Chartbook #151: Zugzwang – are we on the brink of a central banking paradigm shift?
Posted by Adam Tooze on Sep 17, 2022
世界中の中央銀行がプレッシャーにさらされている。物価の高騰はインフレへの恐怖を煽る。自らを物価安定の守護者と位置付ける中央銀行は、インフレへの対応を迫られている。金利は中央銀行が好んで用いる政策手段だ。金利が上がれば、経済の過熱は弱まるので、インフレ率は低下するはずである。しかし、その代償として借り手には痛みが伴い、不況と失業率上昇のリスクが生じる。
中央銀行が利上げを選択しやすいのは、多くの部門で価格が上昇している場合、つまり経済が一般的なインフレに陥っている場合だ。これには、物価と一緒に賃金も上昇することが含まれる。賃金と物価の相関は、異常でもなければ、危険な「セカンド・ラウンド・エフェクト(二次的効果)」 [1]「足元のインフレが人々の持つ定常インフレ率の期待値を上昇させ ることにより足元のインフレがさらに上昇する効果」を指す。参考:p.145 でもなく、むしろ一般的なインフレの定義だ。賃金は労働の価格である。もし賃金が他の価格とともに上昇しないなら、それは一般的なインフレではなく、むしろ労働を犠牲にした資本による一方的な再分配の圧力である。真に一般的なインフレは通常、失業率が低く比較的好調な経済と密接に関係している。
この点で、大西洋の両岸(米国と欧州)の状況には大きな違いがある。
米国では、FRB(米連邦準備制度理事会)は、ペースは緩やかであるが、広範に及ぶ一般的なインフレに直面している。価格上昇は(通常)均一ではなく、また均一であったことは一度もなかったが、現在ではエネルギーや食品などのボトルネック部門から、家賃や住宅価格にまで価格上昇が及んでいる。賃金も物価とほぼ同じように上昇している。
この広範な価格上昇圧力に対応するためには、FRBの利上げが従来の答えであった。(米国の雇用擁護団体の)エンプロイ・アメリカ(Employ America) のスカンダ・アマーナス(執行ディレクター)による下記の図は、利上げの主要な伝達経路をわかりやすく表している。
主に労働市場と失業による伝達経路は鈍感である。そのため、より効率的で労働市場への影響が少ない代替政策について考えざるを得ない。しかし、現在の米国のインフレ圧力の性質を考えると、FRBの利上げはうまくいく可能性が高い。問題は、利上げをどの程度急激でかつ持続させるか、そしてその結果生じる景気減速に対して企業や従業員がどの程度の代償を払うかである。FRBはいまだにソフトランディングを望んでいる。
一点、FRBが少なくとも短期的には懸念していないのが金融安定性だ。株式市場は金利の上昇を好まないし、危機感を感じている債務者もいる。国債市場の構造には未解決の問題がある。FRBが資産買い入れを終了したため、国債市場の流動性は枯渇している。しかし、2008年に起こったようなシステミックな金融危機を恐れる理由はほとんどない。
他方、欧州の状況はかなり異なっている。価格上昇の範囲は米国に比べてはるかに小さい。欧州で起きていることは、一般的なインフレというより、エネルギーと食料の価格ショックというのが適切な表現だろう。
エネルギー価格ショックは十分に深刻で、ガスや電気の価格によって家計支出や企業予算のバランスが崩れ、社会的・政治的な危機を招く恐れがある。しかし、これが「インフレ」の問題であり、したがって中央銀行の金利政策の適切な領域であると主張するのは、控えめに言っても論点がずれている。コロナ禍での不平等な回復、プーチンのウクライナ戦争、世界のガス市場の統合の欠如によって引き起こされたガス価格の高騰を遅らせるために、金利の引き上げが何の役に立つのだろうか。
ECB(欧州中央銀行)の困難は、欧州経済が米国経済に比べてはるかに脆弱であるという事実によってさらに増している。多くの指標は、実質賃金の低下とエネルギー・ショックが信用崩壊につながり、欧州がすでに不況に傾いていることを示唆している。さらに悪いことに、ECBによる金利引き上げは、欧州の国債市場の悪魔を解き放つ危険性がある。そして、エネルギー危機によって発生した財政需要を考えると、この利上げによる圧力はより一層憂慮すべきものとなっている。
