サミュエル・ワトリング「土地課税(land value tax)の失敗」(2025年3月13日)

土地課税は再び住宅問題の万能な解決策として脚光を浴びている。しかし、20世紀初頭のイギリスにおいてその導入は、当時隆盛を誇った自由党の崩壊をもたらした。

19世紀後半、アメリカの経済学者ヘンリー・ジョージの思想は英語圏で広く支持を集めていた。彼の代表作『進歩と貧困』は、経済における土地の重要性を分析し、「地価(land value)」に対する最大限の課税を行うことを提唱した。この書籍は数百万部を売り上げ、その時代におけるベストセラーの一つとなった

ジョージの考えが広まる一方で、大西洋を挟んだイギリスでは、富裕な地主層が政治を支配し、主に保守党を支持していた。これに対抗する形で、自由党やアイルランドの民族主義者は、借地人の抗議運動を政治的な支持基盤として活用し、土地課税への支持を獲得していった。

ジョージの主張は、エドワード朝時代の左派にとっては最大の好機であった。というのも、新規のインフラ整備により人々が都市中心部を離れて移動するようになり、地方自治体は法的義務の増大による予算の負担増加による危機に直面していた。従来の固定資産税(property tax)では対応が難しくなっていたのだ。1900年代初頭には、『進歩と貧困』は労働党の議員の間でシェイクスピアよりも人気があったとされる(Jonathan Rose, The Intellectual Life of the British Working Classes (Yale University Press, 2001).) 。そして1910年、ヘンリー・アスキス自由党政権は地価の上昇や未開発地に対する課税を導入し、イギリスの固定資産税制度の改革を試みた。

出典:Jonathan Rose (2001)  Get the data

しかし、アスキスの試みは大失敗に終わった。こうして20世紀初頭のイギリスは、土地課税の導入が行政上の複雑さによって頓挫するケーススタディとなった。土地課税は徴税コストがその税収を上回っており、その不明確な法律の文言のために建設業者の利益に対する課税へと変質し、建設業界の崩壊を招いた。結果として、この税制を1910年に導入した財務大臣のデビッド・ロイド・ジョージ自身が、1922年に首相として撤廃を決定した。これ以降、イギリスは効果的な固定資産税制度を確立することができていない。

この歴史は、土地課税が世界の住宅不足 [1]こちらの記事の邦訳はこちら:「あらゆる社会問題は『住宅問題』に起因する」(2021年9月14日)解決すると考える現代のジョージ主義者 [2] … Continue reading に対する警鐘だといえる。ジョージ主義者は、土地市場が投機や囲い込みによって非効率に運営されていると主張するが、イギリスの経験は、土地課税およびジョージ主義的世界観の根本的な課題を浮き彫りにしている。「地価」は厳密な評価が不可能であり、訴訟が相次いだ。また、徴収できたとしてもその実行の難しさから行政コストは税収の4倍に達した。そして、土地の効率的な利用を促すどころか、住宅建設業者に対する懲罰的な課税となり、住宅供給を激減させた。

とりわけ深刻だったのは、イギリスの地方政府(local government)が本来解決すべき財政問題を解決できなかっただけでなく、既存の固定資産税制度の長期的衰退を助長した点である。

イギリスほど大きな失敗をした国は少ないものの、土地課税の導入に成功した国もほとんどない。土地課税を導入しているとされるオーストラリアや台湾も、農地や自宅用不動産といった最大の土地利用を免税対象としている(ただし、デンマークはほぼ理論上の純粋な土地課税を導入している国として例外的に挙げられる)。

自由党が土地課税を支持するようになったワケ

1900年までに、イギリスの人口の77%が都市部に住んでおり、1832年、1867年、1884年の三度にわたる選挙法改正によって、成人男性のおよそ3分の2(ただし女性は含まれない)が投票権を得ていた。1900年までに、イギリスの人口の77%が都市部に住んでおり、1832年、1867年、1884年の三度にわたる選挙法改正によって、成人男性のおよそ3分の2(ただし女性は含まれない)が投票権を得ていた。それでもなお、比較的少数の地主は、政治における圧倒的な影響力を保持していた。1880年の時点で、下院議員652名のうち322名が2,000エーカー以上の土地を所有していた。上院(貴族院)は全ての法案に対する拒否権を持っていたが、長年の慣例として、上下両院の意見が対立した場合には下院に譲歩するのが通例だった。しかし、その上院の約800名の議員のうち、308名はイングランドの6,000名の最大地主に含まれていた。

