時は2012年2月、ヘッジファンドのトレーダーらがどう見ても割安の値(ね)が付いているように思えるCDS指数――CDX IG 9――を見つけ出した。その指数に組み込まれている125社のCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)をそれぞれ個別に(125社分)買い集めるよりも、指数自体を買う方が安くつきそうだったのだ。瞬く間に金儲けできる機会がすぐそこに転がっていたのだ。その指数を買って、その指数に組み込まれている個別銘柄をどれか空売りする。すると、あれよあれよという間に、指数の値(ね)が上がるか、個別銘柄の値が下がるかする。決済を済ませたら、大きな儲けが手に入るというわけだ。
2月が終わり、3月が終わり、4月がやってきた。しかしながら、その指数の実際の値とトレーダーらが適正と見なした値との差は、広がり続けた。トレーダーらの上司は、口々に問い質(ただ)した。「とっくに値が上がっていてもいいはずなんじゃないかね? 何か見逃してるんじゃなかろうね? 我が社のリスク負担能力にいつまで縋(すが)る気かね? そろそろ潮時じゃないかね? 損は出るだろうがね」。
焦ったヘッジファンドのトレーダーらは、(指数の売りポジションをとっている)取引の相手方が誰なのかを探し始めた。どうやらその相手方はたった一人で全員の相手をしているらしかった。やがてその相手方は「ロンドンの鯨」と呼ばれるようになった。トレーダーらは指数を買い続けた。その一方で、「ロンドンの鯨」はその指数を売り続けた(空売りし続けた)。トレーダーらは、ポジションを閉じる(これまでに買った分をすべて売り払う)機会を見出せず、評価損は膨らみ続けた。彼らが会社に背負わせているリスクも膨らみ続けた。
イライラが頂点に達した。
トレーダーらは、何が起こっているかを表沙汰にした。「ロンドンの鯨」の上司が「ロンドンの鯨」に「ポジションを閉じろ!」と命じるのを期待して。「ロンドンの鯨」がポジションを閉じたら、トレーダーらは儲けることができる。 指数の値が適正値(ファンダメンタルズ)に向けて調整されるだけでなく、「ロンドンの鯨」が取引相手をどうにかして見つけようとする中で生じた価格の歪みが是正されるからだ。かくして、「『ロンドンの鯨』が債券市場で暴れ回る」とかいうニュースが紙面をにぎわせたのだった。
「ロンドンの鯨」の正体は、JPモルガン・チェースに勤めていたブルーノ・イクシル(Bruno Iksil)だった。損を出し、一か八かの勝負に出て、また損をするというのをイクシルは何カ月にもわたって繰り返していた。彼の上司であるイナ・ドリュー(Ina Drew)は、イクシルがどんな投資ポジションをとっているかを確かめて、どちらかを選ばないといけないことに気付いた。このまま突っ走って一か八かの賭けに出るか、速やかにポジションを閉じて決済するかのどちらかを。このまま突っ走って満期いっぱいまで我慢した場合、その指数に組み込まれている125社のうちで破産する会社の数が予想を下回るようなら、(イクシルの勤め先である)JPモルガン・チェースに儲けが入る。その一方で、破産する会社の数が予想を上回るようなら、JPモルガン・チェースが破産寸前まで追いやられる。 速やかにポジションを閉じた場合は、60億ドルの損失が出るが、それですべて片が付く。60億ドルの損失を引き受けるか、それとも「幸運の女神さん、今夜はレディーらしくお淑(しと)やかにしといておくれよ!」(「Luck, Be a Lady Tonight!」 [1] 訳注;フランク・シナトラの曲のタイトル。 )って口ずさみながらJPモルガン・チェースの未来を天に委ねるかの二者択一。 賭けに出た挙句に損を被(こうむ)らなきゃいけなくなったとしたら、どうしたらいい? JPモルガン・チェースは、お金を刷れないのだ。・・・というわけで、ドリューはイクシルにポジションを閉じさせ、ヘッジファンドのトレーダーらは幸せな結末を迎えましたとさ。
時は2008年後半、国債市場で波乱が起きた。10年物国債の利回り(名目金利)が 2.1%にまで下がったのだ。国債の価格と利回りは逆方向に動くので、価格で言うと割高なのは明らかだった。1990年代後半に政府債務残高(国債残高)の対GDP比が下がった時でも、10年物国債の利回りは 5%~7%の高さだった。2000年代に入って景気の不調が続く中、10年物国債の利回りは 4%~5%あたりまで下がった。1990年頃と比べると、連邦政府が発行する国債の残高はかなりの勢いで増えているのだから、10年物国債の利回りの長期的な適正値(ファンダメンタルズ)は 7%かもうちょい高いに違いない。いくらなんでも 5%を下回ることはなかろう。 ヘッジファンドのトレーダーらは、そう睨(にら)んだ。そこで、賢明なるトレーダーらは、国債の空売りに乗り出して、利回りが適正値(ファンダメンタルズ)に戻るのを待つことにした。
そんな彼らの前に立ちはだかったのが「ウィドウ・メーカー」(未亡人製造機/夫殺し)だった。