エネルギー危機に対応するため、欧州の各国政府はGDPの数パーセントに相当する価格安定化策や補助金政策を実施している。
各国はそのコストの多くを超過利潤税やその他の課税で取り戻したいと考えているが、政府支出の急増は予算を圧迫し、国債市場を神経質にさせるだろう。イタリアの債務水準は、プーチンが戦争を始める前にすでに懸念されていた。ECBが金利を上げ始めても問題の解決にはならない。他方で、ECBが何もしなければ、インフレ対策へのコミットメントを疑問視する保守派からの厳しい攻撃にさらされることになる。夏にはECBがいわゆる伝達保護措置(Transmission Protection Instrument:TPI)を導入し、イタリア国債の不当な売りから国債市場を保護するとされているため、ECBの行動に対する保守派の要求はより一層激しくなるだろう。
では、ECBはどうすればいいのだろうか。行動を起こせば呪われるし、起こさなくても呪われる。ダニエラ・ガボールはフィナンシャル・タイムズで、この居心地の悪い状況を説明するのに、「ツークツワンク・セントラル・バンキング(Zugzwang central banking)」という造語を使って、実に素晴らしい記事を書いている。
ツークツワンクとは、チェスにおいて、手を打つほど却って自らの手を狭めてしまう異常な状況のことをいう。通常は、自分の手番が回ってくれば主導権を握れるので有利となるが、特にゲームの終盤になると、可能な手を打つたびに自分の立場が悪くなる状況に陥り、(自分の番で)必ず手を打つというルールが呪いになってしまうことがある。その結果、勝負に負けることもある。ガボールは、それが今のECBの状況であると指摘する。
ガボールが示すとおり、ECBには4つの可能な手がある。そのうちの3つは、従来の中央銀行の政策である、利上げ、量的引き締め(QT)、金利維持である。4つ目は、「レジーム(体制)の敗北」を認めることだと、ガボールは嫌味を込めて付け加えている。
彼女の読みでは、2022年のECBは政策のジレンマに直面しているだけでなく、1990年代以降の中央銀行のモデルを疑わせるような袋小路に陥っているのである。
過去数十年の金融資本主義のスーパーサイクル(supercycle) [2] … Continue reading の下では、インフレ目標を掲げる中央銀行は、国家における(金融)資本の出先機関、つまりシャドーバンキングのセーフティネットを構築する傍ら、労働者の団体交渉力を破壊する分配的体制の守護者であった。価格決定力と利益を(少数の)企業の手に集中させるこの制度設計の限界は今や明白である。…..もしツークツワンクが中央銀行のパラダイムの末期状態であり、その階級政治の矛盾の下で崩壊するときだとしたらどうだろうか。
ガボールの理路に沿って、この印象的な結論に至る経緯を見てみよう。
ECBの従来の3つの伝統的政策オプションのうち、いずれも魅力的とは思えない。
9月8日、ECBはFRBに続いて0.75%の利上げを行った。これは象徴的なジェスチャーと表現するのが親切だろう。金利引き上げは、表向きはその正当化になる物価上昇を止めるものではない。正直者よろしく、ECBは利上げによる価格上昇の抑止を示唆するモデルを持ちあわせていないことをあっさり認めるだろう。ECBは利上げがエネルギー価格の上昇を抑制するとは本気で考えていないのである。従って、この動きは政治的なものと解釈するのが妥当であろう。要はECBの行動を求める保守派への譲歩である。もっとも、どの程度行動を起こすのかはまだわからない。もしこの最初の引き上げが、欧州の金融保守派による本格的な反撃の前触れであれば、深刻な不況に備えることになる。物価上昇を抑える効果はあるかもしれないが、エネルギー価格ショックを考えると、経済的な代償は大きいだろう。
ECBは、利上げ以外に量的引き締め(QT)を行う可能性がある。2015年と2020年〜2022年の量的緩和プログラム(QE)の過程で取得した数兆ユーロに及ぶユーロ圏国債の償還を開始するかもしれない。QTは、非伝統的金融政策のお守りであるQEを反転させるため、タカ派へのアピールとなる。QEを反転させれば獣を退治できる、そういう筋書きである。