ヘンリー・ジョージは長年アイルランド問題に関心を持っていた。彼はイギリス系の祖先を持つ福音派のプロテスタントであったが、1869年にはカトリック系の小さな週刊新聞『ザ・モニター』の編集を務めていた。後に、1879年には『サクラメント・ビー』紙上で、アイルランドの地主を収用し、小作農民の家賃負担を軽減すべきだと主張した。同年に出版された彼の代表作『進歩と貧困』は当初は注目されなかったが、彼はニューヨークのアイルランド系アメリカ人の有力者に25部を送付した。そのうちの一人であるジョージ・フォードは、当時最大のアイルランド系アメリカ人向け新聞『アイリッシュ・ワールド』の創設者兼編集者であり、ジョージは同紙に定期的に寄稿していた。

1881年10月、ヘンリー・ジョージは『アイリッシュ・ワールド』の特派員としてアイルランドのコークに到着した。当時、アイルランドは混乱状態にあり、その中心には土地問題があった。1879年、アイルランド国粋主義の国会議員チャールズ・スチュワート・パーネルと、土地改革運動の指導者マイケル・ダヴィットは、裕福なプロテスタント地主の土地を貧しいカトリック系農民に強制的に移転させることを主張し、数万人の小作農を動員して地主に対する大規模な抗議運動「土地戦争(land war)」を展開した。

ジョージは短期間ではあったが投獄中のパーネルと面会し、ダヴィットとは継続的な書簡のやり取りを始めた。彼はこの機会を利用し、地価税の必要性をイギリス本土へも広めることを試み、1882年には『進歩と貧困』のイギリス版を出版し、全ての国会議員に無料で配布した。しかし、当時のイギリス(経済・政治の世界的中心地)では彼の考えは冷ややかに受け止められた。カール・マルクスやアルフレッド・マーシャルといった学者たちはジョージの理論を酷評し、自由党の議員サミュエル・スミスは彼の提案を南海泡沫事件のような荒唐無稽な金儲けの手口だと非難した(Charles Albro Barker, Henry George (New York, 1955), 393.)。

しかし、1885年までに政治情勢は劇的に変化した。同年の選挙で、パーネルは「アイルランドの無冠の王(Uncrowned King of Ireland)」と呼ばれるほどの影響力を持つようになり、新たに結成したアイルランド議会党を率いて、アイルランド101選挙区のうち86議席を獲得し、イギリス議会においてキャスティング・ボートを握った。1886年、当時の首相ウィリアム・グラッドストンは、パーネルの支持を得るために、アイルランド自治(ホーム・ルール)を認める提案を行った。

この提案により自由党は分裂した。地主層の自由党員の大半は、自分たちの土地が小作農民の政府によって管理されることに激しく反発し、離党した。彼らは反ホーム・ルールを掲げる保守党と連携し、「自由統一党」という新派閥を形成した(1912年には正式に保守党と合併する)。1885年の総選挙では、農業人口の多い111のイングランド選挙区のうち54で自由党が勝利していたが、1886年の選挙ではこの数がわずか16にまで激減した。

1886年の土地所有者の大量離反を受け、自由党は土地課税を中心に結束することが可能となった。土地課税導入への熱意は党の左派や草の根層で急速に広まり、大土地所有者という政治的敵対勢力の影響力を削ぐ手段として、また地方政府財政の危機を解決する方法として支持された。1888年以降、自由党大会では土地課税に関する提案が次々と可決され、1891年のニューカッスル・プログラム(Newcastle Programme)に盛り込まれることとなった。

当時、イギリスにはすでに2種類の固定資産税が存在していた。一つは所得税であり、賃貸収入を含む形で課税されていた。もう一つは住宅および事業用固定資産に対する課税であったが、これらでは地方政府の財政負担を賄いきれない状況に陥っていた。

1つ目の固定資産税は所得税の一部である「スケジュールA」である。当時のイギリスの所得税は賃貸収入だけでなく、住宅の推定賃貸価値(帰属賃料)にも課税されていた。ただし、課税対象は年間所得100ポンド以上の者に限定されており、1870年時点で2600万人の人口のうち約40万人のみが該当していた。この税収は中央政府に納められた。

