マーク・コヤマ「ステファン・エプスタイン『自由と経済成長』再訪」(2018年4月3日)

前近代の経済発展においては国家が重要である、というエプスタインの大枠でのメッセージは、私自身を含む後続の研究者の仕事の中心的テーマになっている

今年の3月、私は光栄にもエプスタイン・レクチャーの講師として招かれた。「エプスタイン・レクチャー」という講義名は、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの偉大な経済史研究者、「ラリー」ことステファン・エプスタイン(Stephan R. Epstein)に由来している [1]訳注:元エントリでは”Larry (Stephen) Epstein”と表記されているが、著書などにおける著者名はStephan … Continue reading 。このエントリでは、エプスタイン・レクチャーの講師となることが大変な名誉である理由を簡単に説明したい。レクチャーの内容については次の投稿を見てほしい。

エプスタインは元々、中世イタリアが専門の歴史学者だった。私がエプスタインに出会ったのは『自由と経済成長』”Freedom and Growth“〔未邦訳〕という本だ。この本は2000年に出版されているが、私が最初に手に取ったのはその数年後で、恐らく2002年か2003年である。当時の私は、ダグラス・ノースが(特に『経済史の構造と変化』(1981)で)展開している経済成長のストーリーに没頭していた。

ノースの『経済史の構造と変化』は、取引費用に焦点を当てている。歴史の大部分を通じて、取引費用が高かったせいで、市場交換は制限され、社会は貧しい状態に留まっていた。取引費用が下がり、市場の拡大と分業の発展が可能になって初めて、持続的な経済成長が実現可能となった。この見解によると、市場の拡大やスミス的経済成長はそれ自体、技術的イノベーションへの刺激となった。だが、なぜ取引費用はずっと高いままだったのだろう?

ノースが提示した1つの答えは、国家である。ノースの見解をパラフレーズすると次のようになる。国家は、略奪的行動によって社会を貧困状態に留めておくこともできたし、所有権を保証することで経済成長の前提条件を提供することもできた。ノースによれば、持続的な経済成長の起源は、安定した所有権と取引費用の低下をもたらした制度変化にある。最も重要な制度変化は、1688年の名誉革命であった。

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ノースの主張はたくさんの異論を招いた。だがエプスタインが注目したのは、所有権を保証できる(あるいは取り消せる)ような国家が存在したという前提だった。つまりノースの議論では、「統治者が統治を行っている」ということが前提されていたのだ。エプスタインはこれに異論を呈している。彼の考えでは、新制度派経済学は

19世紀の大陸ヨーロッパで初めて実現した、ある種の中央集権的な主権と管轄領域の統合を、過去に投影している。そのため、前近代国家の性格を根本的に誤解してしまっている。

ノース(そしてジョン・ジョセフ・ウォリスとバリー・ワインガスト)は、2009年に出版された『暴力と社会秩序』でこの異論に応答している。だがエプスタインの批判は、2000年の時点では正鵠を射たものだった。統合された市場の欠如は、略奪的な国家の存在に並んで中心的な問題の1つだったとエプスタインは論じている。彼によれば、市場統合が欠如していたのは、政治権威間のコーディネーション問題および囚人のジレンマのためだった。この議論によってエプスタインは、その後の「国家行使能力(state capacity)」という研究テーマのための論題を設定したのだ。

エプスタインが指摘した論点のいくつかは、現代の研究者によって引き続き展開されている(ここを見よ)。第1に、1688年以後のイギリスでは利子率が低かったのだが、こうした低利子率は中世以降の都市共和国の特徴だったということをエプスタインは立証した。エプスタインによれば、17世紀イギリスの君主制の特徴は、金融システムが異様に後進的だったことだ。1688年以後のイギリスにおける低利子率は、数世紀前にイタリアの都市国家が実現していた共和制の標準状態へとイギリスが収斂していったことを部分的に示している。

第2に、君主制が都市に「重税」を課したとの議論にエプスタインは異議を唱えている。「共和制下よりも君主制下での方が、都市住民の支払った税が高かったという証拠はどこにもない」。1人あたりの税額は、共和制の都市国家の方が高かった可能性が高い。