だがそれはハイリスクな戦略だ。ガボールが指摘するように、QTは、
すでに金融引き締めが実施されている国債市場に圧力を上乗せすることになる。ユーロ圏諸国が、将来の持続的な供給ショックの可能性を抑えるために積極的な財政・構造政策を必要としているタイミングにあって、イタリアの10年物利回りは現在4%前後で推移しており、ドイツの長期国債利回りとの差は2%に達している。
このような圧力は痛みを伴い、政治的な激変をもたらすだろうが、超タカ派にとってはむしろ歓迎すべきことかもしれない。彼らにとっては、欧州政府の財政スペースを圧迫することこそ、ECBが行うべきことなのだ。ジャン=クロード・トリシェがECBのトップ(総裁)だった2010年と2011年のユーロ圏危機の際に行ったいたちごっこ(cat and mouse game)への回帰を、超タカ派は歓迎する。トリシェ総裁(当時)は、各国政府が「改革」を十分に行ったと判断した場合にのみ、その国の国債を買い上げることにしていた。タカ派にとって、これは中央銀行として賢明な措置であり、欧州の各国政府に行動の責任を押し付けるものである。
この戦略は、欧州の民主主義への萎縮的な影響だけでなく、神経質な国債市場から生じる広範な金融システムへのリスクも無視するものである。ダニエラ・ガボールが誰よりも詳しく示しているように、欧州の国債は単に政府の資金調達の手段ではない。国債はレポ取引の担保であり、したがって民間の信用供与の担保でもある。ガボールはフィナンシャル・タイムズでこう述べている。
欧州諸国を民間金融の担保工場にする際、創設者たちはECBにとっての金融安定性への影響を考慮しなかった。
…ユーロ圏のマクロ金融構造は、9兆ユーロのレポ市場を通じて、ドイツ長期国債と他の国債の利回り格差(スプレッド)の変動を増幅させるよう配線されている。この金融卸売市場は、銀行のバランスシートと国債市場の両方において、民間の信用創造のための配管を提供している。この市場は、ECBと欧州委員会によって、主にユーロ圏の国債をレポの担保とするように設計されている。しかし、レポ担保の評価は、ドイツを除くユーロ圏の国債の循環的な市場流動性を意味し、ECBだけが防ぐことのできる流動性スパイラルを脅かすことがユーロ圏の国債危機によって明らかになっている。流動性スパイラルは、ユーロ圏の政府だけでなく、その国債を担保にする民間金融機関にも悪影響を及ぼすことを忘れてはならない。
皮肉なことに、超タカ派は、量的引き締めによって過去の非伝統的政策から逃れられると考えている。しかし、実際には、トリシェ総裁の無謀な駆け引きによって欧州国債市場の破滅のループが始まり、2012年には(後任の)マリオ・ドラギ総裁(当時)が演説で「あらゆる措置を取る」と言わざるを得なかった。10年後、そのロジックは、イタリアの国債スプレッドの抑制を目的とするECBの伝達保護措置(TPI)へとつながっていく。ECBは、レポ市場の深刻な混乱を招くことなく、こうした金融のもつれを解消し、突然の量的引き締めに踏み切ることはできない。
抜本的な構造改革を行わない限り、我々は1990年代に下された決定の囚人となる。新自由主義の最盛期、欧州の金融政策担当者は、市場原理に基づく中央銀行モデルを構築した。民間の短期信用市場、とりわけレポ市場をECBのオペレーションに統合したのである。これにより、金融市場や金融機関の安定性が国債と密接に結びついた。後者を不安定にすれば、前者も危うくなる。QEやTPIのような必要措置は、保守派を失望させるかもしれないが、保守派自身のためにも、彼らに金融政策を任せることはできない。彼らは自分たちが何をしているのかを分かっていないのだ。
ガボールは、ECBが何もしないことがテクノクラート的な正しい選択であることを示唆している。この一年、ECBはまさにそれを選択したと評価されるべきだろう。ECBは、「コントロールできない供給ショックが解消され、インフレが再びモデルの予測通りに推移することを期待して」じっと堪えたのである。
しかし、その賢明な不作為の方針は、状況の犠牲となってしまった。