しかし、より政治的に重要だったのは「レート(rate)」と呼ばれる第二の固定資産税であり、これは地方政府に収められる地方税だった。住宅用固定資産には「住宅レート(domestic rates)」、事業用固定資産には「非住宅レート(non-domestic rates)」が適用された(なお、住宅レートは1990年の「人頭税(poll tax)」、1992年の「カウンシル・タックス(council tax)」導入により廃止され、非住宅レートは現在も「事業税(business rates)」として存続している)。

産業革命の進展に伴い、イギリスの地方政府の職務範囲は拡大した。1848年および1875年の法改正により、地方公共衛生対策が認められ、後には義務化された。1870年には5歳から12歳の子供に対する初等教育の義務化も決定された。その結果、地方政府の支出は1870年の全政府支出の3分の1以下から、1905年には半分以上にまで増加した。

しかし、職務範囲の拡大にもかかわらず、中央政府からの財政支援はほとんど増えなかった。中央政府の主な財源は所得税であり、これによって国債の利払い、軍事費、1万4000人の官僚の給与を賄っていた。また、地方政府の支出の約4分の1は政府補助金でまかなわれたが、それ以外の費用はすべて地方税で調達する必要があった。

1900年には、地方政府活動(貧困救済、警察、教育、公衆衛生)の財源の4分の3が賃貸収入への課税によって賄われていた。当時、都市部の家賃総額はGDPの約10%を占めていたため、経済の1割がほぼすべての地方財政を支えていたことになる。その結果、固定資産およびその居住者・借主が大きな税負担を負うこととなり、国全体の税収の約3分の1を担っていた(現代の割合は約1割)(当時のGDPのおよそ4%は、地方自治体の予算を通じて支出されていた)。

もし地方政府の責務が固定資産の価値を向上させる投資に限定されていたならば、財源を固定資産税に頼るのは理にかなっていたかもしれない。実際、民間の土地所有者が、賃貸収入を活用してインフラ整備や公衆衛生の向上、私設警備を実施する例もあった。ロンドン中心部のメイフェアやフィッツロヴィアなどの地域はこの方式で発展し、徐々に都市化が進んだ。今日でも多くの都市が地方の固定資産税を教育、公衆衛生、インフラ整備の財源としている。例えば、米国の各州では、固定資産税の平均収入が1人当たり2000ドルに達しており、これは地方所得税収と同程度である

しかし、20世紀イギリスの地方政府は福祉制度の運営も担うことになり、固定資産税収のみに依存するのは困難となった。富裕な地域では、少数の貧困層を支えるための税収を容易に確保できたが、都市部の貧困地域では負担が増大し、財政的に逼迫する状況が続いた。

都市部では、労働者階級世帯の家計支出の3分の1が家賃に充てられており、そのうち約7%がレートとして支払われていた。一方で、年間所得1000ポンド以上の上流階級の住宅所有者は、住宅ローンやレートを含めても所得の7%程度の負担で済んでいた。つまり、低所得者層ほど固定資産税負担の割合が高かった。

1890年代から1900年代初頭にかけて、この状況はさらに悪化した。電化された鉄道や路面電車の導入によりロンドン郊外の宅地開発が進み、住宅供給が大幅に増加したことで、裕福な労働者階級の家庭は郊外へ移り、貧困層の割合が都市部で上昇した。その結果、救済費用の負担が都市部の地方政府に偏重し、1891年から1901年にかけてロンドン中心部のすべての地区でレートが30〜50%上昇した。例えば、ステップニーやカンバーウェルでは、レートが1ポンド当たり6シリングから9シリングに上昇した(Avner Offer, Property and Politics 1870–1914 (Cambridge University Press, 2010), 291.)。この負担増は、1905年に始まる深刻な経済不況と都市部での失業率の急上昇によってさらに深刻化し、地方政府と納税者に大きな圧力をかけることとなった。

地方政府の財政問題

1880年代以降、自由党の急進派はますますジョージ主義に傾倒していった。自由党の支持基盤は非国教徒のキリスト教徒や企業経営者で構成されており、ジョージのメッセージ——すなわち、地代には反対するが利益には反対しない立場を示す明確なキリスト教的表現——は非常に説得力を持っていた。

