●Alex Tabarrok, “The Ethics of Economics”(Marginal Revolution, January 27, 2011)
エドワード・グレイザー(Edward L. Glaeser)が優れたエントリー(“The Moral Heart of Economics”)を物している。テーマは、「経済学の中に潜む倫理的な判断」。コーエンと私が二人で執筆した経済学のテキスト(『Modern Principles』)でも同様の話題を取り扱っているので、以下にその一部を引用しておこう。
予測が問題となる段――いわゆる実証経済学――では、いかなる倫理学説にも依拠しないとしても、(政策の評価などを含む)規範的な問題を論じる段――いわゆる規範経済学――になると、倫理的な判断が立論の中に入り込むことになる。例えば、「臓器売買は(ドナーからの)搾取だ」との主張に対して経済学者が異を唱える時、臓器提供者(ドナー)を一人の人間として――どんなに困難な状況に置かれようとも、自分の判断で選択を行える能力を備えている存在として――尊重すべきだとの判断が背後に控えている。
経済学者は、一人ひとりの選好(好み)についてもとやかく言ったりしない。オペラよりもレスリングの方が好きという人がいれば、それはその人の勝手である。一個人としてどう思うかはさておき、経済学者という立場にとどまる限りにおいては、どちらの好みが優れているかについて判断を下そうとしない(好みの間で優劣をつけたりしない)のが経済学者の流儀である。規範的な問題を扱う際には、経済学者は一人ひとりの選択を尊重する傾向にあるのだ。
一人ひとりの好み(および、一人ひとりの選択)に対する尊重は、自発的な交換――各人が自らの状況を良くしようと思って試みる行為――に対する尊重へとつながる。「外部性」の問題を取り扱った第9章で論じたように、交換は(交換の当事者ではない)第三者の状況を悪化させることが時としてあるというのは確かだ。経済学者もそのことは重々承知している。それでもなお、自発的な(強制ではない)交換というアイデアに対して強い共感を覚えるのが経済学者だ。それというのも、各人は自らの判断で選択を行える能力を備えていると信じているからだ。各人は自らの好みをわかっていると信じているからだ。
経済学者は、「誰」の需要であるかにかかわらず、市場に表れる需要をすべて対等なものとして取り扱う。消費者余剰なり生産者余剰なりに照らして経済政策の評価を行う際には、白人の消費者余剰(あるいは、生産者余剰)も、黒人の消費者余剰(あるいは、生産者余剰)も、まったく対等なものとして取り扱われる。男性の消費者余剰も、女性の消費者余剰も、寡黙な人物の消費者余剰も、おしゃべり野郎の消費者余剰も、アメリカ人の消費者余剰も、ベルギー人の消費者余剰も、まったく対等なものとして取り扱われるのだ。
経済学者が抱く倫理的な見解は、いつだって正しいと言いたいわけではない。章の冒頭でも注意しておいたように、本章では、答えを出すよりも、疑問(質問)を投げ掛けることに重きを置いている。しかしながら、経済学者が抱く倫理的な見解――一人ひとりの選択と好みに対する尊重、自発的な交換の擁護、万人を対等に取り扱うこと――は、風変わりなわけでは決してない。倫理学なり宗教なりの分野における伝統あるあれやこれやの見解と大いに重なり合っているのだ。
ヴィクトリア朝時代の作家であるトマス・カーライル(Thomas Carlyle)が経済学を指して「陰鬱な科学」(“dismal science”)と呼んだというエピソードについては、もしかしたらどこかで耳にしたことがあるかもしれない。その一方で、カーライルは奴隷制の擁護派であり、当時の経済学者が抱いていた倫理的な見解に対して批判的だったという事実については、あまり知られていないかもしれない。ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)をはじめとした当時の経済学者たちは、人は誰であれ、合理的な選択を行える能力を備えていると考えていた。強制ではなく(自発的な)交換こそが、富を増大させる最善の手段であると考えていた。人種の別を問わず、誰もが対等な存在として取り扱われるべきだと考えていた。レッセフェール(自由放任)を信条とした当時(19世紀)の経済学者たちが、奴隷制に異を唱えたのもそのためである。人は誰であれ、自由になる資格を備えていると考えていたのだ。そして、(当時の経済学者が抱いていた)このような倫理的な見解こそが、カーライルに「経済学は陰鬱な科学だ」との印象を抱かせる原因となったのである。陰鬱な科学・・・だろうか?
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