第3に、フィレンツェのような共和制の都市国家が経済的自由をもたらしたとの議論にもエプスタインは異議を唱えている。彼によると、「共和制下の人々は、君主制下の人々とは異なる形で、経済的・政治的自由に関していくつかの制約を課されていた」。これらの論点はどれも、チャールズ・ティリーのような歴史社会学者、ノースのような経済史研究者の行う一般的議論に異議を突き付けるものだった。

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エプスタインは、中世イタリアから歴史的エビデンスを引っ張ってきている。中世後期のイタリアは、産業化以前の基準で見れば、都市化が非常に進んでおり栄えていた。スティーヴン・ブロードベリーの推計によれば、1450年のイタリアにおける1人あたりGDPは非常に高く、1750年になるまでイングランドに追いつかれなかった。イタリアの経済成長は、前近代における他の地域での経済成長と同様、交易、市場統合、分業によって駆動されたスミス的成長だった。だがイタリアにおけるスミス的成長は、イングランドとは異なり長続きせず、近代的経済成長にまで至らなかった。それは、中世後期のイタリアが「統合の危機(integration crisis)」に陥っていたためだとエプスタインは説明している。

エプスタインの視点では、中世後期の特徴は、新しい成長とイノベーションの機会が生じていたことだった。都市化の進展、資本市場の拡大と進化、地域間交易の発展、プロト工業化。だが、こうした機会を捉えることができたのは、政治権威が中央集権化されていた地域だけだった、とエプスタインは強く主張している。

プロト工業化について、エプスタインは次のように観察している。

決定的に重要なのは、地域的手工業の成功が、支配的な都市の下への経済・制度的権力の集中と反比例していたことだ。

常設市(permanent fair)の確立に関しては次のように論じている。

15世紀のロンバルディアで新しい市(fair)が増えていったのは、1447年のフランチェスコ・スフォルツァの勝利により、権力バランスが従来の都市国家から領地の君主へとはっきりとシフトしてからのことだった。

市場統合は、政治的統合によって補完され、促されていたのかもしれない。統合された都市ヒエラルキーはそれ自体、政治の中央集権化の所産であった。

先に、市場構造の重大な制度変化について述べた。中央集権化はこうした制度変化全ての根底にある。中央集権化は、国内での輸送コストを下げ、契約の実効化や需給の一致を容易にし、都市間の経済競争を激化させるとともに都市ヒエラルキーを強化し、地方部に対する都市部の独占状態を弱め、労働者の移動と技術の伝播を促した。

イタリアの中でもより中央集権化されていた地域(特にロンバルディア)は、トスカーナよりも、こうした流れによって多くの便益を得ることができた。だが一般的に言って、「前近代のイタリアの際立った特徴」は政治的断片化と地域的多様性であり、これが長期的な経済成長の展望を阻害していた。

エプスタインはこれらの主張に関して、利子率についての分析と異なり、ほとんどデータを提示していない。また中世後期のイタリアに関する後続の研究も私は知らない。それゆえ、『自由と経済成長』で語られている中世後期の統合の危機に関する仮説は、依然として思弁的なものに留まっている。もっと長生きしていれば、彼は間違いなくこの仮説を細部まで詰めていっただろう。後続の研究の大半は、中世ではなく近世のヨーロッパに焦点を当てている(ここを見よ〔リンク切れ〕)。しかし、前近代の経済発展においては国家が重要である、というエプスタインの大枠でのメッセージは、私自身を含む後続の研究者の仕事の中心的テーマになっている(例えばここを見よ〔邦訳はここで読める〕)。

[Mark Koyama, Revisiting Epstein’s Freedom and Growth, Medium, 2018/4/3.]

References

References
1 訳注:元エントリでは”Larry (Stephen) Epstein”と表記されているが、著書などにおける著者名はStephan Epsteinという表記であるため、混乱を避けるため上のように表記した。なお意思決定理論の研究者であるラリー・エプスタイン(Larry G. Epstein)とは異なる人物である。
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