アダム・トゥーズ「ニコラス・ミュルデル著『経済兵器』書評:経済制裁の実態史」(2022年2月9日)

本書はニコラス・ミュルデルによる新しい戦間期の歴史の提示である。

「(私たち)は、ドイツと同じく、敵国に出産を忌避させようとしたのです。敵国で子供が生まれたとしても、死んでしまうような極貧状態を作り出そうとしました」。イギリスの経済封鎖行政官であり、熱烈な国際主義者だったウィリアム・アーノルド・フォースターが、第一次世界大戦時のドイツへの経済封鎖を振り返って述べた言葉だ。

今、経済制裁が話題となっている。アフガニスタン、イラン、シリア、ロシアなどを思い浮かべられるだろう。

こうした状況で、ニコラス・ミュルデルは、新著『エコノミック・ウェポン:現代的戦争の道具としての制裁の台頭』(イェール大学出版)〔訳注:『経済兵器 現代戦の手段としての経済制裁』として邦訳〕を刊行した。本書は、歴史家以外にも必読の書籍だ。

ちなみに、著者ニック(@njtmulder)とはツイッター上での親密なフォロー関係であり、率直に言って親友でもある。以下は、批評というより顕彰だ。私は、この本の計画を様々な段階から見知ってきたが、ニックが完成にこぎ着けたことを嬉しく思っている。

私の審美眼が信用できない? なら、フォーリン・アフェアーズ誌でのローレンス・フリードマンウォール・ストリート・ジャーナル誌でのポール・ケネディ、ツイッターでのヘンリー・ファレルの好意的評価を参考にしてほしい。ヘンリーは言っている。「これは、議論を変える本となるだろう」。

政治経済、国際関係、両大戦間期の歴史に興味があり、拙著『大氾濫:第一次世界大戦、アメリカ、世界秩序の再構築 1916-1931』、『ナチス 破壊の経済』が好きなら、ミュルデルのこの本をチェックすべきだ。非常に独創的で、力強く論述され、素晴らしくよく書けており、出版社によって上品に装丁され、優れた図版がたくさん収録されている。

このエントリで強調したいのは、この本は、新自由主義や自由主義的な経済思想の歴史に関心を持つ人に興味を引く内容になっていることだ。

この本の読み方の一つが、クイン・スロボディアンが『グローバリスト:帝国の終焉と新自由主義の誕生』で決定付けた新自由主義(ネオ・リベラリズム)についての正統的な史観の補強、つまり自由主義についての新しい史観(ニュー・リベラリズム)の提示と解釈するこことだ。スロボディアンが、帝国の崩壊と経済ナショナリズムの勃興から資本主義を守ろうとする切望からヨーロッパの中心で新自由主義が産まれたことを示したとするなら、ミュルデルは、この〔スロボディアンによる〕弁証法的歴史観のもう一つの側面――〔枢軸国の〕攻撃的なナショナリズムがアウタルキー(autarky:国家の経済的自立・自給自足経済)を希求し、これを〔英米等で〕新規に勃興した自由主義による世界経済を兵器化しようとする法外な企てによって煽られたことを示している。

強調すべき重要な点は、第一次世界大戦後には、経済封鎖こそが真に破壊的な兵器とみなされるようになったことだ。重爆撃機の巨大編隊や、核兵器が出現するまでは、敵の本国を攻撃する手段では、経済封鎖こそが、航空戦力よりもはるかに合理的な手段だった。第一次世界大戦では、(例えばツェッペリン飛行船等の)空爆で約2,000人の民間人(大半はイギリスの民間人)が亡くなっている。対して、連合国による経済封鎖では、同盟国の民間人は確定しているだけで数十万人死亡した。ミュルデルは、30~40万人が妥当な数字としている。中東では、経済封鎖で50万人の民間人が飢餓で死亡した。

ミュルデルは以下のように指摘する。

20世紀の紛争では、第二次世界大戦前までは、こうした経済的封じ込めによる数十万人もの死亡者が、人為的な死因の大半を占めていた。

経済的な戦争は強力な武器となっており、第一次世界大戦の戦勝国は、戦争を抑止し、強制的な平和をもたらすには、国際連盟によってこの強力なツールを用いることを自明な手段だと見なしていた。それは自由主義(リベラリズム)による最終兵器だった。