自由党のジョージ主義者は、地方政府の財政問題と都市の劣悪な環境の根本的な原因は、課税対象が地価(land value)ではなく固定資産価値(property value)である点にあると主張した。そしてこれは部分的には、シンプルな経済的論理に基づく主張でもあった。固定資産への課税は土地の改良、すなわち建物の新築や老朽化した住宅の修繕に対する課税となり、開発のインセンティブを損なう。一方、土地そのものへの課税であれば、改良を妨げることはない。資金難に直面していたロンドンやグラスゴーの進歩派議員は、財源を確保するために固定資産課税に加えて土地課税の導入を支持した。

注釈:カウンティー・ロンドンは1899年から1965年までイギリスの郡であり、1965年にグレーター・ロンドン行政区に移管した。

出典:Rcsprinter123 (Wikimedia)

作成:Marit Gijsberts

しかし、ジョージ主義者が土地課税を支持した理由は、土地開発の阻害要因を減らし、都市評議会に財源を提供するといった限定的な目的にとどまらなかった。ジョージは、支持者に「ユートピア」を約束していたのである。ジョージは、すべての生産活動には土地が必要であり、競争の結果として労働と資本の収益は最低限の水準まで低下し、経済的な余剰はすべて地代として蓄積されると論じた。したがって、地代のみに課税することで、政府のすべての支出を賄うことができると結論付けた。

ジョージは、土地課税によってこの社会的余剰の全てを政府が吸収することで、政府財源の確保のみならず、貧困の根絶を実現し、すべての人々が本来持つ欲求を完全に満たせる調和の取れた社会を創造できると主張した。

前述のとおり、ジョージに傾倒した自由党員たちは何十年にもわたり党内でこの税制の導入を訴え続け、ついにその努力が実を結んだ。1906年の総選挙までに、イングランドの自由党候補者の68%が土地改革を支持し、52%の候補者が選挙公約の中で土地税について言及していた(Avner Offer, Property and Politics 1870–1914 (Cambridge University Press, 2010), 317.)。このようにして、地主層の離反、地方政府の財政危機、そしてジョージ主義の浸透が相まって、土地課税は自由党の政策の中心へと押し上げられたのである。

保守党、「レート納税者反乱」の波に乗る

1903年、アーサー・バルフォア率いる保守党政権は、ボーア戦争への対応をめぐり崩壊した。特に、戦争中の強制収容所の使用に対する国民の嫌悪感や、植民地大臣ジョセフ・チェンバレンの辞任による関税改革運動の開始が影響した。チェンバレンは、イギリス帝国外からの輸入品に関税を課し、外国からの競争から産業を守るようバルフォアに求めた。しかし、バルフォアがこれを拒否したことで党内に亀裂が生じ、保守党は致命的に弱体化した。

出典:MrPenguin21 (Wikimedia)

作成:Marit Gijsberts

結果、土地課税の支持で統一された自由党が1906年の総選挙に勝利した。保守党は(2024年までの歴史上で)最悪の選挙結果を記録し、保守党所属の国会議員の数は156議席にまで減少した。他方で、自由党は下院では大多数の議席を獲得した。

それでも、土地課税に反対する勢力は依然として強かった。貴族院の大地主たちは世論の共感を得るのが難しかったが、全国に約100万人いた中小規模の地主、特に小売業者や労働者向け住宅の家主たちは、土地課税の影響を強く懸念していた。ロンドン以外のほとんどの家主や小売業者は土地の自由保有権を持っており、たとえ100年の長期リース契約を結んでいたとしても、多くは地代を支払うだけでなく税負担も担っていた。したがって、彼らは土地課税の大部分を最終的に負担することになると考えていた。

地主にとって、利益を生む投資による「余剰」地代を課税対象とすることは、損失を補填するのと同じくらい理不尽なものであった。彼らの視点では、どのような「地代(land rent)」も、不確実で重税を課される都市不動産市場においてリスクを取り、個人資産を投資したことへの正当な報酬だった。すでに固定資産税(レート)は高すぎると考えられており、それに加えて土地課税が導入されることは到底容認できないほどに負担だった。

この反対勢力は、保守党にとって強力な支持基盤となった。1906年の大敗後、残された保守党議員たちは、輸入品への新たな関税導入と、全国的な福祉制度の拡充を政策の中心に据えるようバルフォアに圧力をかけた。関税は、レートの負担を軽減するための財源手段として、多くの納税者から支持を集めた。