自信をもって国債の空売りに乗り出したトレーダーらは、そこらへんをあたふたと歩き回りながら、疑問を口にした。「(利回りが)4%までしか上がらないのはなぜなんだ? 4%がピークで、そこから下がってるのはなぜなんだ? 利回りが適正値である 5%~7%にまで戻らないのはなぜなんだ?」 トレーダーらは、周りを見渡した。すると、視線の先にベン・バーナンキ(Ben Bernanke)がいた。
「ワシントンの大鯨」がいたのだ。
「ワシントンの大鯨」ことバーナンキは、自分の意志で思いのままに増やせる準備預金を元手にして国債を買い漁った。そのせいで、国債の利回りが適正値(ファンダメンタルズ)よりも大幅に低い水準に抑え込まれているというのがトレーダーらの考えだった。ところが、バーナンキは、国債を買うペースを緩めるわけでもなく、報いを受けるわけでもなく、市場に「均衡」価格を見つける仕事を任せるわけでもなく、国債を買いまくった。ひたすら買いまくった。 その一方で、トレーダーらは、空売りし続けた。いつまでも空売りを続け、損失が嵩(かさ)んだ。国債を空売りして入ってきた額×(-2%)の損失が毎年生じたのだった。
ブルーノ・イクシルは、上司であるイナ・ドリューによって制止された。ドリューとしては、一か八かの賭けに出て、JPモルガン・チェースを破産に追い込むリスクを負いたくなかったのだ・・・というのがトレーダーらの言い分だった。同じように、ベン・バーナンキも制止されるべきだ。「金融システムの安定性をどうにかして確保しないと」というその意気込みによって、「インフレ目標を達成するぞ」という自ら掲げた約束によって、制止されるべきなのだ。JPモルガン・チェースにとっての最悪の事態は破産であり清算だったが、「ワシントンの大鯨」にとっての最悪の事態はというと、1970年代のようにインフレが加速することだ・・・というのがトレーダーらの言い分だった。しかしながら、バーナンキは、「インフレの恐れ」によっても制止されなかった。彼には上司がいなかった。彼は、FOMC(連邦公開市場委員会)の首領(ドン)だったのだ。
「リスクヘッジもしないでそんな大博打に出たわけね。これで儲けられると思ったわけね。・・・よし。うまくいくかどうか試してみようじゃないの。一か八かよ!」。バーナンキがやってることは、ドリューがイクシルにそう語るのと変わらないというのがトレーダーらの考えだった。つまり、やってることが素人じみて見えたのだ。
そこで、トレーダーらは、「ワシントンの大鯨」がやっていることを表沙汰にした。「ロンドンの鯨」がやってることを表沙汰にしたように。(JPモルガン・チェースのCEOである)ジェームズ・ダイモン(Jamie Dimon)に匹敵するような偉い人がどこからか現れるのを期待して。その人が「FRBのバランスシートを縮小せよ!」とバーナンキに命じてくれるのを期待して。(FRB理事の)ジェレミー・スタイン(Jeremy Stein)がもしかしたらその役をやってくれるかもしれないと期待して。
トレーダーらは、「ロンドンの鯨」と「ワシントンの大鯨」を同列に並べて論じたいようだが、それは間違いもいいところというのが私の考えだ。トレーダーらは、部分均衡の枠組みで考えてしまっている。一般均衡の枠組みで考えるべきなのに。件(くだん)のCDS指数(CDX IG 9)であれば、125社それぞれの倒産確率だったりを踏まえて適正値(ファンダメンタルズ)がかっちり決まってくる。 イクシルが何をやろうとも、適正値(ファンダメンタルズ)は変わらない。イクシルが賭けに出て市場価格を吊り上げることはできても、適正値(ファンダメンタルズ)自体を変えることはできないのだ。
「ワシントンの大鯨」は、イクシルとは違う。
景気が順調そのものであれば、10年物国債の利回りの適正値(ファンダメンタルズ)はかっちり決まってくる。景気が順調そのもので「雇用の最大化」が達成されており、FRBが「物価の安定」だけに専念できるようなら、(政策金利である)FF金利(フェデラル・ファンド金利)の水準(現在および将来の水準)はインフレ目標を達成するために必要な高さに定まってくる。10年物国債の利回りの適正値(ファンダメンタルズ)は、満期がやって来るまでの間のFF金利の予想水準の平均値にリスクプレミアムを上乗せすれば求められるのだ。
じゃあ、景気が落ち込んでいたらどうなんだろう? ゼロ金利ゆえに貨幣需要が無限大になっていたらどうなんだろう? 「雇用の最大化」が達成されていなくて、それゆえに賃金インフレが起きそうにないならどうなんだろう? FRBは、JPモルガン・チェースみたいに、借り入れによる投資を相当行っている(レバレッジを相当効かしている)わけでもないし、金利変動リスク(金利の変動によって手持ちの資産の価値が変動するリスク)を抱え過ぎてるんじゃないかってビクビクしなくちゃいけないわけでもない。グレン・ルードブッシュ(Glenn Rudebusch) 曰く、
FRBのビジネスモデルは、シンプルそのものだ。(1) コストが一切かからない準備預金を刷る(供給する)――コストが一切かからないというのは正確じゃない。0.25%の年利(準備預金金利)を支払わないといけない――/(2) 準備預金を元手にして金利(利息)が支払われる債券を購入し、満期が来るまで持ち続ける/(3) 利潤(儲け)発生!!