この事実は、国際連盟というプロジェクトの包括的な見解の根本的な見直しにつながるはずだ。ミュルデルは以下のように述べている。
〔訳注:国際連盟は今にいたるも、理想主義的な世界平和の実現プロジェクトだったと一般的にみなされているが、ミュルデルやトゥーズの史観では、今に至るグローバル資本や(新)自由主義的資本主義国家による経済的圧政のためのプロジェクトとされている。〕

1930年代のグローバルな政治・経済秩序の崩壊と、第二次世界大戦の勃発によって、国際連盟はユートピア的な企画だったとしてあっさりと棄却され、この評価は続いている。当時もそれ以降も、〔第一次世界大戦直後の〕さまざまな平和条約には致命的な欠陥があり、この新設の国際組織は安定を維持するには脆弱すぎたと、多くの人が結論付けたのだ。国際連盟は、平和を乱すものを屈服させる手段を持ち合わせていなかったという見解は、今日になっても一般的通念だ。しかし、国際連盟の創設者たちは、こうした〔ユートピア的〕見解を有していたわけではなかった。創設者らは、国際連盟という組織には、現前した世界への対応として、これまでにない強力な強制手段を備えていたと考えていたのだ。その手段とは、1919年に米国大統領ウッドロウ・ウィルソンが「戦争よりも恐ろしいもの」と呼んだ経済制裁であった。ウィルソンは経済制裁の脅威を以下のように語っている。
「絶対的な封じ込めです。窒息によって個人のあらゆる戦意を喪失させ、国家を正気に戻すものなのです。この二段階のプロセスからなる施策は、経済的、平和的、静的、致命的な治療法として適用され、武力は不要となるのです。これは恐ろしい治療法です。ボイコットされた国以外では命は犠牲となりません。これは、対象国に圧力を与え、私の判断では、どのような近代国家でもこれに抵抗することはできないでしょう」
国際連盟の創設されてからの当初の10年間には、このウィルソンの述べた手段は、英語で「エコノミック・ウェポン(経済兵器)」とよく呼ばれていた。

振り返ると、経済兵器は20世紀における自由主義的国際主義による今も永続している最たるイノベーション一つであり、自由主義的国際主義が矛盾を孕んだ平和と戦争へのアプローチを実施していることを理解する鍵であることを明らかにしている。

ドイツの法学者であり、後にナチスの顧問となったカール・シュミットは、国際連盟とその経済兵器を、平和と戦争の境界をあいまいにしている、と主張したことで有名だ。国際連盟は、商業と道徳というビロードの手袋をはめて、英米の過酷な支配を覆い隠した。一般的な見地では、シュミットは間違えていたわけではなかった。しかし、ミュルデルが明らかにしたように、シュミットのこの見解は、独創的でも、正確でもなかった。

1920年代後半は、自由主義が国際連盟を利用して邪悪な陰謀を画策した時代といより、ある政治的・法的秩序が別の秩序に移行するハイブリッド状態だったと特徴付けられる。集団安全保証と国際連盟の制裁という新しい「公」的システムは、戦争の限定化、中立政策、人道法という旧来の「私」的システムとの間に軋轢を生じさせた。1927年から1931年にかけて、この二つのパラダイムが不安定に共存していたことが、この時期の政治を混乱させた。しかし、この混乱は、シュミットが示唆していたような、自由主義と反自由主義の間、あるいは自由主義と非自由主義的代替案との間に生じた闘争ではなかった。古い分離主義的なシステムを支持していたシュミットは、実際に多くの古典的自由主義や来るべき新自由主義(ネオリベラリズム)に同調している。制裁主義と中立政策との間にあった分断は、自由主義とそれに敵対する勢力との対立ではなく、自由主義自体に内在していた対立パラダイム間の衝突の現れとなっていた。

確かに、経済制裁の配備は、自由主義のさらなる一般化的な変容と結びついていた。戦間期には、自由主義の新しい系統が出現した。この新しい自由主義は、技術的統治、国際法による行政機構、専門家外交、ロジスティクス(物流管理)、応用された経済学といった分野での卓越的な支配を示した。

