アンドルー・ポター「リベラリズムを蝕むものはなにか?」(2023年4月6日)

リベラリズムを蝕むものはなにか。それは、神の不在ではなく、コミュニティーの欠如だ。

先日、とあるグラフがSNS上で物議を醸した。

キャスリーン・ボイル「どれでもいいので信じてみてください。あなたに何が足りていないのかがわかります。」

https://twitter.com/KTmBoyle/status/1640525828621516801

アンドリーセン・ホロウィッツ [1]アメリカのベンチャーキャピタル のパートナーであるボイルは、これら各種指標を、一連の報告書や研究へのリンクとを組み合わせ、現代に蔓延る衰退論――特に若者の間での顕著な不安や鬱、絶望感の高まりといったさまざまな問題との関連を示した。

ベビーブーマー世代がかつて言っていたように、風向きを知るのに、気象予報士はいらない [2]ボブ・ディランの歌詞より、世の中の動向を知るのに、専門家の知識は必要ないということ 。今の欧米諸国は抑うつ気味なのだ。

政治体制はありえないほどに分極化し、経済は次から次へと危機を迎え、福祉国家は膨れ上がるコストと国家の能力低下によって限界に直面している。この事態は、結束力ある社会の基本要素として何十年も機能してきた諸制度に対する人々の信頼の喪失に起因している。多くの国で愛国心、信仰心、コミュニティ意識のレベルが低下していると報告されていることからわかるとおり、私たちは社会資本の蓄えを使い尽くしてしまったのだ。人々は程度の差はあれど子供を持つことを諦めており、おまけに18歳から30歳の男性の3分の1近くが過去1年間に性交渉を行っていない。

これらの統計は国によって異なり、明らかに他の国よりも良い結果が出ているところもある。しかし、全体的にみれば、欧米の人々が悪い方向に向かっていることは疑いようがない。であれば、議論は「この事態の原因は何なのか」となる。ソーシャルメディアなのか?目下のパンデミックなのか?住宅価格、負債、不安定な雇用のせいなのか?

一つの可能性として、この問題の原因は現代社会そのものかもしれない。人権重視の政治的個人主義と消費者主導による経済資本主義の組み合わせは、私たちにあらゆる種類の快適さと技術革新を与えてくれるかもしれないが、私たちに「意味」を与えてはくれない。リベラリズムの中核には、ニヒリズムという闇が存在している。

これはなにも新説ではなく、リベラリズムには常につきまとう問題だった。しかしこの問題の所在については、多少の見解の相違がある。ドストエフスキーから実存主義者まで、この悩みを形而上学的なものだと考える人々がいた。神やそれに匹敵する絶対的な道徳の拠り所がないとき、唯一の選択肢はむきだしの道徳的相対主義となる。

他方で、美的観点からこの不満を語る批評家もいた。リベラリズムが推進する消費財や個人主義的な価値観は、ひどく浅薄でナルシシスティックなものと見なされ、低俗なテレビやチーズバーガーが、オペラといった高尚な芸術やテロワール [3]ワインの品質の違いを生む様々な環境的要因のこと に取って代わるとされるとされる。

しかし、形而上学的な不満と美学的な不満を折衷させた第三の主張がある。この考え方では、リベラリズムは急進的な多元主義を推進するあまり、実際には真の差異や多様性と敵対してしまい、特殊な共同体を繁栄させてしまう、というものだ。カナダの哲学者ジョージ・グラントのリベラリズムに対する主たる不満はこれである。彼の掲げた反米ナショナリズムは、カナダには固有の価値があるという認識に依拠しているものではない。カナダでの公共生活への集団的取り組みは、アメリカでは実現できないコミュニタリアニズムを育てるというものだった。

皮肉にも、グラントの主張はのちにフランシス・フクヤマの悪名高いエッセイ『歴史の終わり』で繰り返されることになった。フクヤマは、リベラルな消費資本主義の成功を表面上は讃えいたが、大きな物語や、共有された善の概念が失われることの影響を深く憂慮していた。

とどのつまり、リベラリズムの行く末に対する懸念があるとすれば、神の不在や、スノッブなライフスタイルが好まれなくなるという問題ではない。問題は、社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)の衰退なのだ。これは以前から論じられてきた重大な公共的問題と地続きである。2000年、社会学者のロバート・パットナムは『孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生』という著作で、20世紀後半のアメリカにおける社会関係資本の減少を追跡調査している。パットナムは、投票率の低下、ボランティア活動、政党、クラブへの加入率の低下など、アメリカ人が伝統的なコミュニティからいかに離脱するようになったかを調査し、この離脱傾向を、民主主義の衰退や社会の衰退といったより大きなトレンドと結びつけた。

この本はセンセーションを巻き起こし、アメリカでもカナダでも海外でも、社会関係資本、コミュニティの緊密な結びつき、そしてこれらが健全な民主政治にどのように寄与するのかについて、長期的で深い議論を呼び起こした。しかし、パットナムが指摘した傾向は危機的なレベルにまで高まるばかりであるのに、私たちは多かれ少なかれ、こうした言葉で議論することを諦めてしまっている。社会関係資本の基盤であるコミュニティについて、今や誰が議論しているだろうか?そんな昔気質な人はいないだろう。

この問題は実際には無関心でいられないほどに深刻になってきている。市民生活の多くの場面で、社会的ネットワークの構築や維持を積極的に妨げるようなライフスタイルや働き方が人々に奨励されているからだ。

現在の政治への無力感、特に分極化を、パンデミックとソーシャルメディアという2つの要因に見出すことは今や定石になっている。パンデミックによって政府は、公衆衛生の名の下に物議を醸すような強引な決断を迫られたが、ソーシャルメディアがそうした施策に対するパラノイアと陰謀論の温床を作り上げた。

この〔パラノイアや陰謀論の〕話が当てはまるのは比較的少数の筋金入りのパルチザンだけだが、パンデミックとテクノロジーの合わせ技は、渦中にいるサイレントマジョリティーにはるかに有害な影響を与えた。パンデミックによるロックダウンは、社会関係資本を軒並み破壊してしまった。教会は閉まり、バーやカフェは破産し、スポーツクラブも閉鎖され、結婚式は中止に、葬式にはほんの一握りの人の出席しか許されなかった。高校生世代の全員が、部活、ダンス、パーティー、クラブといった社会生活を構成するありとあらゆる要素を経験する機会を永遠に失ってしまったのだ。そして、私たちはその全てをテクノロジーで代替し、「在宅勤務」をまるで本物に取って代わる手段として奨励し続けている。

リベラリズムを蝕むものはなにか。それは、神の不在ではなく、コミュニティの欠如だ。私たちはフレンドシップやシティズンシップによる省察的な習慣を失い、市民活動という共同体を焼き払ってしまった。その中には、失われざるを得なかったものもあるだろう。しかし私たちは、手放してしまったものにきちんと向き合わなければならない。

私たちは3年かけてZoomの種を蒔き、今や収穫の時を迎えている。我々がすべきは、自らがしたことの落とし前をつけることなのだ。

アンドルー・ポターは『衰退について:停滞、ノスタルジー、なぜいつの時代も常に最悪の時代なのか(On Decline: Stagnation, Nostalgia, And Why Every Year is the Worst One Ever.)』の著者である。

Andrew Potter, “What’s eating liberal democracy?“, The Line, April 6, 2023

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1 アメリカのベンチャーキャピタル
2 ボブ・ディランの歌詞より、世の中の動向を知るのに、専門家の知識は必要ないということ
3 ワインの品質の違いを生む様々な環境的要因のこと
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