ニック・ロウ 「ところで、『政府の予算』と『家計の予算』ってどこがどう違うの?」(2017年10月27日)

「政府の予算」と「家計の予算」ってどこがどう違うんだろう? その違いって重要なんだろうか?
画像の出典:https://www.photo-ac.com/main/detail/25869692

おそらくあなたも目にしたことがあるだろう。 経済学に疎い素人が「政府は、家計と同じように、収入の範囲内で暮らさなくちゃいけない」みたいな発言を口にしているのを。そして、経済学者がその発言主を指さして嘲笑し、「そんなのは誤謬だ」と断罪しているのを。

さて、質問だ。「政府の予算」と「家計の予算」ってどこがどう違うんだろう? その違いって重要なんだろうか? これらの問いに私なりの回答を寄せるのが今回のエントリーの目的だ。「教育的な」側面を持つエントリーといっていい。

「政府の予算」と「家計の予算」を分(わ)かつとされる違いのうちで、質的にも量的にも重要な意味を持つ違いって果たしてあるんだろうか? 私にはその点が明らかじゃないのだ。

1. 政府は、強制力を行使して(あるいは、強制力を行使する可能性をちらつかせて)収入(税収)を増やすことができる。家計は、そうはできない。

この違いは、政治絡みで重要になってくるし、税金が資源の配分に及ぼす影響(資源の効率的な配分を歪める可能性)というミクロ経済学的な側面に照らしても重要だ。でも、「予算」という目下の問題に照らしてもこの違いが重要だと言える理由となると、明らかじゃない。強盗を家業としている犯罪一家も予算という制約の範囲内で暮らさなくちゃいけないんじゃなかろうか? 政府と家計の違いを生んでいるのは、(大抵の)政府は、徴収できる目いっぱいまで(=最大限の)税金を徴収しているわけじゃなく、現実の税収は徴収できる最大限の額を大きく下回っている(のが通常)というところ――短期においては、なおさらそうだ。誰にも咎(とが)められずに、民間から財産を没収する(債務の返済を拒むのも含む。債務の返済を拒むのは、財産を没収しているに等しい)ことだってできるのだから――に由来しているんじゃないかと思う。現実の税収が徴収できる最大限の額を大きく下回っている(=税収を増やす余地がある)からこそ、(大抵の)政府は、「収入(税収)に見合うところまで支出を減らす」か、「支出に見合うところまで収入(税収)を増やす」かのどちらかを(大抵は)選べる。同じ選択肢を手にしている家計(例えば、犯罪一家とか)も中には見つかるだろう。しかし、支出に見合うように収入を増やせる(収入の伸びを支出の伸びに合わせられる)家計というのは稀(まれ)だろう。とは言え、この違いは程度の差でしかない。

2. 政府は、国益に照らして、税金をどれだけ課してどれだけの額を支出するかを決める(というのが通常であり、建前)。家計は、自己利益に照らして、お金を稼いだり使ったりする(というのが通常)。

すなわち、政府は、思いやりのある(=利他的な)犯罪一家みたいというわけだ。ロビン・フッドみたいというわけだ。でも、他の家計と同じように、ロビン・フッドも予算という制約の範囲内で暮らさなくちゃいけないんじゃなかろうか? それは確かだ。とは言え、ロビン・フッドが(思いやりを持って貧民に施すだけでなく)思いやりを持ってお金(税金)を徴収するようなら、剛腕のロビン・フッドが(大抵は)徴収できる目いっぱいまでお金(税金)を集めない(実際の徴収額が徴収できる最大限の額を大きく下回る)理由もたちまち理解できるようになる。1で述べたことを飲み込む助けになってくれる。

3. 政府は、家計と比べると、規模がはるかに大きい(のが通常)。

その通りだが、この違いがどうして重要だと言うんだろうか? その理由は、フィードバック効果にある。あなたが小さな池に住まう大きな魚だとしたら、あなたの予算に生じた変化が池の予算に及ぼす影響に思いを馳せるだろう。あなたの予算が変化すると、池の予算への影響を介して、回りまわってあなたの予算に影響を及ぼすことになるのだから。その一方で、あなたが大きな池に住まう小さな魚だとしたら、あなたの予算の変化が引き起こすフィードバック効果は物凄く小さいだろう。今の話と同じ例の一つが懐かしのケインジアン流の乗数だ。規模の大きな政府が支出額を倍増したら、国民所得(名目GDP)が増える。そのおかげで税収も増えて、支出額の増分のかなりの部分が埋め合わされることになるだろう。その一方で、規模の小さな家計が支出額を倍増しても、収入はちょっとしか増えないだろう。支出額を倍増しても、使ったお金のほとんどは他の家計の懐に入るだろうからだ。ところで、ケインジアン流の乗数って正しい分析なんだろうか? 「時と場合による」っていうのが答えだろう。「完全雇用」が成り立っていて、国民所得の大きさが(需要側ではなく)供給側の要因によって制約されているようなら、ケインジアン流の乗数効果は表れない。中央銀行が総需要をコントロールしていて(中央銀行に「インフレ目標」が課されているようなら、中央銀行は総需要をコントロールしようとする)、何らかの理由で(例えば、家計や政府が支出を増やしたりして)総需要が変化した場合にその変化を完全に相殺するように金融政策が調整されるようであっても、ケインジアン流の乗数効果は表れない。独立した中央銀行に2%(か何%か)のインフレ目標を課すというのは、どんな手に訴えてでもケインジアン流の乗数の大きさをゼロにしろと中央銀行に求めているに等しいのだ。ケインジアン流の乗数の大きさがゼロなら、フィードバック効果は生じないことになるのだ。