地方の保守党は、この「レート納税者の反乱(ratepayers revolts)」を利用し、自由党や新興の労働党を含む進歩派の勢力が支配していた地方政治の主導権を奪い取った。1906年のロンドン特別区議会選挙と1907年のロンドン郡議会選挙では、保守党と密接な関係を持つ市政改革党が多数派を獲得した。さらに、1908年1月から9月の間に実施された8つの補欠選挙で保守党は連続勝利を収めた。

これにより、新たに誕生した自由党政権は深刻な危機に直面した。首相ヘンリー・キャンベル・バナマンは健康上の理由で辞任し、後任のハーバート・アスキスは、保守党の勢力拡大に対抗するために大規模な福祉改革が必要であると判断した。

自由党、増税と財政出動路線へ転換

自由党は伝統的に低税率と小さな中央政府を支持する政党だった。軍事や帝国運営を除けば、公的サービスは地方の土地収益に依存すべきだと考えられていた。従来の論理では、中央政府からの資金提供は「地主と聖職者への施し」に過ぎず、保守党を支持する地主の税負担を軽減する一方で、地方政府の浪費を助長すると見なされていた。

しかし、保守党の新たな挑戦を受けて、自由党はこの立場を変えざるを得なかった。1908年、政府は国が資金を負担する老齢年金を導入し、失業保険と健康保険の導入準備を進めた。しかし、これらの新しい福祉制度をどのように財源確保するかは未解決だった。さらに、ドイツとの海軍軍拡競争のための資金も必要だった。

財務大臣のデビッド・ロイド・ジョージは、保守党の支持基盤にできるだけ多くの税負担を課す機会と捉えた。1909年の予算案では、2つの大きな税制改革を打ち出した。1つ目は高所得者の所得税引き上げ、2つ目は新たな3つの土地税(land taxes)の導入だった。これらは、18世紀以来初の新たな土地税であり、「未開発の建設用地に対する年間2.5%の税」、「鉱業使用料に対する年間5%の上乗せ課税」、「土地売却益に対する20%の譲渡益課税(インクリメント・デューティー)」を含んでいた。そしてこれらの税は、小売店主や労働者向け住宅の地主には影響を及ぼさないよう設計されていた。自宅所有者も、新たな譲渡益課税の対象外とされた。

しかし、問題が1つあった。自由党は1886年に大地主の支持を失い(彼らは自由統一党として離脱した)、その結果、貴族院における自由党の割合は41%から7%にまで低下していた。貴族院には依然として法案を拒否する権限があったが、17世紀以来の慣例として、財政法案への拒否権行使は避けるべきとされていた。

しかし、貴族院はこの長年の慣例を破ることを決断し、前例のない形で1909年予算案を拒否した。自由党が再び多数を獲得するまで予算案を承認しないと宣言したのだった。

この決定は、自由党にとって最良の形での憲政危機を引き起こした。自由党は新たな選挙を実施し、予算案を通すための国民の信任を求めた。この選挙は「貴族対人民の戦い(Peers versus the People)」と位置づけられ、非選挙制の貴族院が自由党の「人民予算(People’s Budget)」に代わり、生活必需品にも課税する保守党の関税政策を押し付けようとしていると訴えた。

このように保守党の貴族たちが200年以上にわたり憲法を実質的に侵害していたにもかかわらず、自由党が有利かと思われた1910年2月の総選挙は接戦となった。ドイツやアメリカとの競争に脅かされていた地域では、保守党の関税政策が人気を集め、地主層や農業関係者が結束して保守党を支持した。結果として、自由党は保守党より2議席多く獲得したものの、得票率では保守党が3%上回り、自由党の支持率は5.4ポイント下落した。最終的に、自由党は労働党とアイルランド国民党の支持を受けて辛うじて政権を維持した。

土地課税導入の阻害要因

選挙で勝利を収めた後、自由党は財政法案を可決し、新たな土地課税を制定した。その後、貴族院の拒否権を剥奪するために再度選挙を実施し、僅差で勝利を収めたことで、1911年に議会法を成立させることが可能となった。