プーチンのウクライナ侵攻と、エネルギー価格の上限設定に消極的な欧州諸国の政府によって、ECBは格好のスケープゴートとなった。スケープゴート化によって、ハト派的な中央銀行がタカ派的になることはよくあることで、特に他の国々の中央銀行がドル覇権に従順な臣下として振る舞った場合に見られる現象だ。実際、金融史の研究者は、その束の間に欧州の政治家がユーロが米ドルを駆逐する可能性があると信じていたことに驚嘆するだろう。…このような幻想が過ぎ去り、ユーロが平価を下回ると、ECBはドルのグローバルな金融循環に巻き込まれた中央銀行の一つに過ぎなくなり、他の中央銀行の金利と安易に比較される餌食となる。
ECBの決定においてFRBがどこまで重要なファクターであったかは、いずれ歴史が明らかにすることだろう。個人的には、それは9月のECBの決定の解釈として特に説得力のあるものとは思えない。しかし、このガボールの一節には、先週欧州で盛んに議論されたもう一つのアイデアの萌芽があるように思う。
ECBがやっているのは、欧州各国政府が緊縮財政を行うまで国債市場からの支援を差し控えるというトリシェ式のチキンレースではないのかもしれない。おそらく、2022年にECBが行っているゲームは、エネルギー市場に関するものだろう。欧州の「インフレ」問題の核心がガスと電力の市場にあることは、中央銀行だけでなく、他の誰にとっても明らかである。これらの市場のインフラと規制は機能不全に陥っており、そうした問題を解決することが物価安定への道である。これはECBではなく各国政府の仕事だが、ECBとしては自分たちは手を打っていると見せかける必要がある。そこでECBは、政府がエネルギー市場の改革に納得して取り組むまで、目下の問題とはほとんど無関係と知りながら、痛みを伴う利上げを行うだろう。これも仮説ではあるが、ECBがドルとの均衡を特に気にしていると考えるよりは理にかなっている。
今回のECBの金利決定がどのようなものであったにせよ、ECBの指導部が放棄したのは、2020年のマクロ経済ショックに対して採用した協調的金融・財政政策である。当時、ガボールは「私たちは革命家なき経済政策の革命に立ち会っている」という考えを提唱していた。これに対して私は、拙著『Shutdown』 [3]邦題『世界はコロナとどう闘ったのか?: パンデミック経済危機』、東洋経済新報社、2022年。 で、私たちが立ち会っているのは、革命家なき革命というよりも、「変わらないもののために変わらなければならない」というスローガンのもと、保守的な安定化のためになされた巨大な努力である、と主張した。
2020年、FRBを巨大な国債購入に駆り立てたのは、極めて重要な米国債市場の安定化への懸念であり、その後、議会が打ち出した劇的な財政刺激策と並行するものだった。EUでは、ECBによる大胆な債券購入、各国の財政出動、ブリュッセルが発行する債券を財源とする革新的な「次世代のEU復興計画」という前例のない組み合わせが見られた。これらはすべて、低インフレの兆候の下で行われた。心配されたのは、インフレではなく、デフレに陥るリスクであった。
2021年の夏以降、物価の高騰は政策論の条件をひっくり返した。
米国では、金融政策と財政政策の協調が維持されている。しかし、今は財政政策も金融政策も反インフレの方向に走っている。バイデンの気候変動政策の中核が3兆ドルの「ビルド・バック・ベター(より良い再建)」プログラムから取り除かれ、2022年夏、「インフレ抑制法」として生まれ変わったことは象徴的である。
欧州の政策立案者は、より矛盾した難しい選択に直面している。ジャクソンホールでイザベル・シュナーベルは、ECBが直面しているのは根本的に新しい環境であると発表した。2000年代初頭にベン・バーナンキが歓迎したグレート・モデレーション(大いなる安定)ではなく、新たな 「グレート・ボラティリティ(大いなる不安定)」である。ガボールはその考えを受け継ぎ、進歩的な看板のもと、財政政策と金融政策の新たな統合を求める攻勢に転じる。
2022年の気候変動や地政学における(ショックが)、(ほとんどの中央銀行や識者が近い将来に予想する)シュナーベルの言うグレート・ボラティリティの前兆だとすれば、マクロ金融の安定には、資本を規制する意思と能力がある国を支援できる中央銀行と国庫(財務省)の協調のための新しい枠組みが必要なのだ。