4. 政府は、お金を刷ることができる。家計は、そうはできない(のが通常)。

おや、質的な違いが出てきたようだ(・・・そうですよね?)。この質的な違いは、量的に重要な意味を持ってるんだろうか?

前もって言っておくべきことがある。お金を刷れない政府もたくさんあるし(カナダの州政府とか、ユーロを導入している国の政府とか)、お金を刷れる家計もある(商業銀行を所有している家計とか、銀行株を保有している家計とか)ってことだ(電子版の「刷られた」お金は除外しておこう。そんなに重要じゃないし)。

とは言え、「中央銀行が刷るお金」と「商業銀行が刷るお金」との間には違いもある。その違いは二つ。

一つ目の違いは、中央銀行は通貨を刷る(法律上か、事実上かの)独占権を有している(のが通常である)一方で、民間の商業銀行は他の商業銀行と競い合って要求払い預金を「刷って」いる(のが通常である)ことだ。独占企業は、独占利潤を手にできる(のが通常である)が――政府が中央銀行を所有しているようなら、その利潤は政府の懐に入ることなる――、競争を繰り広げている企業は、新規参入という脅威があるゆえに、独占利潤を手にできない(のが通常である)。

二つ目の違いは、民間の商業銀行は「自らが刷るお金」と「中央銀行が刷るお金」の交換レートを固定する(すなわち、「自らが刷るお金」と同じ額の「中央銀行が刷るお金」を交換に支払うことを約束する)のが通常である一方で、中央銀行は「自らが刷るお金」と「商業銀行が刷るお金」の交換レートを固定したりしないことだ。中央銀行はアルファ型のリーダーであり、「自らが刷るお金」の価値を高めることも低めることもできる。それとは対照的に、商業銀行はベータ型のフォロワーであり、「中央銀行が刷るお金」の価値が高まったり低まったりするのに追従するしかない。中央銀行は「自らが刷るお金」の価値を高めもできるし低めもできるため、政府はお金(中央銀行が刷るお金)の価値を低めよと中央銀行に命令することがいつだってできる。お金の価値を低めて(インフレを起こして)、自らが負っている(固定額のお金の返済を約束している)債務(公的な債務)の負担を和らげるためにだ。商業銀行は、それに従うしかない。商業銀行(および、商業銀行を所有している家計)には、そんな芸当はできない。

「政府の予算」と「家計の予算」との間に質的な違いがあるのは確かなようだ。それじゃあ、現実において重要な意味を持つ違いなんだろうか? 現実において「量的に」重要な意味を持つ違いなんだろうか? 中央銀行が2%(か何%か)のインフレ目標の達成に邁進しているようなら、答えは「ノー」だ。中央銀行が2%のインフレ目標の達成に邁進しているようなら、お金の価値を左右できる力を使って(2%を大きく上回る)インフレを起こして、政府の債務を帳消しにしよう(事実上の財産没収に協力しよう)なんてしないだろうからだ。2%のインフレ目標が達成されているようなら、物価が今後も2%の伸び率で上昇するだろうと予想されてそれが名目金利(政府や家計が負う債務に課せられる金利)にも織り込まれるだろう。中央銀行が通貨を独占的に刷れる(発行できる)おかげで生まれる独占利潤のうちで政府の懐に入る分にしても、そんなに多くない。大雑把な計算になるが、通貨発行残高の対GDP比が5%で、名目GDPの成長率が5%(実質GDP成長率3%、インフレ率2%)だとすると、5% x 5% = 0.25%。すなわち、 通貨の発行に伴って政府の懐に入る収入の大きさは、対GDP比で0.25%に過ぎない。独占利潤という実(み)がなっている魔法の木ではあるが、小さくてかわいらしい木だ。大木じゃない。他の財源の方がもっとずっと多くの収入を政府にもたらしてくれているのだ。

でも、極度の緊急事態になったら、2%のインフレ目標が放棄されることもあり得るんじゃなかろうか? あり得るかもしれないね。でも、政府には財産を没収するっていう手もあるからね。

5. 政府は、無限の期間にわたって存続する(可能性を秘めている)。 家計は、有限の期間しか存続できない。

経済学者がよく口にする違いだが、それって本当なんだろうか? 仮に本当なんだとして、重要な違いなんだろうか?

