
・・・(略)・・・クリスマスツリー産業の開拓者らの一部は、1900年代初期にそれ専用の農園でオウシュウトウヒやオウシュウアカマツの栽培を開始したが、1940年代の後半に至ってもクリスマスツリー用に出荷される木の9割以上は天然林から伐採されていた。1948年に出荷量でトップだったのは、バルサムモミ、ベイマツ、カナダトウヒ、エンピツビャクシンだった。これらの樹種は、天然林で容易に見つけることができたのである。ところが、クリスマスツリー産業では、今日までの40~50年の間に大きな変化がいくつか起きている。それ専用の農園で栽培されるクリスマスツリーの数が第二次世界大戦以降にますます増えており、1940年代後半~1950年代初頭になると、高密度のツリーを求める消費者の要望に応じるために、木を剪断(せんだん)して木の密度を高めようとする試みが見られ出した。1980年代初頭になると、出荷業務の効率性を高めて木ができるだけ傷まないようにするために、自らの農園で大量に伐採されたツリーをヘリコプターを使って造船所まで運ぶところも出てきた。クリスマスツリーが密集して栽培されるのに伴って、生物学上の各種のリスクが持ち上がっているらしい。
ノーブルモミやフラセリーモミの栽培が増えるのに伴って、害虫や病害の問題がいくつか持ち上がっている。トドワタムシ、カサアブラムシ、トドマツノハダニに寄生されると、葉が醜く変色したり、枝がねじれたり、枝が先端から枯れていったりする。フラセリーモミが大量のカサアブラムシに寄生されると、丸ごと枯死することもある。売り物になるノーブルモミおよびフラセリーモミの栽培を邪魔しているのが、立枯病/枝枯病、若葉の壊死(CSNN)、褐斑病の三大病害である。・・・(略)・・・これらの病害に対する根本的な解決策は、病気に強い品種の開発を介して見出されることだろう。ノースカロライナ州や太平洋岸北西部でそのような新しい品種の開発が試みられている最中だ。クリスマスツリーの栽培は、経済的な面でも厄介な問題を抱えている。クリスマスツリーの栽培の何が大変かというと、育てるのにものすごい長い時間を要するのだ。 The Hustleに投稿されている優れた記事によると、以下の通り。
クリスマスツリー栽培の第一歩は、苗木を植えるところからはじまる。苗木をどうやって手に入れるかというと、ウェアーハウザー社のような林業を営む会社から5セント~1ドルで買うというのが通例だ。苗木を植えてから2年ほど経過すると、「子供部屋」から抜け出して「大舞台」に移ることになる。外にある土地の一定の面積を割り当てられて、そこがその木の縄張りとなるのだ。クリスマスツリー農家の大半は、1エーカーあたり1200本のツリーを植えるのを目標にしている。クリスマスツリーを異色の作物にしているのは、出荷されるまでに要する時間の驚くほどの長さだ。一本のツリーが6フィートの高さに成長するまでに、8年~10年はかかるのだ。出荷の時期が到来するまでの間、ツリーはお金を飲み込むブラックホールへと化すことになる。「クリスマスツリーの栽培には、大量の血と汗と涙が注ぎ込まれているのです」と語るのは、ミシガン州立大学園芸学部教授のバート・クレッグ(Bert Cregg)氏。「まず土地が要ります。道路の建設もしないといけません。トラクターも要るし、除草剤も要るし、肥料も要ります。それに加えて、ツリーを栽培したり剪断したりするために多大な労力をかけないといけません」。・・・(中略)・・・万事がうまく運んだとしても、クリスマスツリー農家には、10年先のマーケットがどうなっていそうかを予測しなければならないという難題が残っている。今の段階で植える苗木が多すぎると、10年後にツリーがあふれ返ってしまうことになる。その反対に、今の段階で植える苗木が少なすぎると、10年後にツリーが品薄になってしまう。 これまでの歴史を振り返ってみると、明らかになることがある。それは何かというと、クリスマスツリー産業は需要・供給モデルのケーススタディ(事例研究)の一つになり得る資格を備えているのだ。1980年代初頭にタイムスリップすると、1950年代に農園でのクリスマスツリー栽培が開始されたせいで、その後にツリーの過剰生産が繰り返される羽目になっているとの手厳しい警告にちょくちょく出くわすことだろう。その例として、1983年にバトンルージュ市にあるルイジアナ州立大学で開催された森林学会の第32回年次総会で語られた陰鬱な警告(pdf)をご覧いただくとしよう。
