ラルス・クリステンセン 「金融政策は、どんな問題でも解決できる万能のハンマーなんかじゃない」(2011年12月22日)

●Lars Christensen, “Monetary policy can’t fix all problems”(The Market Monetarist, December 22, 2011)


「ハンマーを手にすると、何もかもが釘に見えるようになる」なんて言われる。このブログも含めてマーケット・マネタリスト陣営のブログを読んでいて、次のような印象を抱く人もいるかもしれない。「お前らマーケット・マネタリストたちこそが『ハンマー・ボーイズ』だ。何か問題が起こるたびに、NGDP(名目GDP)目標を採用しさえすればその問題も解決されるとわめき散らしているじゃないか」。しかしながら、そのような印象はあまりに見当違いだと言わざるを得ない。

金融政策は「市場の失敗」に伴って引き起こされる問題を「解決」すべきだというのがケインジアンの考えだが、マーケット・マネタリストはそのようには考えない。金融政策が原因で問題が引き起こされることがないようにすべきだと考えるのだ。中央銀行は、明確に規定された政策ルールに従うべきだと我々(マーケット・マネタリスト)が訴える理由もそこにある。景気後退にしても、インフレ/デフレの加速にしても、「市場の失敗」の結果としてではなく、「稚拙な金融政策」の結果として主に引き起こされると見なすがゆえに、金融政策はどんな問題でも解決できる万能のハンマーなんかじゃないと考えるのだ。

セルジン(George Selgin)がマーケット・マネタリストの信条を端的に述べてくれている。

金融政策の目標(ゴール)は、産出量の不自然な変動を回避することに置かれるべきであり、・・・(略)・・・産出量の「自然」な(“natural”)変動を抑制しようとすべきじゃない。そのためには、中央銀行に対して「名目支出(名目GDP)の安定化」という単一の責務を課すべきである。名目支出が安定していても、P(物価水準)や y(実質GDP)が変動することがあるかもしれないが、名目支出が安定している限りは、そのような変動を経済に生じたショックへの最適な反応として――積極的に歓迎はしないとしても――受け入れるべきなのだ。

金融政策には、名目変数――名目支出/名目GDP、名目賃金、物価水準、名目為替レート、インフレ率――を左右する力が備わっている。それでは、金融政策は実体経済には影響を及ぼせないかというと、そうじゃない。短期のフィリップス曲線は垂直じゃないからだ。金融政策を緩和して実質GDPを潜在GDPよりも高い水準にまで引き上げて、失業を一時的に減らすことは可能だ。しかしながら、長期のフィリップス曲線は垂直であることも弁(わきま)えている。さらには、ケインジアンとは違って、短期的に成り立つ「失業とインフレのトレードオフ」をあえて利用しようとはしない。NGDP目標はニューケインジアンのモデルでも非常に有益な役割を果たすだろうが、我々(マーケット・マネタリスト)は、ニューケインジアンとは違って、金融政策の分析に「社会厚生関数」を持ち込んできてその最大化を図ろうとはしない。ジョン・テイラー(John Taylor)らとは違って、失業率とインフレ率の「最適」な組み合わせ――短期のフィリップス曲線上のどの点を選ぶべきなのか――を探り出そうとはしないのだ。我々(マーケット・マネタリスト)は、ジョン・テイラーよりも、自由な市場が持つ力にずっと大きな信頼を置いているのだ(マーケット・マネタリズムに批判的な一部の保守派やリバタリアンにとっては意外かもしれないけれど)。