革命が起きて政府が打倒され、また一からすべてがやり直されることが時にある。国家が消滅することだってある。その一方で、自分が死んでも家を絶やしたくないようなら、子や孫をもうけたり、養子を受け入れたりできる。財産を信託したり、会社をはじめたっていい。どこがどう違うっていうんだろう?

本丸へ進もうじゃないか。5なんか素通りして、6に移ろう。

6. 政府は、債権(資産)を上回る債務――負の遺産(純債務)――を次世代に受け継がせる(相続させる)ことができる(のが通常)。家計は、そうはできない(のが通常)。

私は、自分の資産を我が子に譲り渡すことができる。私の債務の一部も同じく譲り渡すことができる。住宅ローンが残っている家とかをね。でも、我が子は、私から遺産を受け継ぐのを拒否できる。いつだって拒否できる。私から受け継ぐ資産(債権)の額が債務の額を下回っているようなら、おそらく受け取りを拒否するだろう。我が子に「負の遺産」を押し付ける(受け継ぐように強要する)ことはできないのだ(過去のエントリーのコメント欄で教えてくれた人がいたが、親の借金を子供が引き継がないといけないことが法律で決められていた国があったみたいだ。今もまだあるかもしれない)。その一方で、政府は、我が子(をはじめとする将来世代の納税者)に国(政府)の借金という「負の遺産」を受け継ぐように強制できる(強制されたとしても、「負の遺産」の額があまりに大きいようなら、我が子はどこか別の国に移住するかもしれない)。

「国(政府)の借金は、将来世代の納税者に先送りされた重荷(負担)なんかではない。というのも、将来世代は、政府が借金を返済するために徴収する税金という名の債務を受け継ぐだけでなく、国債という名の資産も受け継ぐからだ。すなわち、自分で自分に借金しているようなものなのだ」・・・なんて語る経済学者がいるが、どうなんだろうね? 「受け継ぐ」(“inherit”)っていう言い回しを弄(もてあそ)んでいるようにしか思えないね。どこかの家の子が親から国債を無料で文字通り(正真正銘の遺産として)「受け継いだ」としたら、それは確かに「負の遺産」じゃない(国債を償還するために課せられる税金のせいで資源の配分が歪められる点は脇に置いておこう)。親から受け継いだ国債という「正の遺産」と、その国債を償還するために課せられる税金という「負の遺産」がちょうど打ち消し合うからだ。でも、親の世代が子の世代に国債を売るとしたら、子の世代は自分たちが負う債務であり資産を親の世代にお金を払って受け継ぐことになる。債務者の欄に自分の名前が書かれている借用書をお金を出して買うみたいなものだ。「負の遺産」を孫の世代に押し付けることができない限り、子の世代が「負の遺産」を受け継ぐ羽目になって損をすることになる。

ここで「おや?」と思うような話に移る。国債の金利が経済の成長率を一貫して下回っているようなら、「負の遺産」を孫の世代だけでなく、ひ孫の世代、さらにその先の世代へと連綿と押し付けるのが可能になるのだ。新たにお金を借り入れて(新たに国債を発行して)これまでの借金(既発国債)の金利を返済していき、借金(国債)の残高が金利と同じ割合で増えていく。いわゆるポンジ・スキームってやつだ。しかし、ポンジ氏の企みとは違って、いつかは終わりが来ると考えるべき理由はない。経済の成長速度が借金の膨張速度を一貫して上回っている――経済の成長率が国債の金利を一貫して上回っている――ようであれば、国債の金利を支払うのに必要な額以上のお金を新たに借りても(国債を新たに発行しても)、国債残高の対GDP比が上がり続けないことだってあり得るのだ。これは単なる理論的な可能性にとどまる話ではなく、いくつかの国では国債の金利が経済の成長率を下回るのはよくあることなのだ。

子がいる家計が同じ真似をできないのはどうしてなんだろうか? 「おい、お前。父さんの借金を受け継いでくれないか。借金を受け継ぐと同時に、父さんの名前と評判も一緒に受け継ぐことになるんだぞ。父さんの威光のおかげで、借金の金利も経済の成長率を下回ってるんだぞ。そこそこの出費であれば、お前も我が一族の名前を使ってお金を借りて賄えばいいんだし、そうすればいい生活が送れるぞ」。・・・うまくいくだろうかね? 一族から才人が輩出され続けるようなら、うまくいくかもしれないし、「負の遺産」も連綿と先送りされることになるだろうね。

このあたりでやめにしておこうと思う。


〔原文:“So, what are the differences between a Government’s Budget and a Household’s Budget?”(Worthwhile Canadian Initiative, October 27, 2017)〕

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