言い換えれば、欧州国債レポ市場の脆弱性に正面から取り組み、その上で、2020年に初めて明らかになった金融政策と財政政策の統合をさらに強化する時期が来たということだ。それが難しい注文であることはガボールも承知している。誰がこのような抜本的な改革に着手するのだろうか。ECBに期待するのは難しいだろう。
そのような(新しい)枠組みは、マクロ金融構造およびマクロ経済モデルにおいて中央銀行が持っていた特権的な地位を脅かすだろう。中央銀行の歴史は、政策パラダイムがマクロ経済の安定に有用な枠組みを提供できなくなると消滅することを教えているが、中央銀行自身の手によって消滅することはない。
ユーロ圏やEUのどの政府も、そのような案を推し進めることはないだろう。
もし、独立した中央銀行の地位に疑問を呈する可能性のある政府があるとすれば、それは英国のリズ・トラス新政権かもしれない。トラスは保守党首選に出馬した際、イングランド銀行の金利決定における独立性に疑問を呈した。その後、トラスはその異端的立場から身を引いているが、彼女が財務相に指名したクワシ・クワルテングは、「金融政策と財政政策の協調」を要求している。もし財政政策と金融政策の両方が拡張的な方向に設定されれば、それは事実上イングランド銀行が物価安定のマンデートを放棄することを意味するだろう。より可能性の高いシナリオは、財政政策がエネルギー危機に対応して支出を拡大する一方で、イングランド銀行が金利を大幅に引き締めるという、正反対の調整とでも言うべきものであろう。これは必ずしも機能不全ではなく、むしろ財政と金融の本質的な分業(役割分担)である。トラス政権に期待できないのは、ガボールの言うような徹底的な「資本の規制」である。
ユーロ圏においても、ガボールが見事に示したように、既存の制度の論理は綻びつつあるが、その結果として生じる緊張が論理的に解決されるのだろうか。
ガボールは上述のとおり断言している。
中央銀行の歴史は、政策パラダイムがマクロ経済の安定に有用な枠組みを提供できなくなると消滅することを教えているが、中央銀行自身の手によって消滅することはない。
この歴史のお告げは、ガボールのヤニス・ダファーモス、ジョー・ミッシェルとの野心的な共同研究「Institutional Supercycles: An Evolutionary Macro-Finance Approach(制度的スーパーサイクル:進化的マクロファイナンス・アプローチ)」を思い起こさせるものである。この研究で彼らは、マクロ金融規制の構造における戦後の2つのスーパーサイクルを明らかにしている。
この歴史的なナラティブ(物語)に基づいて、彼らは次のように論じている。
2013年頃から、…富裕国はスーパーサイクルにおける創世記の段階にある。すなわち、金融グローバル化のスーパーサイクルにおける危機的段階で引き起こされた急激な制度的変化のことである。
しかし、この制度的変化の段階はどこに行き着くのだろうか。新しいパラダイムに行き着くのだろうか。ドル体制とユーロ圏の両方に関する限り、私は懐疑的である。
現在の状況を、中央銀行家の「手による」ものであろうとなかろうと、より首尾一貫した新しい構造が出現するまでの空白期間と考えるのは、おそらく心地よいことだろう。しかし、それは現在の「移行」段階の先に新しい秩序、新しい「王国」があることを意味しており、なぜそんなことを想定しなければならないのか。
チェスのアナロジー(比喩)はECBの行き詰まりを説明するのに説得力があるが、歴史をゲームに見立てるのもミスリーディングとなりかねない。ゲームの外では、決まった一連の動きが存在するわけなく、最終的なチェックメイトという形で結末を迎えることもない。
中央銀行における差し迫ったパラダイムシフトというビジョンは、緊張と機能不全という診断から解決の兆しを見い出すというフィン・フィクションの傾向の一例であると私は懸念している。実際のところ、私たちはパラダイムの「内部崩壊」に直面しているのだろうか。私たちの現実は、それほど輪郭のはっきりしたものなのだろうか。破綻や内部崩壊というよりも、2008年以来、一連のその場しのぎや中途半端な対策に基づく、現在進行形の保守的な延命工作として続いていく可能性が高いのではないだろうか。