- クリスマスツリー農家らは、1990年代に苗木を植えすぎてしまった。その結果、2000年代初頭に市場にツリーがあふれ返ってしまい、そのせいでツリーの値段が急落し、多くの農家が廃業に追い込まれた。
- 2008年の不況期は、クリスマスツリー農家にとっても経済的に苦しい時期で、苗木をあまり植えることができなかった。植えられた苗木の数が少なすぎたのだ。その結果、2016年以降にツリーの値段が高値で推移することになった。
未来を見据えるためには、過去を振り返る必要が時にある。そして、問う必要がある。我々は今どこにいるのか?、と。どうやってここまでやって来たのか?、と。そして、これが一番重要な問いだが、これからどこに行くつもりなのか?、と。ここ南部(アメリカ南部)は、かれこれ50年以上の歴史を持つクリスマスツリー産業の新参者である。第二次世界大戦以降、農園で栽培されるツリーの数が劇的に増えたが、それと同じくらいの勢いで天然林由来のツリーの数が減っていった。ペンシルベニア州を中心にクリスマスツリーの過剰生産が発生したのが1950年代半ばのこと。その当時、ペンシルベニア州は、北アメリカにおけるツリー栽培の中心地だった。農園でのツリー栽培は、時とともに他の州へと徐々に広がっていき、60年代半ばになると、五大湖周辺の州でもツリーの栽培が盛んに行われるようになった。そして、1965~1968年に再び過剰生産が発生し、クリスマスツリー産業全体が大打撃を被ることになった。50年代半ばに過剰生産が発生した時と同じように、多くの農家がクリスマスツリーの栽培から手を引くことになったのである。しかしながら、過剰生産とそれに伴うクリスマスツリー産業の不振は、50年代半ばの時と同じように、ほんの数年で終わりを告げた。過剰生産が解消された後には、クリスマスツリーを栽培しても再び採算がとれるようになり、技術面でもツリーの質の面でも絶えざる改善が見られた。二度目の過剰生産期から脱した後には、農園でのツリー栽培がさらに広い範囲で試みられるようになったようであり、70年代初頭にここ南部(アメリカ南部)においてバージニアマツの栽培が開始されると、産業全体が右肩上がりの活況を呈し、その状況がいつになく長く続いた。今もなおその最中にあるが、果たしていつまで続くだろうか? 先行きに暗雲が漂い始めており、そのうちに反動――第二次世界大戦以降、三度目の過剰生産期――がやってくるのは明らかであるように思える。農作物を扱うその他の産業においてと同じように、近年の活況が過剰生産の種を蒔(ま)いたのである。目下のところ、市場規模の3~4倍もの数のツリーが栽培されているようなのだ。このことは広く知られているところだが、現状に満足しきった気分――あるいは、希望的観測――がクリスマスツリー産業全体に広がっているようである。一本のクリスマスツリーが出荷されるまでには、10年かかる。そのおかげで、クリスマスツリー産業は「クモの巣」モデルが当てはまる典型例となっているのだ――この点については、Sex, Drugs & Economicsブログのこちらのエントリーで的確に説明されている――。

図の出所:Trees.com