FRBが量的緩和を続けたら、FRBのバランスシートが膨らむ。FRBのバランスシートが膨らめば膨らむほど、FRBが刷る(供給する)お金の量も増える。だからといって、何のリスクも伴わない。景気の落ち込みが続いている限りは。
FRBがJPモルガン・チェースとどこがどう違うかおわかりだろう。FRBは、お金を刷れるのだ。
「ちょっと待てくれ!」とヘッジファンドのトレーダーらから横槍が入るかもしれない。曰く、「景気が回復して、ブームがやってきたらどうなるんだ? インフレが急騰したらどうなるんだ? インフレを抑えるためにFRBが金融政策を引き締めたら、それに伴って金利が上昇したら、FRBがバランスシート上で保有している資産の評価損が5000億ドルに達する可能性だってあるらしいじゃないか。どうしてそのことを恐れないんだ?」。
FRBは、恐れていない。むしろ、望むところだろう。だって、FRBは、「雇用の最大化、物価の安定、そこそこの水準の長期金利という目標の達成に向けて効果を上げる」のを法律で義務付けられているのだから。「雇用の最大化」(完全雇用が達成される)というのは、恐れるべきものじゃない。歓迎すべきものだ。5000億ドルの評価損? FRBは、過去10年の間に財務省に合計で5000億ドルをプレゼントしている。FRBは、営利を目的とする民間の銀行じゃない。FRBは、「雇用の最大化、物価の安定、そこそこの水準の長期金利という目標の達成に向けて効果を上げる」のを義務付けられている中央銀行なのだ。
「ちょっと待ってくれ!」とヘッジファンドのトレーダーらから横槍が入るかもしれない。曰く、「ジョージ・ソロス(George Soros)がいる! イングランド銀行は、1992年にポンドの為替レートを適正値(ファンダメンタルズ)よりも割高な水準に保った。それを見たソロスは、ポンドを売り浴びせた。 イングランド銀行は、ポンドを買い支えられなかった。ソロスが勝ったんだ。ソロスは、イングランド銀行から20億ドルもの儲けを分捕ったんだ! あんなことはもう二度ないってどうして言えるんだ?」。 あ~、そんなこともあったねえ。それはそうと、ソロスがイングランド銀行から20億ドルを分捕れたのはどうしてか? 首相とかの上司がイングランド銀行(の総裁)にそこらへんでやめておけって命じたからなのだ。こんな感じで。「深刻な不況や大量失業という犠牲を払ってまで、ERM(欧州為替相場メカニズム)で定められたレートを守ろうとせんでいい」。大量失業を招きかねない犠牲を払うのも厭(いと)わずに、FRBに政策転換を命じれる「上司」って誰なんだろう? ヘッジファンドのトレーダーらの脳裏には、誰の顔が思い浮かんでるんだろう? ランド・ポール(Rand Paul)とか?
基軸通貨を発行している国の国債を景気が落ち込んでいる最中に空売りするのは、「ウィドウ・メーカー」に立ち向かうようなものと言われるのには、それなりの理由があるのだ。
〔原文:“Moby Ben, or, The Washington Super-Whale: Hedge Fundies, the Federal Reserve, and Bernanke-Hatred”(Grasping Reality on TypePad, May 11, 2013)〕
References
↑1 | 訳注;フランク・シナトラの曲のタイトル。 |
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