「開発経済学」なる分野が存在することに、これまでは疑問を抱いていなかった。豊かな国もあれば貧しい国もあるのは今もなお変わらないのは言うまでもない。しかしながら、貧しい国向けに特別に誂(あつら)えられた経済学の一分野としての「開発経済学」に今もなお依然として存在理由があるかというと、ないんじゃないかと思う。かつてはそれなりに存在理由があったかもしれない。20世紀を振り返ると、1人当たり所得で測った国家間の格差が大幅に拡大し――分岐が発生――、貧しい国が先進諸国のように発展軌道に乗れないでいるのはなぜなのかというのは差し迫った問いだった。しかしながら、1990年~2000年あたりから、1人当たり所得で測った国家間の格差が縮小する方向に転じた――収束が発生――〔拙訳はこちら〕。すなわち、多くの国々がぞろぞろと発展軌道に乗るようになってきているのだ。貧しい国も豊かな国もお互いに似通ってきているのだ。・・・いい意味でも悪い意味でも。
つい先日、ツイッターでとある記事をシェアした。その記事の見出しは以下の通り。
「動画に収められているのは、ニューヨーク市にある地下鉄の駅の構内が水浸しになっている場面であって、パキスタンにあるバスターミナルが水浸しになっている場面ではない。」
ニューヨーク市の(地下鉄の駅という)インフラについてのニュース(報道)っていうのは間違いなさそうだが、まるで人間が犬を噛んだかのような物珍しさも伴っているらしい雰囲気も感じ取れる。一体全体何がどうなっているかというと、ニューヨーク市にある地下鉄の駅の構内が水浸しになった様子を収めた動画がパキスタン人の間でSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を通じて――その動画がパキスタンにあるバスターミナルが水浸しになった様子を収めたものであるかのように誤解されて――拡散されていて、「我が国(パキスタン)のインフラのなんとお粗末なことか!」と嘆かれているというのだ。
私も同じ線に沿った体験をしたばかりだったりする。私は今、インドのデリーにいる。サプライチェーンに予期せぬ混乱が起きた煽(あお)りを受けて、こっち(デリー)にやって来るまでの3週間ばかりの長きにわたって、アメリカにある自宅ではお湯もインターネットも使えない暮らしを余儀なくされていた。それがデリーにやって来たらどうだろう。蛇口を捻(ひね)ればお湯が出るし、インターネットも安心して使えるのだ! それだけじゃない。インドではストローが紙製で実に嘆かわしいばかりではあるが、一流どころのホテルでは流量リミッターなんていう嘆かわしい代物がシャワーに取り付けられていないおかげで、シャワーヘッドから神の意図した通りに水が勢いよく出てくる。文明が(アメリカから見て)東方へと回帰しつつあるのだ。
個別の事例を離れて一般的な観点に立って昨今の情勢を見渡すと、貧しい国も豊かな国も同じような問題の数々に直面しているようだ。インフラの整備だったり、技術変化が未熟練労働者の境遇(きょうぐう)に及ぼす影響だったり、気候変動への適応だったり、その他のあれやこれやだったり。現金給付の効果だとか大気汚染だとか汚職だとかをテーマにした最新の論文に巡り合ったとして、その論文で対象になっているのが貧しい国なのか豊かな国なのかを中身を読まずに言い当てるのは難しくなっている。貧しい国が依然として独自の問題を抱えているのは言うまでもないが、そういう独自の問題を分析するのであれば、その国を含めた「貧しい国々」(「開発途上国」)が抱える問題としてではなく、その当の国が抱える問題として切り込むのが最善の手だろう。インドは、タイとかペルーとかと同じじゃないのだ。「開発経済学」という名称を掲げてこれまでのように貧しい国々を一括(いっかつ)して扱い続けるべき理由なんて大してないように思えるのだ。
〔原文:“There is No Such Thing as Development Economics”(Marginal Revolution, August 4, 2022)〕