〔第一世界大戦までの〕中立政策、民間非戦闘員、私有財産、食料供給等への保護といった長年の伝統は、〔第一世界大戦と戦間期の戦勝国による国際連盟秩序によって〕侵食され、制限された。一方で、侵略国家への宣戦布告を伴わない軍事・治安活動や、侵略の犠牲国への後方支援といった新しい慣行が生まれた。これらすべては、国際システムに大規模かつ複雑な変革をもたらした。今日一般的に、経済制裁は戦争に代わる選択肢とみなされている。しかし、戦間期のほとんどの人からすれば、経済兵器は全面戦争そのものだった。

〔当時勃興しつつあった〕新自由主義が、ポピュリスト、民主的経済ナショナリズムを敵の一端としていたとするなら、他方この〔国際連盟・英米による〕新しい自由主義(ニュー・リベラリズム)も別途これを敵としていた。経済制裁は、〔ニュー・リベラリズムに基づいた〕専門家の武器であった。

ミュルデルが指摘しているように、制裁と封鎖は新規の戦争であり、専門家や官僚によって実施される戦争だった。

制裁が魅力的だったのは、潜在的な力だけでなく、行使する人間にとって使いやすい点にあった。その強制力の行使にあたっては、爆撃機のコクピットや大砲の砲尾に着く必要はなく、マホガニー製の机の背後から施行されていたのだ。アメリカのある批評家は、制裁は「作戦対象の場所は可視化されないが、〔武力行使〕と同じような威力を発揮する」特殊なものである、と論じている。

ケインズが『平和の経済的帰結』の冒頭で自身の体験を述べた有名な箇所にあるように、1914年以前の幸福な時代、イギリス紳士はベッドでくつろぎながら世界中の製品を注文することができたとするなら、その紳士は、ロンドンのシティの影響力とイギリス海軍の影響力を行使して、その日のうちに、敵国に民間人に同じ製品を購入しないような措置を実施できたのである。

戦間期のリベラル派は、この〔経済制裁・封じ込めという〕新しい強制手段の恐るべき効果の喧伝を怠らなかった。ミュルデルが鋭く指摘しているように、経済戦争の破壊的な効果を語ることは抑止戦略の一環となっていた。

全面封鎖された国は、社会崩壊への一途をたどる。物質的に孤立した経験は、その後数十年にかけて社会に影響に痕跡をとどめた。不健康、飢餓、栄養失調の経験は、生まれくる将来世代に受け継がれるためだ。衰弱した母体からは、未熟、発達不良の幼児が生まれた。経済兵器は、その影響によって、放射性物質の投下のように、標的となった社会に、長期にわたる社会・経済的、生物学的な負の遺産をもたらした。

これは恥ずべきものとして秘匿されていたわけではなかった。またこれは、国際連盟による制裁を推奨する人からすれば、この支持している新兵器への反対論拠になっていなかった。銃後の全面的な荒廃こそが重要だったのだ。「平和に対する犯罪」こそが国際法上の究極の犯罪であり、経済制裁こそが最適解とされた。

しかし、避けられない質問が生じる。制裁による威嚇は効果があったのだろうか?

ミュルデルは、小国を対象とした制裁に一定の効果があったと主張している。制裁は侵略を抑止し、仲裁を魅力的に見えるようにしたのだ、と。世界経済の脅威が緊密に絡み合う一方で、未来は明るく見えた1920年代という背景では、ドイツ、イタリア、日本のエリートたちも、自身の利害を西側諸国と一致させようとした。しかし、ミュルデルがこの本の卓越した結論で示しているように、世界恐慌の勃発によって、国際連盟という体制は倒錯した論理を展開するようになった。国際連盟による経済政策の脅威は、アメリカ・フランス・大英帝国によるグローバルな経済力に耐えうるレーベンスラウム(生存圏)のようなものを追い求める過激な経済ナショナリズム、アウタルキー(autarky:国家の経済的自立・自給自足経済)的政策、そして最終的には戦争による侵略への動きを正当化した。

