶えざる恐怖に加えて、暴力によって命を奪われる危険性を肌身に感じて生きねばならない。 孤独で、貧しく、辛くて、残忍で、短い一生を生きねばならないのだ。

制度派の議論の進め方そのものだ。ある一定の制度の枠内である一定の特徴を備えた一人ひとりの主体がどう振る舞いそうかをモデル化する。そして、そのようにして特定化された「ミクロ的基礎」がいかなる集合的な結果を招くかを描き出す。言い換えると、 ホッブズは、「主体の理論」と(異なる主体がその枠内で相互作用し合う)環境(制度)に関する一定の想定を組み合わせて、「ミクロからマクロへ」型の分析を提示しているのだ。

ジェームズ・コールマン(James Coleman)――合理的選択理論を使って社会現象を説明しよう試みる現代の社会学者の代表格の一人――が『Foundations of Social Theory』(邦訳『社会理論の基礎』)で提示している「社会現象の説明様式」のロジックと比べてみるといい。

社会システムの振る舞いに関する第二の型の説明では、そのシステムの内側で生起するプロセスが(システムの)構成要素――あるいは、システムそれ自体よりも下位のレベルの単位――の挙動に目配りしながら調査される。構成要素の典型的な例は、社会システムの構成員である個人である。構成要素が(システムの内部にある)制度あるいは(システムの一部である)下位集団の場合もある。第二の型の説明では、システムそれ自体に分析が加えられるのではなく、システムそれ自体よりも下位のレベルに降りていって分析が加えられるのが常である。システムの構成要素の挙動を踏まえてシステムの振る舞いが説明されるのである。この型の説明は、定量的でしかあり得ないわけでもなく、定性的でしかあり得ないわけでもなく、いずれでもあり得る。

ホッブズによる「説明の型」は、現代の制度派の合理的選択論者のそれとそっくりなのがおわかりになるだろう。個人の動機や個人の行動というミクロレベルについての一定の仮定から社会というマクロレベルでどんなことが起こるかを導き出す。そのことを本のタイトルでわずか三つの英単語で言い表しているのがトーマス・シェリング(Thomas Schelling)の『Micromotives and Macrobehavior』(邦訳『ミクロ動機とマクロ行動』)である。

「自然状態」でどんなことが可能か(どんなことが起きそうか)についてのホッブズの結論に異を唱えるのは、ホッブズの分析に対する痛烈な批判とは言えない。ホッブズが言うところの「自然状態」においても、あちこちに散らばっている男女が国家権力とは別の制度を樹立するのは可能だと主張する現代の政治学者はたくさんいる。「自然状態」においても、異なる主体間で調和(コーディネーション)や協調(コーペレーション)を実現するのは可能というのはその通りである。アナーキー(無政府状態)でも調和は実現できるのだ。とは言え、この種の反論は、ホッブズの分析に対する友好的な修正だと言える。ある種の協調の実現可能性について新たな想定を付け加えているだけなのだ。「アナーキー下での協調」の可能性を持ち出してホッブズに反論するのは、強制力を持つ中央の権威の後ろ盾のない(それなりに丈夫な)社会制度の実現可能性を指し示すことにより、ホッブズの分析を内容的に豊かにするのに貢献しているのだ。ただ乗りや略奪を防ぐための自律的な(self-enforcing)協調が保てるかどうかは、環境やメカニズムについてどういう想定を置くかによって左右される。ホッブズは「アナーキー下での協調」の可能性をおそらく受け入れないだろうが、どちらが正しいかは実証的な問題である。

「自然状態」に関するホッブズの結論への反論の中には、以上のような観点に照らして極めて価値があるのがいくつかある。 まず第一に挙げるべきは、マイケル・テイラー(Michael Taylor)が『Community, Anarchy and Liberty』で展開している論であり、私には非常に説得的に思える論だ。テイラーによると、農村共同体では、協調的な制度を形成・維持するための術が見出され、法による強制がなくても協調的な関係が古くから保たれてきたという。独立した主体間の調和(コーディネーション)や協調(コーぺレーション)を実現できる術というのは、法制度によって支えられた「契約」だけに限られるわけではないのだ。ロバート・ネッティング(Robert Netting)の『Smallholders, Householders:Farm Families and the Ecology of Intensive, Sustainable Agriculture』でも、農村における労働の分担、季節ごとの協力といった関連する例が取り上げられている。さらには、エリノア・オストロム(Elinor Ostrom)とその共同研究者たちも「共有資源(コモンズ)」の管理に関する歴史的・社会学的な研究で同様の議論を展開している。中央の政府が定める法によってではなく、現地の人たちの自発的な取り組みによって協調が安定的に保たれているというのだ(『Governing the Commons:The Evolution of Institutions for Collective Action』)。オストロムは、伝統的な共同体が魚/森林/水資源といった共有資源を中央の政府に頼らずに自分たちで自発的に調和や協調を保って管理するのに成功した歴史上の重要な実例を数多く挙げている。

これらの研究は、ホッブズが17世紀半ばに練り上げた首尾一貫した「社会現象の理論」――集合的な社会現象(マクロの結果)を個人というミクロレベルの主体の行為が寄り集まった結果として(あるいは、異なる主体が相互作用し合うメカニズムの結果として)説明しようとする理論――を実証的にも理論的にも精緻化する試みと言えるのだ。


〔原文:“Micromotives and Macrobehavior”(Economist’s View, March 29, 2009)〕

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