●Lars Christensen, “Remember when economists were writing books about sumo wrestlers and pirates?”(The Market Monetarist, July 30, 2012)
以下に掲げるのは、私の家にある本棚から引っ張り出してきた本だ。本のタイトルを眺めてみて、どういう感想を抱くだろうか?
- 『Freakonomics:A Rogue Economist Explores the Hidden Side of Everything』(邦訳『ヤバい経済学:悪ガキ教授が世の裏側を探検する』)
- 『The Invisible Hook:The Hidden Economics of Pirates』(邦訳『海賊の経済学:見えざるフックの秘密』)
- 『Why England Lose:And other curious football phenomena explained』(『イングランド代表チームが勝てない理由: サッカーをめぐる不思議な現象を解明する』;未邦訳)
- 『Selfish Reasons to Have More Kids』 (『もっと子宝を授かるべき利己的な理由』;未邦訳)
これらがどういうタイプの本かは、よく知られている。いずれも経済学者が著者であり(ジャーナリストと共著というものもある)、普通の感覚では経済学の対象とは見なされていない話題に経済学の道具立てを武器にして切り込んでいるという共通点がある。「経済学帝国主義者」を自任する身 [1]訳注;この点については、本サイトで訳出されている次の記事を参照されたい。 ●ラルス・クリステンセン … Continue readingとしては、こういうタイプの本は大好物(大好き)だ。こういう話題について経済学者に言えることはたくさんあるし、オーソドックスな研究に従事しているその他の経済学者たちもこういった本を読んでその考えを学ぶべきだと思う。プロのフットボールクラブは、経済学者をアドバイザーとして雇うべきだし、ワインのことについて何か気の利いた話を聞きたければ、(ワイン評論家として名高い)ロバート・パーカー(Robert Parker)に伺いを立てるよりも、(全米ワイン経済学会(AAWE)の会長である)オーリー・アッシェンフェルター(Orley Ashenfelter)に意見を求めたほうがいい(pdf)とも強く思う。
2006年から2007年にかけて空港にある書店を訪ねたら、上に掲げたようなタイプの本――ひとまず、「日常生活の経済学」(“economics of life”)本と呼んでおくとしよう――が経済書コーナーの棚を占拠していたことだろう。その一方で、時が流れて今はというと、空港の書店に置かれている経済学関係の本には、タイトルに「危機」という言葉が含まれている。ほぼ例外なく。具体的には、ルービニ、クルーグマン、スティグリッツらの本を思い浮かべてみればいい。「危機」をテーマにした最近流行りの本を総称するなら、「大不況」本(Great Recession books)と呼べるだろう。
「日常生活の経済学」本が人気を集める時があれば、「大不況」本が人気を集める時がある。その違いを生んでいるのは、金融政策の良し悪しにあるというのが私の考えだ。金融政策の舵取りがそれなりにうまくいっていて、そのおかげで名目的な安定(nominal stability)がかなりの程度保たれる [2] 訳注;名目的な安定が保たれる=名目GDPが安定した成長を続ける、という意味。ようなら、誰もマクロ経済学のことなんか気にしないだろう。名目的な安定が保たれているようなら、マクロ経済学の出番は無いのだ。というのも、名目的な安定が保たれているようなら、物価や名目GDP(ひいては実質GDP)の変動は、いずれも「ホワイトノイズ」(雑音)に過ぎないからだ。マクロ経済上の出来事がすべてホワイトノイズに還元できて、マクロ経済学の出番が無くなると、経済学者たちは何か別の話題を探し出してくる必要に迫られる。かくして、幼児、海賊、相撲の力士、フットボールをテーマにした本が経済学者によって書かれるようになるわけだ。「日常生活の経済学」本は、どれもこれも素晴らしい作品ではあるが、娯楽本という面を強く持っていることも否定できない。そのことを差し引いても、あれほど人気を集めたのには驚かされる。『ヤバい経済学』の人気を思い出してみるといい。『ヤバい経済学』が出版されたのは、2005年だ。『ヤバい経済学』が今のタイミングで出版されていたとしたら、果たしてあれだけの成功を収められた(あそこまで爆発的に売れた)だろうか。
「日常生活の経済学」本なんて、馬鹿げていて子供じみていると考える人もいるかもしれない。しかしながら、「日常生活の経済学」本は、名目的な安定が保たれていたからこそ花開いたのだ。名目的な安定が保たれていた「大平穏期」(Great Moderation)の産物なのだ。名目的な安定が途切れることなく今でもずっと続いていたとしたら、ヌリエル・ルービニ(Nouriel Roubini)のことなんて世間では誰も知らなかったろう。ルービニは、ニューヨーク大学に籍を置くほとんど無名の学者というに過ぎなかったろう。ルービニとかその他のマクロ経済学者をくさすつもりは毛頭ないが、彼ら(ルービニをはじめとしたマクロ経済学者)の発言に世間が興味を寄せている理由の多くは、「危機」が起こったからこそなのだ。「危機」が起こっていなければ、スコット・サムナーがブログを始めることもきっと無かったろうし、私のブログでも「日常生活の経済学」が看板になっていたろう(そういう方向でいきたい思いは今でもあるのだけれど・・・)。
これまでに何度も語ってきたが、名目的な安定が保たれているようなら、現実の世界を「セイの法則」が当てはまるワルラス流の一般均衡モデルになぞらえて理解するのも基本的には可能になる。そうだからこそ、「(大学の講義で教えるなら)公共選択論よりもミクロ経済学を教えるべきだ」とダニエル・リン(Daniel Lin)にアドバイスしたんだし、経済学入門の講義ではこちらのエントリーで説明したような内容を教えるべきだと訴えたのだ。
サムナーも、つい最近のブログエントリーで似たような指摘をしている。サムナー曰く、名目的な安定が保たれているようなら、ケイシー・マリガン(Casey Mulligan)やジョン・コクラン(John Cochrane)の言い分もまったくもって正しいというのだ。マリガンやコクランといったRBC(実物的景気循環)モデルの信奉者たちは、「貨幣」の重要性を受け入れない傾向にある(そのことを示す嘆かわしい実例としては、こちらのエントリーを参照されたい)。RBCモデルはワルラス流の一般均衡モデルの仲間のようなものであり、その説くところが現実とうまく合致するのは、中央銀行がそれなりに役目をこなしている(名目的な安定を保つのに成功する)場合に限られるのだ。とは言え、名目的な安定が保たれるようなら、ワイン、海賊、フットボールについて研究する絶好の機会だ。そうだというのに、RBCモデルと戯れて時間の無駄使いをする気になんてなれるだろうか?
(追記)厳密に言うと、「日常生活の経済学」本の例として冒頭に掲げた作品のすべてが大平穏期の最中に出版されたかというと、そういうわけじゃない。大不況入りして間もない頃に出版されたものもある。とは言え、今回のエントリーで私が言わんとしていることは伝わるだろう。
(追々記)アメリカの読者に向けての注意。文中の「フットボール」では、手でボールを持ってはいけない。ボールは、足で蹴って運ばなければいけない [3] 訳注;「フットボール」というのは、アメフトじゃなくて、サッカーのことだよ、という意味。。
References
↑1 | 訳注;この点については、本サイトで訳出されている次の記事を参照されたい。 ●ラルス・クリステンセン 「ベッカー死すとも経済学帝国主義は死せず」(2014年5月9日) |
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↑2 | 訳注;名目的な安定が保たれる=名目GDPが安定した成長を続ける、という意味。 |
↑3 | 訳注;「フットボール」というのは、アメフトじゃなくて、サッカーのことだよ、という意味。 |