我々(マーケット・マネタリスト)が言わんとしていることは、「自分のケツは自分で拭け」(自分が犯したミスは自分で始末せよ)ということだ。中央銀行もその例外じゃないということだ。例えば、中央銀行が特定の名目変数に目標を設けて、その達成を約束したとしよう――あるいは、中央銀行が特定の名目変数に目標を設けていてその達成を目指しているのが(中央銀行がそのことを公然と口にしていなくても)周知の事実になっているとしよう――。その約束を果たすに越したことはないが、その約束を果たせなかったとしても可能な限り速やかに(約束の未達成という)過ちを正すべきなのだ。「大平穏期」(グレート・モデレーション)を振り返ると、Fedは年率5%の名目GDP成長率の達成を目指していたかのように見えるが(そして、そのことが周知の事実にもなっていたが)、2008年~2009年になって名目GDP成長率がそれまでのトレンドである5%を突然下回ったのだった。Fedがミスを犯したのだ。「市場の失敗」が起きたのではなく、「金融政策の失敗」が起きたのだ。Fedが犯したミスだ。Fedが自分でケツを拭かなくちゃいけないのだ。我々(マーケット・マネタリスト)がFedに対して名目GDPを危機以前のトレンドに戻すように要求しているのはなぜかというと、俗流ケインジアンのようにFedを救世主のように見なしているからではない。自分が犯した過去の過ちを自分で正せと迫っているに過ぎないのだ。景気を「刺激」することではなく、余計なノイズに惑わされずに安心して意思決定を行えるような名目的な(貨幣的・金融的な)環境を整えることこそが金融政策の役目なのだ。

中央銀行は、「中立的」で「目に見えない」存在になるべきなのだ。世の中央銀行は、投資家や家計がアロー=ドブリュー流の一般均衡の世界にいるかのように意思決定を下せるような環境(あるいは、少なくとも金融政策が人々の意思決定を惑わすノイズにならないような環境)を整えるべきなのだ。それは同時に、金融政策の役割のうちに、過ちを犯した投資家たちの救済は含まれていないことも意味している。金融政策は、誰かしらをベイルアウト(救済)するための仕組みではないし、そうあるべきでもないのだ。

さらには、中央銀行は、政府に対する「最後の貸し手」になるべきでもない。財政赤字が発生したら、政府はマーケットを通じて資金を調達すべきである。それが無理なようなら、財政政策を引き締めるべきである。あまりにも明白な話だ。しかしながら、中央銀行は、金融政策を使って政府に予算面での「改革」を強要してもいいかというと、そうじゃない。金融政策は、政治的な意思決定プロセスに対しても「中立」であるべきなのだ。中央銀行は、政府が抱える予算面の問題を「解決」しようとすべきじゃないが、それと同時に、名目GDPが目標値を大きく下回るのを放置して、政府に予算面で圧力をかけるべきでもないのだ。この区別ができていない中央銀行も中にはあるようだ。

金融政策は、バブルを潰(つぶ)すためにも用いられるべきじゃない。マーケット・マネタリストの一部――例えば、ベックワース(David Beckworth)とか私とか――は、行き過ぎた金融緩和によってバブルが醸成される可能性があることを認めているが、ここでもやはり「問題の解決」 [1] 訳注;金融政策を使って、既に発生しているバブルを潰そうとする、という意味。にではなく「問題の回避」 [2] 訳注;金融政策がバブルを引き起こす原因にならないようにする、という意味。に重心が置かれるべきである。中央銀行がNGDP目標を採用してその達成を志(こころざ)せば、バブルが発生するリスクは大きく抑えられるだろうし、万一バブルが発生したとしてもその解決のために金融政策を割り当てるべきではないのだ。

最後になるが、金融政策は、経済全体の生産性(productivity)を直接的に高めることはできない。「中立的」な金融政策のおかげで経済の安定性が高まって将来が見通しやすくなったら、そうでない場合に比べると、生産性の伸びはきっと高まるだろう。しかしながら、マクロ経済全体で測った富や厚生の水準を高めるために中央銀行にできることといったら、「中立的」な金融政策を追求するくらいしかないし、その限度を守るべきなのだ。

金融政策にしてもNGDP水準目標にしても、ありとあらゆる問題――既に起きている問題であれ、これから起きそうな問題であれ――を解決するために使える万能のハンマーなんかじゃない。それに、チャック・ノリスがいるのだ。そんなハンマーなんて不要だろう。

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私とは違った角度からではあるが、マーカス・ヌネス(Marcus Nunes)が関連する指摘を行っている

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1 訳注;金融政策を使って、既に発生しているバブルを潰そうとする、という意味。
2 訳注;金融政策がバブルを引き起こす原因にならないようにする、という意味。
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