●Tyler Cowen, “Should Christmas be more commercial?”(Marginal Revolution, December 8, 2005)
清々しいまでのランディアン(アイン・ランド)的なアプローチも時には必要かもしれない。レナード・ピーコフ(Leonard Peikoff)が次のように書いている。
「発明の才」。「資本主義の生産性」。「人生の楽しみ」。それらを生き生きと見せつけているのが、アメリカのクリスマスだ。「発明の才」だって? 「資本主義の生産性」だって? 「人生の楽しみ」だって? 「物質主義」の匂いがプンプンするじゃないか! そのように一刀両断に切り捨てる声もある。クリスマスというのは、本来はキリストの降臨を祝う休日であり、誰一人として本気にしていない利他主義の教え(「隣人を愛せ」)を胸に刻む一日だと語られることもある。
歴史的な事実を指摘しておくと、現在のようなかたちでクリスマスが祝われるようになったのは「いつ」で「どこ」においてだったかというと、その答えは19世紀のアメリカなのだ。自由と繁栄に恵まれた南北戦争後のアメリカは、歴史上で最も幸せな国でもあった。みんなで祝いたい。消費を楽しみたい。地上(この世)での生の喜びを満喫したい。そのような欲望が渦巻いていたのである。クリスマスは、19世紀のアメリカで渦巻いていたそのような欲望を満たしてくれる又(また)とない機会を提供することになったのだ(連邦政府がクリスマスを祝日と定めたのは1870年)。
冬至を祝う慣わしは古くからあった。冬至を境にして日(昼)が長くなり始めるが、それは地球が息を吹き返した証拠だと考えられていた。古代ローマでは、冬至の時期にサトゥルナリア祭(農神祭)が催されて、どんちゃん騒ぎが繰り広げられた。初期のキリスト教徒は、古代ローマ人のそのようなどんちゃん騒ぎを批判した。世界の終わり(最後の審判)を待ち焦がれている彼ら(キリスト教徒)にとって、この世の喜びなんて軽蔑の対象でしかなかったからである。4世紀頃になると、異教徒の間で12月25日に太陽神の誕生を祝う慣わしが広まり、キリスト教徒たちも決断に至った。「長いものには巻かれろ」 というわけで、(それまでに知られていた事実を歪めて)12月25日をイエス・キリストの誕生日と定めて、冬至のお祭りをキリスト教の祝祭日として強奪したのだ。
・・・(中略)・・・
そして、19世紀。資本主義が大きく発展し、「工業化」、「都市化」、「科学の進歩」がそれに伴う。大量輸送が可能になり、郵便網も発達。本や雑誌が大量に出版され、快適で刺激的な日々を約束してくれる新しい発明が続々と登場。儲けるためには大衆に喜んでもらえるような商品を作って売り捌(さば)かねばならないと心得た起業家たちが群れをなして表舞台に登場してくる。
ここに至ってようやくである。プレゼントの交換がクリスマスを彩る慣わしになったのは。初期のキリスト教徒は、プレゼントの交換を古代ローマの慣わしだとして批判した。ピューリタン(清教徒)は、プレゼントの交換を悪魔的なところがあるとして排した。しかしながら、19世紀のアメリカ人は、そんな声に耳を貸さなかった。資本主義のおかげで、プレゼントの交換ができるだけの富が蓄えられていた。資本主義のおかげで、プレゼント用の商品を宣伝することも安値で大量に生産することも可能にしてくれる能力が培われていた。満ち足りた気分が国中を覆っていた。友人と一緒に過ごして、生の楽しみを満喫したい。誰もがそう願っていた。かくして、プレゼントの交換が前例のない規模で上機嫌にアメリカ全土で展開されるに至ったのである。
サンタクロースは、紛うことなくアメリカの発明品だ。セント・ニコラスについては、ずっと昔から語り継がれていた。ひっそりと彼を祝う休日(12月5日)があったことも確かだ。しかしながら、現在知られているようなサンタクロースが発明されたのは、1822年だ。クレメント・クラーク・ムーアという名のアメリカ人が発表した一篇の詩――“A Visit from St. Nicholas”――がその起源なのだ。セント・ニコラスのあの外見とあの性格を作り上げたのは、ムーア(とその他の幾人かのニューヨーク人)なのだ。サンタがクリスマス・イヴにトナカイがひくソリに乗ってやってくるというのも、サンタが家の煙突から入ってくるというのも、子供たちが用意した靴下の中におもちゃのプレゼントを入れていくというのも、プレゼントを配り終えたら北極に戻っていくというのも、ムーア(とその他の幾人かのニューヨーク人)の思い付きなのだ。
ピューリタン(清教徒)がサンタを反キリストとして糾弾したのも無理はない。サンタのせいで、イエス・キリストの影が薄くなったからだ。それに加えて、サンタは、キリスト教の倫理に真っ向から刃向かう面も密かに備えている。サンタは、お金持ちを非難したりしない。全財産を残らず貧乏人に施せとお金持ちに要求したりもしない。その逆をいくかのように、お金持ちの子供にも貧乏な子供にもどちらにもプレゼントをあげる。サンタは、キリスト教的な慈悲だとか無条件の愛だとかを体現した存在なんかではない。正義を体現した存在なのだ。「いい子」にだけプレゼントをあげるのだから。「悪い子」にはプレゼントをあげないのだから。
クリスマスキャロル(祝歌)。クリスマスツリー。壮観な飾り付け。クリスマスの慣わしのうちで優れているもののどれもが、異教徒の思想や慣わしに起源を持っている。その基礎の上にアメリカ文化――「理性」、「科学」、「ビジネス」、「世俗主義」、「エゴイズム(利己主義)」(あるいは、「幸福の追求」)の混合物としてのアメリカ文化――が積み重なって出来上がったのが、今あるクリスマスなのだ。
言い過ぎなところもあるし、ちょっとした事実誤認もいくつかある。キリスト教徒の多くは、クリスマスよりもイースター(復活祭)を重視していて等々と突っ込みを入れたくなるところもある。とは言え、「清々しいまでの時折のランディアンショック」というカテゴリーでも設けてシリーズ化してみるべきかもしれない。
情報を寄せてくれた www.politicaltheory.info に感謝。