イタリア国民に外圧に抵抗し、金やくず鉄、貯蓄を国に提供するように呼びかける「反制裁の3コマ新聞漫画」。マリオ・シローニ画(1935年)ファシスト新聞『人民のイタリア』に掲載

ヒトラー政権下のドイツが、国際連盟によるムッソリーニ政権を対象とした政策の実施を転機に、1936年に四カ年計画を開始したのは偶然ではなかった。

ドイツ政府にとっても日本政府にとっても、領土の拡大は自律性を高め、国民の支持を結集させ、戦略的自律を維持するための手段となった。征服は、国際封鎖というダモクレスの剣の下で生きる不安から逃れる選択肢に見えたのである。時がたつにつれ、経済戦争が避けられないように見えたことで、アドルフ・ヒトラーと日本の指導者は、あらゆる手段で資源の確保に努めるようになった。結果、さらなる効果的な経済制裁を求める国際主義者と、超国家主義者のアウタルキー(autarky:国家の経済的自立・自給自足経済)への希求は、エスカレーション的なスパイラルに陥ることになった。

この逆説的な帰結について、ミュルデルは、イタリアの有名な自由主義経済学者だったルイジ・エイナウディの1937年の論文から卓越した一節を引用している。この論文で、エイナウディは、アウタルキー(autarchy:専制政治)と、アウタルキー(autarky:国家の経済的自立・自給自足経済)という2つの概念は混同されて使用されていると指摘している。

アウタルキー(autarchy:専制政治)に当たる古代ギリシア語は、αŐτός(アフトス、自己)とĀρχή(アルヒ、支配)という言葉に由来しているとエイナウディは指摘した。この言葉は、ストア派の哲学者によって、独立、政治的自治状態、自己統制の心理状態を示すものとして使われた。αŐτός(アフトス、自己)と、Āρκέω(アルケオ、満足させる)の組み合わせからから「自給自足」を意味する言葉、アウタルキー(autarky:国家の経済的自立・自給自足経済)は異なるものだった。

1930年代の〔国際連盟の秩序への〕造反国家は、アウタルキー(autarky)もアウタルキー(autarchy)も実現させることはできなかった。

1936~1937年以降、「防共協定」によって連帯したドイツ・日本・イタリアの三カ国は、どの国も不可欠な原材料を自給していなかったため、経済封鎖への免疫を求めて領土制服への傾斜を強めた。三カ国は戦略的野心の強め、その対応として新規の経済制裁による脅迫とその実施が行われたが、これは逆説的に三カ国にどんな犠牲を払ってでも資源を確保する切迫感を高めるだけに終わった。〔国際連盟体制による〕侵略的領土拡張を抑制するための経済的圧力は、この時に〔侵略を〕促進させるようになったのである。

そして〔枢軸国の〕物資の不足は、人種イデオロギーのレンズによっていとも簡単に再解釈された。ゲーリングは、1914年から1918年にかけて、ドイツは「不十分な対抗手段」しか保持していないと指摘したが、これはドイツの実業家に向けた警告の端緒であった。「想像してほしい。スウェーデンの鉄鉱石をユダヤ人が掌中に収めれば、我々は入手不可能になるだろう」。私が「ナチス 破壊の経済」で論じたように、この〔ナチスドイツの〕政治・イデオロギー・経済・戦略の大混乱の頂点は、1939年1月30日のヒトラーによる帝国議会での悪名高い演説である。この演説では、ドイツの経済的混乱、外貨不足、(アメリカとの)世界大戦の見通しが、ヨーロッパにおけるユダヤ人の致命的な脅威と結び付けられていた。

ミュルデルは以下のように指摘している。

この「残された時は短いという切迫感」に陥ったことで、ナチスは征服という自暴自棄の決断を取った。これは脱出を画策していた経済的苦難にはまり込み、供給問題をより拡大し、ナチス政権を不可避の敗北と破壊に追いやることになった。

しかし、行動とその反応による連鎖は、これ〔第二次大戦〕で終焉を迎えたわけではなかった。〔国際連盟秩序への〕造反国による戦争への衝動は、さらなる弁証法的なねじれを引き起こした。