大量生産・大量消費のフォード型レジームとクリスマスとの蜜月関係は、20世紀を通じて変わりなく続いた。1930年代を迎える頃には、ニューヨークにあるメイシーズやロンドンにあるハロッズといった百貨店がクリスマスシーズンに豪華な飾り付けで彩られるのが恒例行事になっていた。画家のハッドン・サンドブロムがコカ・コーラ社に頼まれて描いたサンタクロースは、経済的にも文化的にも活力に溢れる「アングロ・アメリカ流のクリスマス」が世界の模範になることを告げる象徴となった。西側経済にとってのクリスマスの重要性は20世紀を通じていや増すばかりだったが、そのことを何よりも雄弁に物語っているのが1939年のルーズベルト大統領の決定である。当時のアメリカは不況の真っただ中にあったが、ルーズベルト大統領は、ロビー活動を展開する実業家たちの訴えに妥協するかたちで、感謝祭を(11月の最終木曜日から第4木曜日へと)一週間前倒しするという決定を下して物議を醸した。なぜそんなことをしたかというと、感謝祭の翌日のブラック・フライデーからクリスマスまで続く年末商戦の期間を長引かせて、消費の喚起を図ろうとしたのである。クリスマスツリー産業の経済的な面についてはこれくらいにして、これから先は歴史的な面に目を向けてみるとしよう。モミの木を伐採してそれに飾り付けをする伝統は、一体どこで生まれたんだろうか? さて、ここで再びシャスタナー&ベンソンの二人にご登場願おう。彼らの共著論文で、クリスマスツリーの歴史が簡潔に跡付けられている。
冬にお祝いをするために常緑植物を使って家の中を飾り付ける習わしは、聖書の時代にまで遡る。7世紀になると、常緑樹を使って冬至を祝う異教徒の習わしがキリスト教の祝典の一部に組み込まれたが、(フランスのアルザス地方の中心都市だった)ストラスブールで暮らしていたドイツ人たちが近所の林からモミの木を伐採してきてクリスマスに飾るようになったのは16世紀のことである。その後、ペーパーフラワー、果物、ケーキ、ティンセル、砂糖菓子などを使って、モミの木が飾り付けられるようになる。18世紀になると、モミの木の装飾品としてろうそくが使われるようになり、18世紀の終わりまでには、飾り付けられたクリスマスツリーの姿をドイツ全土で目にすることができるようになる。イギリスの植民地になってまだ間もない頃の北米では、クリスマスツリーを目にする機会は滅多になかった。クリスマスを祝うためにクリスマスツリーを飾る習わしを北米に持ち込んだのは北欧からの移民らだったが、その習わしが北米で一気に広がったのはアメリカ独立戦争でイギリス軍に加勢したヘッセン兵(ドイツ人傭兵)のおかげである。上陸したヘッセン兵――神聖ローマ帝国(ドイツ)の領邦国家だったヘッセン=カッセル方伯領出身の傭兵―― が駐留していた先でクリスマスツリーを飾ったという記録が残っており、ジョージ・ワシントン将軍率いる米大陸軍が1776年12月26日のトレントンの戦いでヘッセン兵を打ち負かすことができたのは、クリスマスを盛大に祝っていたヘッセン兵が疲弊していたおかげという逸話も残っている。北米における最古のクリスマスツリーの例を記録に残っている範囲で挙げると、1781年にカナダのモントリオールの北にあるソレルという町でドイツ人の将校が自宅でクリスマスツリーを飾ったとされており、1804年にミシガン州にあったディアボーン砦でクリスマスツリーが飾られたという。クリスマスツリーを編(あ)み出したのは、「ドイツ人」だという。「ドイツ人」起源なわけだ。いや、正確には、「ストラスブール在住のドイツ人」起源と言うべきか。ちなみに、ストラスブールは、1681年からフランス領になっていた。1681年当時のフランスの国王は、ルイ14世。 フランスはルイ14世の時代にドイツ(神聖ローマ帝国)からストラスブールを入手し、英語圏の国々はヴィクトリア女王とチャールズ・ディケンズの時代にドイツからクリスマスツリー(の習わし)を入手した・・・んじゃなかったか? その話なら私もよく知っている。アルバート公――ドイツ生まれで、ヴィクトリア女王の最愛の夫――が1841年のクリスマスにウィンザー城でモミの木に飾り付けをしたというあの話だ。そして、チャールズ・ディケンズの大ヒットした『クリスマス・キャロル』(1843年に出版)がさらなる後押しとなって、1840年代の終わりまでにクリスマスツリーの伝統(クリスマスにモミの木を飾り付ける伝統)がイギリスに根付いた――そして、その伝統が大英帝国のネットワークを通じて大西洋を越えて広まった――というあの話だ。