従来の固定資産税は単純で、実際の賃貸収入に基づくか、または地方自治体が類似の固定資産と比較して評価した額に基づいて課税されていた。しかし、この新しい「土地税」の計算は極めて困難であった。理論上、持ち家の所有者(owner-occupiers)など、多くの不動産所有者は課税対象外であったため、問題は軽減されるはずだった。しかし、政府は将来的な法改正を容易にするため、全不動産の評価を実施する決定を下した。

鉱業使用料に対する税は比較的単純で、土地所有者が鉱山会社から受け取る収益に対する追加課税であった。しかし、その他の二つの税は複雑な計算を伴った。農地・工業地・住宅地すべてに適用される未実現の不動産価値上昇に対する20%の課税を実施するには、政府が基準価格を確定し、増加分を算定する必要があった。さらに、2.5%の年間課税が課される未開発の建設用地に関しても同様の手続きが求められた。

全国には約1,000万件の不動産があり、その大半は土地と建物が一体として取引されていたため、独立した土地の市場評価を参照することができなかった。さらに、ジョージズムの理論に従い、所有者が土地に施した改良については控除が認められるべきであった。しかし、これにより建物や構造物の価値、配管、鉄道アクセス、その他インフラの寄与価値など、過去に測定・記録されてこなかった複数の仮定を計算しなければならなくなった。

この作業は政府の能力を超えていた。1910年8月、自由党政権は悪名高い「フォーム4」と呼ばれる1,050万通の書類を全国の所有者に送付し、彼らに所得情報、物件の使用状況、所有形態の詳細を提出するよう求めた。さらに、土地の適正価格を所有者自身が見積もることも義務付けた(これはE.グレン・ワイルが『Radical Markets』で提案した全不動産に対する自己評価型ハーバーガー税と類似する部分がある)。これを返送しなかった場合には、50ポンド(現在の価値で約7,500ポンド)の罰金が科された。

1910年8月に『Punch』に掲載された「フォーム4」の風刺画

出典:Internet Archive

土地所有者は「土地連盟」と呼ばれる組織を結成し、法的手続きを駆使した消耗戦を展開した。法律のあらゆる曖昧な点を司法審査にかける戦術が取られ、複雑かつ拙速に制定された法律を裁判所で試す戦略を推進した。この運動は成功を収め、最終的に1914年2月のスクラットン判決により、農地に関するすべての評価が無効とされた。これにより、未開発地への2.5%の課税と、農地に適用される地価上昇税の徴収が事実上不可能となった。

ジョージ主義の一般的な見解では、不動産投機家が都市部の土地を抱え込み、土地税を導入すればそれを活用せざるを得なくなると考えられていた。しかし、実際には全く逆の現象が起こった。新たな土地課税の導入は建築業者の利益を圧迫し、多くの事業者が生産を縮小せざるを得なくなった。さらに、土地の評価額が下落したことで、建築業者が担保にしていた土地の価値は下がり、倒産の危機に瀕する者が続出した。その結果、建築件数は上昇するどころか激減し、1909年には10万件であった建築数が、1912年には6.1万件にまで落ち込んだ。

土地税には実施コストに見合った税収能力がない

土地税は地方政府の財源問題を解決することができなかった。自由党のジョージズ派は、これらの税収(地方政府ではなく中央政府に納められるもの)を都市への補助金として分配することを提案していた。しかし、1914年までに、評価制度の失敗により200万ポンドのコストが発生したのに対し、税収はわずか50万ポンドにとどまった。政府は都市経済を損ねながらも損失を出し、資金不足に苦しむ地方政府への支援は不可能だった。地方自治体への補助金は1908年から1913年にかけてわずか2%しか増加しなかったが、支出は18%増加していた。

1913年までに、イギリス全土の地方政府は危機に瀕していた。地方政府協議会からは、教育制度が崩壊寸前であるとの警告が出され、協議会は財務大臣を「イングランドの地方政府全体を危機に陥れた」と非難した。

1914年2月、ついにロイド・ジョージは地方税制改革を公約し、固定資産税を地価のみに基づく税へと移行させ、地方政府が徴収する仕組みを導入することを発表した。これは自由党のジョージ主義者が長年目指していた〔土地課税〕政策の実現を意味していた。税の全負担は、労働者や資本ではなく土地所有者にかかるとされていた。しかし、これまでの経験から、この前提には疑問があった。だが、理論的な正しさは問題ではなかった。この改革の実施には時間がかかりすぎた。評価当局は、評価作業の完了には早くても1917年までかかると予測していた。