連合国ブロックは経済兵器による懲罰的配備に加えて、1939年に「積極的経済兵器」――世界権力を組織化するための重要な要素である経済的協調と相互扶助という考えに回帰した。これは、ミュルデルに言わせると、戦間期には取られなかった道である。破壊の脅威ではなく、侵略の脅威にさらされている国に大規模な経済的・財政的な支援を約束するものだった。1941年のレンドリース計画は、遅ればせならこの論理の実現の帰結であった。

経済兵器が戦争の抑止に成功したかどうかは置いておいて、第一次世界大戦期に生じた経済が、現代世界を今日にいたるまで形成したことを、ミュルデルは当然の事実として突きつける。しかし、この現在までの連続性は単純に移行したわけではなかった。

ミュルデルの『経済兵器』という素晴らしい本は、適切にして皮肉に満ちた歴史的考察で締めくくられている。

1945年になると、侵略に終止符をもたらせるとする考えに、現実的な実効性を獲得的できる物質的条件が存在した。この時点になって初めて、相当数の国家が、侵略による違反国家を厳しく批判するだけでなく、連帯によって資源を組織することに意欲的になったのだ。その先頭に立っていたのは、世界の工場であり、主要な援助国であり、勃興した制裁行使国家であるアメリカだった。アメリカが戦間期には制裁には反対したことを考慮すれば、こうした役割を担うようになったことは、注目すべき歴史的転換であった。

この新しい世界秩序は、表面上、中立という概念の完全な敗北を意味していた。

戦間期にイギリスの自由主義だったケンワーシーは1944年に以下のように述べている。

「今日、まず全体主義的な戦争、次いでドイツや日本にような強盗国家との戦争が行われていることで、中立という概念はほぼ消失したのです。将来において、新たなる侵略や無法行為の勃発が生じた場合、中立国の存在を不可能とするような戦後体制の樹立に成功しなければ、我々は政治的な意味でこの戦争に勝利したことにならないでしょう」
古典的な中立の時代は間違いなく終焉を迎え、それとともに平和と戦争によって国際秩序を機能させる方法も終焉を迎えたのだ。経済戦争は、封鎖時代の主役を担った歴史家の言葉を借りるなら「交戦国に対して、生きながらえさせる、あるいは、生きながらえる唯一の選択を選ぶ世界」を作り出した。

しかし、国際連合という新体制の下での戦略爆撃、広島・長崎の恐怖があった後には、〔国際連盟・戦間期の〕1920年代にあった原初の認識的ショックはほとんど忘却されてしまった。戦間期の論争は、棄却、否定された。国連による禁輸措置と、冷戦期の制裁は以下のようにみなされるようになった。

国連による禁輸措置や、冷戦期の制裁は、核兵器戦争に代わる賢明な選択肢であり、過去を克服する啓蒙的な手段であるとみなされるようになった。しかし、経済兵器は戦間期に作られ、パワーポリティクスによって戦後世界に継承されたものだ。1945年以降に変わったのは、経済兵器の利用のための新規の制度的枠組みが、新手の国家集団によって同意されたことにあった。制裁の歴史もその性質において変化した。戦間期には、制裁は圧倒的に欧米の問題であり、非欧米諸国は周辺的な関与しかしていなかった。〔第二次大戦後の〕20世紀の後半期には、制裁はアメリカの支配的な力によって行使され、一方で、社会主義の東側ブロックと新たな独立から生まれた第三世界諸国家が経済的圧力という手段に抵抗、ないしそれを盗用することとが、グローバルな慣行となったのである。

〔経済兵器・制裁の歴史から〕我々はどのような包括的な教訓を引き出すべきだろうか? それには、是非ともこの本を買って読んでみてほしい。

失望させないで魅力的な書籍だ。ミュルデル専門分野に留まる研究論文以上のものを書き下した。経済兵器を論じることで、彼は20世紀前半について新しいビジョンを我々に提示している。

[Adam Tooze, “Chartbook #80: The Economic Weapon – the real history of sanctions.” Chartbook, February 9, 2022]
Total
0
Shares

コメントを残す

Related Posts