本稿では、長い19世紀にクリスマスの習わしがドイツからイギリスへと流入するに至った過程を検討する。具体的には、イギリスに文化上の新たな習慣が根付くまでの過程を英独関係の広い文脈の中に位置づけて検討する。クリスマスを祝う習慣は複数の国で同時並行で発展を遂げたが、クリスマスを祝う習慣がイギリスで発展する――とりわけ、クリスマスが子供のためのイベントとして発展を遂げる――過程においては、クリスマスツリーを飾るというドイツの習わしが重要な役割を果たした。クリスマスツリーを飾る習わしがイギリスで受け入れられる素地を培(つちか)う上で決定的な役割を果たしたのが、少数の文士エリートである。彼らが手掛けた児童文学作品の中で、ドイツ人が正直で素朴で家庭的な性格の持ち主として描かれたのである。ドイツ人に対するそのようなイメージは、19世紀後半に英独関係が悪化しても損なわれず、第一次世界大戦中の「クリスマス休戦」について語られる中でもそれは変わらなかった。ところで、「ドイツ流のクリスマス」を称える声が最近になって再び高まっており、「ドイツ流のクリスマス」は商業主義に侵されていない「不朽で正真正銘」のクリスマスだという言い分が流布されている――現下のイギリスでは、ドイツに対するネガティブなステレオタイプが浸透しているにもかかわらず――。しかしながら、19世紀の資料の多くでは、クリスマスツリーの由来が正確に跡付けられておらず、そのせいで 「イギリスにクリスマスツリーを持ち込んだのはアルバート公だ」という俗説が根強く信じ込まれる結果になっている。外から入ってきた習わしの異国風味を薄めて国史に溶け込ませようとする傾向というのは強力なものであり、そのおかげで「文化の流入」と「文化の同時発展」を区別する作業の難易度が高められてしまっている。ところで、クリスマスツリーを編み出したのはドイツ人ではあるが、それは国民国家としてのドイツが誕生する前の話である。前にも触れたように、クリスマスツリーの生まれ故郷とされているストラスブールは、1681年からフランス領になっていた。しかし、普仏戦争でフランスが敗れると、ストラスブールはドイツ(プロイセン王国)の手にわたることになる(1871年)。すると、(ストラスブールを含めて)アルザス地方に暮らしていてフランスに愛着を持っていた住民たちが大挙してその地を去った(アルザス地方を後にした住民の数は、1910年まの間に40万人に上った)。イギリスやアメリカでは、クリスマスツリーは「ドイツ生まれ」と見なされているが、19世紀後半のフランスの愛国者たちの間では、クリスマスツリーは「反独(反ドイツ)」のシンボルとなっていた。以下の画像がその証拠だ。


・・・(略)・・・クリスマスは、モダン(近代)を特徴づける三つの重大なせめぎ合いの要(かなめ)に位置するようになってきている。三つのせめぎ合いとは何か? まず一つ目は、家族/親族との関係にまつわるせめぎ合い――人類学の中心に位置し続けているトピック――である。二つ目は、アイデンティティのグローバル性とローカル性との間のせめぎ合い――生まれ育った地の特殊性や故郷とのつながりを引きずりながらも、世界市民になるという欲求を満たすためには、どのように折り合いをつけたらいいかという葛藤――である。そして三つ目は、大量消費の物質主義型の生活様式との関わりにまつわるせめぎ合いである。 本稿の締め括りとして、過去の史料に加えて、現代のクリスマスに関する民族誌学の知見も援用して、「クリスマスの一般理論」の素描を試みる。私もこれから自分なりに「クリスマスの一般理論」の素描を試みる・・・つもりなんてないので、心配するなかれ。とは言え、これだけは言わせてもらいたい。今これを読んでいるあなたがどこに住んでいようとも、クリスマスをどう祝うつもりであろうとも、いや、クリスマスを祝うつもりがあるかどうかにかかわらず、素敵な時間を過ごせますように!

〔原文:“Chartbook #183: The Christmas Tree&the great acceleration – from Strasbourg to Shanghai”(Chartbook by Adam Tooze, December 25, 2022)〕