結局、第一次世界大戦の勃発がイギリスの土地課税構想にとどめを刺した。1916年、アスキスが首相を退任し、ダヴィッド・ロイド・ジョージが後任となった。自由党は分裂し、ロイド・ジョージは保守党および彼を支持する自由党議員との連立政権を1922年まで率いることになった。保守党は依然として土地課税に反対しており、ロイド・ジョージ自身も戦前の大失敗を考慮し、この税制を擁護するつもりはなかった。戦争中に凍結された評価作業は1920年に正式に中止され、残存していた土地課税は1922年にロイド・ジョージ自身の手によって廃止された。

この歴史からの教訓とは

〔イギリスでの〕土地課税の失敗から学べることは、地方政府がインフラや衛生管理といった公共財への投資を行うためには、それを賄う財源の基盤と、それを実行するためのインセンティブが必要だということだ。第一次世界大戦前、イギリスの地方政府は成長連合の重要な一翼を担っていた。1890年代から1900年代にかけて、イギリスの市議会は民間企業から資金を借り、路面電車、電力、ガス網を整備し、その結果生じた経済成長による新たな税収を活用して借金を返済していた。1910年までに、ロンドン郡議会だけで120マイルの電気式路面電車を建設していた。

出典:Foster, Jackman and Perlman (1980)  Get the data

しかし、イギリスの地方政府に課せられた要求と、それを賄うための狭い税収基盤との間には根本的な矛盾があった。20世紀初頭を通じて社会サービスへの需要は増加し続け、二度の世界大戦は福祉国家の拡大と並行して進行した。政治的に力を持ち始めた労働組合の増加や、1918年の男性普通選挙権、1928年の女性普通選挙権の実現も、この傾向をさらに強めた。

こうした変化により、イギリス国民は貧困や「郵便番号による地域格差」に甘んじることをもはや容認しなくなった。1929年から、イギリスは「ブロック・グラント」と呼ばれる制度を導入し、国家の納税者から財源が不足する自治体へ資金を再分配する仕組みを整えた。1948年までに、地方政府の財源の約30%がこの補助金に依存するようになり、今日ではその割合は約3分の2にまで増加している。

その結果、地方政府が追加の税収を確保すると、その分だけ中央政府からの補助金が減少するという構造が生じた。これにより、地方政府は新たな納税者からの収入だけでは住宅建設のコストを賄えなくなった。そのため、雇用機会が多く需要の高い地域の地方政府は、経済的に有益であるにもかかわらず、新規開発を制限するインセンティブを持つようになった。一方で、短期的な政治的圧力に左右される国家政府は、長期的な地方インフラ投資に十分な資金を割り当てていない。その結果、イギリスは大規模な都市インフラ(路面電車など)や道路の修繕、ごみ収集といった地方公共財の提供において、著しく劣る状況にある

もう一つの教訓は、純粋な土地課税は幻想に過ぎないということだ。日本やアメリカのように土地から多額の税収を得ている国々は、イギリスがデビッド・ロイド・ジョージ以前に行っていたように、固定資産全体に課税している。未改良の土地の価値に対してのみ課税する純粋な土地課税が成功した事例は、世界のどこにも存在しない。オーストラリアやニュージーランドで導入された土地課税は廃止された。デンマークの土地課税は税制の中でごくわずかな要素であり、総税収の2%未満に過ぎない。台湾の土地課税は、国内の主要な土地利用である自宅用不動産や農地を完全に免税対象としている。

1906年から1914年の間に、自由党はイギリス史上最も重要な好機を無駄にし、固定資産税と地方政府の財政基盤を長期的に安定させることに失敗した。その結果、地方政府は広範な責務を担うことになったが、それを支える手段は補助金に頼るしかなくなった。そして、その補助金の財源は、固定資産税ではなく、所得税や消費税にますます依存するようになった。この流れの中で、最も恩恵を受けたのは、あろうことか土地所有者であった。

著者紹介:サミュエル・ワトリングは政治経済学者で形式理論家。現在はトリニティ・カレッジ・ダブリンにてプレドクトラルの研究助手として勤務している。Twitterアカウントはこちら

[Samuel Watling, The failure of the land value tax, Works in Progress, 2025/3/13.]
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